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筋トレ令嬢

暇つぶしに身体を鍛え始めた侯爵令嬢は、社交界に筋トレを流行らせました。

作者: 柊イルゼ
掲載日:2026/09/09

婚約破棄された侯爵令嬢は、暇つぶしに身体を鍛えることにしました。

https://ncode.syosetu.com/n0555mr/

の続きです。


前作同様、ゆるふわ設定でお送りします。

 王都の社交界において、美しい身のこなしとは努力の痕跡を見せないものである。

 背筋はまっすぐ伸びていて当然。舞踏会で何曲続けて踊っても息を乱してはならず、重いドレスをまとったまま長時間立ち続けようとも、疲労など存在しないかのように微笑んでいなければならない。


 少なくともカーテローゼは、これまでずっとそう思っていた。


 その夜も、王宮の大広間では軽やかな舞曲が流れていた。

 カーテローゼは、以前にも何度か踊ったことのある伯爵令息の手を取り、音楽に合わせて足を運ぶ。久しぶりに、ごく普通の舞踏会らしい時間だった。

 婚約解消の直後、カーテローゼは夜会や茶会に顔を出すこと自体が億劫になり、どうしても欠席できないものを除いてはしばらく社交の場から遠ざかっていた。出席したところで、事情を知りたい者からは好奇の目を向けられ、事情を知らぬ者からは腫れ物のように扱われるのだ。

 しかし、季節がひとつ巡る頃には、社交界もさすがに飽きたらしい。こうして久しぶりに夜会へ顔を出してみれば、誰かが普通に話しかけ、普通に踊りを申し込んでくる。

 以前とまったく同じではない。しかし、これくらいで十分だった。


 カーテローゼは相手の動きに合わせて一歩下がり、身体を回す。

 

――おかしいですわね。


 ふと、そう思った。

 何かが違う。

 足運びを間違えたわけではないし、相手が特別踊りやすいわけでもない。曲そのものも何度となく踊ったことのあるものだ。

 なのに、今日は身体が妙に軽かった。回転しても軸がぶれないし、重いドレスの裾をさばくために足を運んでも、以前のように腰へ重さが溜まってこない。背中も張らず、姿勢を保つために意識して肩を引く必要すらなかった。

 ただ立っているだけで、身体が勝手に収まるべきところへ収まっているような、不思議な感覚がする。


――まだ二曲目ですものね。


 そう思い直しかけて、やめた。

 以前なら一曲目からすでに、重いドレスをまとって踊るという行為そのものを少し面倒に感じていたはずだ。

 ところが今夜は、それがない。

 

 曲が終わる。

 カーテローゼは相手と礼を交わした。

「ありがとうございました、カーテローゼ嬢」

「こちらこそ。ご一緒できて光栄ですわ」

 ごく普通の挨拶を交わして別れる。それから人波を避けるように広間の端へ向かったところで、横からすっとグラスが差し出された。

「ほら」

「……ありがとうございます」

 顔を上げると、ルーカスが立っていた。濃紺の礼装姿ではあるものの、鍛錬所で顔を合わせるときと変わらない調子で、もう片方の手にも自分用らしいグラスを持っている。

 カーテローゼは受け取った果実水を一口飲んだ。ほどよく冷えていて、酸味が心地よい。

「踊った後は水分を取っておいた方がいい」

「二曲踊っただけですわ」

「二曲でも動いたことには変わりない」

 最近では鍛錬の最中にも、ベルタやルーカスから散々、水を飲めと言われている。喉が渇いたと感じる前に飲め、とまで言われた。最初は大袈裟だと思っていたが、一度、夢中になって身体を動かしたあとでひどく頭が重くなって以来、カーテローゼも素直に従っていた。

 ルーカスが広間へ視線を向ける。

「ずいぶん普通に踊ってたね」

「どういう意味でしょう」

「いや。前より楽そうだったから」

 カーテローゼはグラスを持ったまま、彼を見る。

「……おわかりになります?」

「まあ、見てればね」

「実は、わたくしも先ほどから少し妙だと思っていたのです」

 ルーカスの眉が動く。

「どこか痛めた?」

 即座にそう聞かれて、カーテローゼは少し笑った。

「いいえ。以前なら、この辺りでもう腰が重くなっていた気がするのです。背中も疲れますし、回転するときには姿勢を崩さないよう意識していました。でも今日は、なんともありませんの」

「それは、鍛えたからだろう」

 あまりにもあっさり言われたので、カーテローゼは瞬いた。

「……やはり、そうなのでしょうか」

「他に何がある? 脚も背中も前より強くなってるし、腹もちゃんと使えるようになったよね」

「腹」

「そこで令嬢みたいな顔しない」

「令嬢ですわ」

「知ってる」

 ルーカスは笑いながら果実水を飲んだ。

 重いものを持ち上げたり引いたりすることと、舞踏会で美しく踊ることなど、まるで別のものだとカーテローゼは思っていたが、身体にとってはそうでもないらしい。

「では、もう少し屈伸運動《スクワット》の重量を増やせば、さらに楽になるかもしれませんわね」

「うーん、重ければいいってものでもないんだよ」

「脚が強くなればよいのでしょう?」

「この前、最後の二回で膝が内側に入っていたよね。無理は怪我の元だよ」

「……見ていらしたのですか」

「危なっかしくてヒヤヒヤしてたから」

「でしたら、その場で仰ってくださいませ」

「途中で声をかけて、余計に崩れたら困る」

「では、次回も同じ重量で?」

「そう。まず今の重さで、綺麗に全部できるようになることだね」

「承知しました」

「素直だな」

「わたくしはいつでも素直です」

「そういうことにしておくよ」

 失礼である。

 だが、反論する前に次の曲が始まり、別の令息がこちらへ歩いてきている。どうやら次の踊りを申し込みに来たらしい。ルーカスもそれに気づいたのか、半歩退いた。

「じゃあ、また鍛錬所で」

「ええ。また」

 あまりにもいつも通りの別れ方だった。

 カーテローゼは何も気にせず次の相手へ向き直り、ルーカスもその場を離れていく。

 

 その二人を、少し離れたところから眺めていた令嬢たちがいた。

「ルーカス様、カーテローゼ様にお飲み物を?」

「ずいぶん自然でしたわね」

「そういえばお二人、先日も郊外へご一緒されたとか」

「もしかして、――」


 確かに先日、ルーカスと二人で郊外まで出かけた。湯にも入り、食事もした。

 けれど、そこで二人が熱心に話し合ったのは、湯治場の湯に含まれる鉱物の違いが身体の疲れにどう影響するのか、そして湯上がりの食事には肉と魚のどちらが適しているのか、ということだった。帰り道には、付け合わせの豆料理についてまで意見を交わした。

 少なくともカーテローゼは、そこに何か特別な意味があったとは思っていなかった。

 

「――それにしてもカーテローゼ様、近頃少しお変わりになったと思わない?」

「やっぱり貴女もそう思う?」

「ええ。なんというか……以前よりずっと、お綺麗になられたような」

「少しお痩せになったのかしら」

「でも、お顔は前より健康的ではなくて?」

「姿勢かしら。首から肩にかけて、すっとしていらっしゃるのよね」

「腰も細く見えるわ」

「それに――」

 彼女たちの視線が、次の曲へ向かうカーテローゼの背中を追う。

「先ほどからずっと踊っていらっしゃるのに、少しもお疲れに見えませんわ」

 女性というものは、他人の変化によく気づくものだ。特にそれが、美容に関することであれば。


 * * *


 その数日後。

 アルバートの鍛錬所に三人の令嬢が現れた。いや、正確には、押しかけてきた。

「カーテローゼ様!」

 重りを持ち上げていたカーテローゼは、その声に驚いて腕を止めた。

「はい?」

「やはりこちらでしたのね!」

「見つけましたわ!」

「ごきげんよう!」

 色とりどりのドレス姿の令嬢三人が、入り口に立っている。

 明らかに場違いだった。さらに場違いなのは、その後ろにいる三人の侍女である。こちらは全員、主人がなぜこんなところへ来たのかわからないという顔をしていた。

「……カーテちゃん、知り合いかい?」

 いつの間にかベルタは、カーテローゼの名を縮めて『カーテちゃん』と呼ぶようになっていた。

「ええ。たしか……」

 王宮の茶会で何度か言葉を交わしたことがある侯爵令嬢のエレオノーラ、伯爵令嬢のミレーヌとソフィア。

 年齢はカーテローゼと同じか、少し下だったはずだ。

「どうなさいましたの?」

「教えていただきたいのです!」

 エレオノーラが一歩前に出る。

「何をでしょう」

「美しくなる方法を!」

 カーテローゼは黙り、ベルタが吹き出す。

「……お聞きになる相手を間違えていらっしゃいませんか?」

「いいえ!」

「最近のカーテローゼ様、とてもお綺麗ですもの!」

「お肌もつやつやで血色がよろしくて」

「立ち姿もすらりとしていらして」

 三人が口々に言い、カーテローゼは困惑した。

 化粧品は以前から変えていないし、食事も特に変わっていない。むしろ鍛錬所へ通うようになってからは、以前よりよく食べるようになったくらいだ。

「何か特別な美容法を始められたのでしょう?」

「そんな、特別なことは何も……」

 そこでカーテローゼは、自分の右手に握られた重りを見た。つられて三人も見る。

「……これを持つだけで、綺麗になれますの?」

「持つだけでは何も起きませんわ。身体を鍛えるのです」

「身体を」

「鍛える……」

「……わたくしたちが?」

 三人がそろって自分の身体を見下ろした。それから、ほとんど同時に視線が横へ動く。

 そこには腕を組んだベルタが立っていた。

 胸や腰には女性らしい丸みがあるが、肩や腕にはしっかりと筋肉がついている。華奢とはほど遠いものの、安定した立ち姿はいかにも健康的で頼もしい。

「……あの」

 ミレーヌが恐る恐る口を開く。

「身体を鍛えるということは、その……わたくしたちも、いずれ、たいそう逞しくなったりは……?」

 また三人の視線が、そろりとベルタへ向かった。

「なんだい」

「い、いえ!」

 カーテローゼはようやく、彼女たちが何を心配しているのか理解した。

「わたくしも、始める前には少々気になりましたわ。ですが……」

 軽く両手を広げて、その場でくるりと回ってみせる。

「ご覧の通りです」

 三人は、遠慮なくカーテローゼを上から下まで眺めた。

 痩せた、というのとは少し違う。細身なのは以前と変わらないのに、肩は自然に開き、背筋はしゃんと伸び、身体の線が以前よりすっきりとして見える。

「……確かに」

「あんたたち、あたしがどれだけ重いもの持ってきたと思ってるんだい。そう簡単にこうなられちゃ立つ瀬がないよ」

 ベルタが呆れたように言い、三人は再び顔を見合わせる。

 しばしの沈黙のあと、エレオノーラが一歩前へ出た。

「……では、やります!」

「わたくしも!」

「わたくしもです!」

 その様子を黙って眺めていたアルバートは、奥から小さな重りを三つ持ってきて、目の前の床に置いた。腕の種目ならば、ドレスの裾を踏む心配もない。

「まあ。これならわたくしにもできそうですわ」

 その十五分後。

「無理ですわ!」

 エレオノーラが叫んでいた。

「まだ八回ですよ。十回まで、さあ」

「……カーテローゼ様が、急に、……あ、悪魔に見えて……」

 少し離れたところで、ルーカスが顔を背け、肩を震わせている。

「笑っていないで手伝ってくださいませ」

「いや……少し、待って」

 どうにか笑いを収めようとしているらしいが、うまくいっていない。

「始めた頃の君と……同じことを言っているから」

「……わたくしは、少なくとも叫びませんでしたわ」

 その間にも、三人の令嬢はそれぞれ最後の二回と格闘していた。

「あと……ひとつ……!」

「もう、腕が上がりませんわ!」

「あと一回です、終われば休めます」

 やがて三人はほとんど同時に近くの長椅子へ崩れ込んだ。

「腕が、重いですわ……」

「肩も……」

「皆様、よくできました」

 カーテローゼが労うと、ベルタが三人の前に、白っぽい液体の入った杯を並べた。

 エレオノーラがそれを覗き込む。

「……これは、何ですの?」

「アルバート体術鍛錬所特製、豆汁だよ!」

「豆……汁?」

 三人の視線が、一斉にカーテローゼへ向いた。

「お先にいただきますわね」

 カーテローゼは何の疑問もなく自分の杯を取り、平然と一口飲んだ。それを見届けてから、三人も恐る恐る口をつける。

「…………」

 エレオノーラの目が見開かれた。ミレーヌは二度瞬き、ソフィアは杯の中身を確認するようにもう一度覗き込んだ。

「……豆ですわ」

「豆汁ですもの」

「ものすごく豆ですわ」

「豆汁ですから」

 ベルタが豪快に笑った。

「いろいろ工夫したから、最初の頃よりずいぶん飲みやすくなったんだけどねえ」

 三人は再び杯を見つめた。

 身体を動かした後で喉は渇いている。何より、カーテローゼが平然と飲み干している。エレオノーラは意を決したようにもう一口飲んだ。

「……不思議ですわ。二口目はさほど驚きません」

「慣れですわね」

「美容にもよろしくて?」

「身体を作る材料になるそうですわ」

 カーテローゼは『美容にいい』とはひとことも言っていないのに、三人の目つきが変わった。

「では、この豆汁がカーテローゼ様の美しさの秘訣なのですわね!」

「まあ……でしたら、わたくしも毎日いただきますわ」

「これを飲めば――」

「汁だけじゃ駄目だよ!」

 ベルタの声が鍛錬所に響き、三人がびくりと肩を揺らす。

「身体動かして、ちゃんと食べて、その上で飲むんだ。豆汁だけ飲んで綺麗になれるなら、あたしはとっくに王都一の美女だよ!」

「……ベルタ」

 奥で器具を片づけていたアルバートが、ぼそりと言った。

「じゅうぶん、綺麗」

 一瞬、鍛錬所が静まり返る。

「……あんたは黙ってな!」

 ベルタの耳が少し赤くなった。

 カーテローゼは何も見なかったことにして、自分の杯を口元へ運んだ。

 

 エレオノーラたちは豆汁には興味を示したものの、帰りの馬車に乗り込むまで、口々に痛い、重い、もう無理だと訴え続けていた。扇子はおろか手袋を持つのさえ重いと嘆く三人の後を、侍女たちが心配そうな表情でついていく。

 これでもう二度と来ないだろう。カーテローゼもベルタも、そう思いながら見送った。

 

 * * *

 

 三日後。

 三人はまた現れた。今度は動きやすい服に身を包んで。

 それからひと月ほど、三人は驚くほど真面目に鍛錬所へ通い続けた。最初の頃は十回の屈伸運動《スクワット》に悲鳴を上げていた彼女たちも、少しずつ動きに慣れ、翌日の筋肉痛を笑って話せる程度にはなった。

 そして、その変化に気づいたのは本人たちより周囲の方が先だった。

「エレオノーラ様、最近姿勢がお綺麗になられましたわね」

「ミレーヌ様、少し腰回りがすっきりなさった?」

「ソフィア様、お肌がつやつやですのね」

 茶会でそんな言葉をかけられることが増えたらしい。そこで三人は、得意げに鍛錬所の話をした。

 

 美しくなれる。


 その一言さえあれば、令嬢は多少の苦痛など厭わない。

 美しくなるためにこれまで彼女たちが耐えてきた苦痛に比べれば、筋肉痛など大したものではなかった。食事を減らす必要もなく、きつく締め上げる下着も不要。怪しげな薬草茶を鼻をつまみながら飲むこともない。

 気がつけば、鍛錬所には見慣れない令嬢の姿が混じるようになっていた。

「カーテローゼ様! 今日は前回より一回多くできました!」

「素晴らしいですわ。その調子でお続けになって」

 そうして少しずつ、鍛錬所の光景も変わっていった。

 最初は重りを持ち上げることそのものに戸惑っていた令嬢たちも、何度か通ううちに動きに慣れ、以前より回数が増えた、少し重いものが持てたと、ささやかな変化を喜ぶようになった。カーテローゼもいつの間にか、尋ねられれば姿勢を見たり、ベルタから教わったことを伝えたりするのが当たり前になっている。

 

 そんな日々を重ねるうちに季節は進み、王都の社交界では、秋恒例のある催しが話題に上るようになっていた。


 * * *


 毎年秋、王妃の御前で開かれる礼法披露会。

 その名の通り、令嬢たちが日頃身につけた礼法を披露する場であり、歩き方や立ち居振る舞い、挨拶、茶器の扱い、舞踏に至るまで、淑女として求められるさまざまな所作を、王妃をはじめとする高位貴族の女性たちが審査する。名称だけを聞けばいかにも優雅で穏やかな催しだが、参加する若い令嬢たちにとっては、社交界における年に一度の一大決戦にほかならなかった。

 最も優れた令嬢には、その年の栄誉として銀薔薇の冠《ティアラ》が授けられる。銀細工の薔薇を連ねたその冠は、代々この礼法披露会のために受け継がれてきたもので、最優秀者だけが一年のあいだ、王宮で催される夜会で身につけることを許されている。その年もっとも優雅な淑女であることを、誰の目にもわかる形で示す証である。

 当然ながら、それを戴くことは本人だけでなく家にとっても大きな名誉だった。社交界での評判は上がり、良縁にもつながるとあって、令嬢たちは何か月も前から礼法教師を招き、歩き、座り、微笑み、茶を注ぎ、少しでも美しく見える所作を磨き上げていく。

 カーテローゼも、年頃の令嬢として当然のように毎年この礼法披露会へ参加してきた。特別に意気込むことも、逆に避ける理由もない。幼い頃から身につけてきた礼法を披露する、社交界の恒例行事のひとつである。今年も例年と同じように参加するつもりだった。

 

 ところが、いざ披露会を迎えてみると、例年とは少しばかり勝手が違った。

「脚が疲れませんわ……」

 一次審査を終えたミレーヌが、確かめるように自分の脚へ目を落とした。

「わたくしもです」

 エレオノーラも不思議そうにしている。

 礼法披露会は長く、待機時間も含めればほぼ一日仕事である。午後になる頃には、多くの令嬢が笑顔の裏で腰や足の痛みに耐えている。

 ところが鍛錬所組は平然としていた。

「屈伸運動《スクワット》より楽ですわ」

 ソフィアが言い、カーテローゼは頷く。

「重りもありませんものね」

「……わたくしたち、いつの間に何でも屈伸運動《スクワット》と比べるようになったのでしょう」


 その変化は、やがて審査する側の目にも留まった。

 例年なら、時間が経つにつれて肩が強張ったり、歩調に乱れが出たりする令嬢も少なくない。けれど今年は、最後まですっと背筋を伸ばし、軽やかな足取りを保つ者が目についた。

 なかでも何人かは、長く立ち続けたあとでさえ立ち姿に揺らぎがなく、歩み出せば裾さばきまで安定している。

「今年は、ずいぶん姿勢の美しい方が多いようですね」

 王妃が扇を広げ、興味深そうに目を細めた。

「近頃、一部の令嬢方が新しい鍛錬を始めているそうでございます」

 側にいた筆頭公爵家の夫人が耳打ちする。

「鍛錬?」

 王妃の眉が上がった。

「はい。身体を……鍛えるのだとか」

「鍛える……」


 最優秀の座――銀薔薇の冠《ティアラ》を戴いたのは、幼い頃から王宮礼法に親しんできた公爵令嬢だった。

 そして、その次に名を呼ばれたのは――

「第二席、カーテローゼ・フォン・ヴァルデック!」

 一瞬、会場に小さなどよめきが走る。さらに、エレオノーラが奨励賞、ミレーヌが立ち姿を評価する優姿賞、ソフィアが舞踏優秀賞に選ばれた。

 改めて受賞者を見渡してみれば、そこには鍛錬所で見覚えのある令嬢たちの顔がいくつも並んでいた。

「……偶然、ですわよね?」

 エレオノーラが小声で言った。

「偶然にしては、少し出来すぎていますわね」

 カーテローゼも、受賞者たちを見渡しながら首を傾げた。

 

 その日のうちに噂は広がった。

 翌日には、


 ――上位や各賞に入った令嬢の多くが、同じ鍛錬所へ通っているらしい。


 という話になり、三日後には、


 ――身体を鍛えれば姿勢が美しくなり、腰がすっきりして、舞踏まで上達する。


 になった。

 そして一週間も経つ頃には、


 ――『カーテローゼ式美容鍛錬』をすれば、銀薔薇の冠《ティアラ》に近づける。


 とまで言われるようになっていた。

 カーテローゼは困ったように小さく息をついた。

「わたくし、そのようなものを考案した覚えはありませんわ」

 隣でルーカスが愉快そうに笑っている。

「笑い事ではありません。だいたい、わたくしはベルタやアルバートに教えていただいたことをしているだけですのに」

「すっかり有名人だね、カーテ」

 いつの頃からか、ベルタの『カーテちゃん』につられて、ルーカスまでそう呼ぶようになっていた。

「嬉しくありません」

 わずかに眉を寄せると、また笑われた。

 最近、ルーカスはよく笑う。

 もしかしたら、以前からこういう人だったのかもしれない。カーテローゼが彼とこれほど頻繁に言葉を交わすようになったのが、ここ数か月のことなのだ。

 王都では勝手に名前を使われ、美容鍛錬を編み出した本人のように扱われているというのに、ルーカスの態度は何ひとつ変わらない。鍛錬所で会えば扱う重りについて口を出すし、無理をしそうなら止める。終われば一緒に豆汁を飲む。時には二人で出かけることもある。

 では、この関係を何と呼ぶのだろう。


 友人? おそらく、そうだ。

 鍛錬仲間? 間違いなく、そうだ。

 戦友? 少々大袈裟かもしれないが、最後の一回を絞り出す苦しみを共有しているという意味では、案外これが最も近い気もする。


 そこまで考えたところで、ルーカスがこちらを見た。

「どうしたの、難しい顔して」

「……わたくしとルーカス様の関係を、どう呼べばよいのかと考えておりました」

 ルーカスが少しだけ黙った。

「……俺もそれ、たまに考える」

「そうなのですか」

「で?」

「鍛錬仲間、という結論になりました」

「……そう」

 また、なぜか少し残念そうな顔をする。

「違いますか?」

「いや。間違ってない」

「でしたら、よろしいでしょう」

「そうだね」

 それ以上、ルーカスは何も言わなかった。


 * * *

 

 ある日、いつもは鍛錬所の奥にいることの多いアルバートが、珍しく外から戻ってきた。手には、見慣れない瓶が一本。

「なんだい、それ」

 ベルタが声をかけると、アルバートはその瓶を机の上へ置いた。

 中には白く濁った液体が入っている。可憐な花模様のラベルには、大きく――

『貴婦人のためのカーテローゼ式・美麗豆汁』

 ベルタの表情が変わった。

「何だい、これは!」

 瓶を取り上げ、改めてラベルを睨みつける。

「……どこで売ってたんだい、これ」

「市場」

 その声を聞きつけて、鍛錬の合間だったカーテローゼが寄ってきた。

「どうなさいましたの?」

「カーテちゃん、これ見てみな」

 ベルタに差し出された瓶を受け取り、ラベルへ目を落とす。しばらく瓶とベルタを見比べたあと、カーテローゼは困惑したように眉を寄せた。

「……わたくし、豆汁を自分の名で売り出した覚えはございませんけれど」

「知ってるよ!」

 アルバートが無言で瓶を取り戻した。

「ちょっと、あんた何するんだい」

 瓶の栓を抜き、匂いを確かめる。それからほんの少しだけ杯へ注ぎ、口に含んだ。

「アルバート!」

 ベルタが声を上げる。

 アルバートはしばらく黙って味を確かめていたが、やがて眉間に皺を寄せた。

「……偽物」

「そりゃ見ればわかるよ。身体は何ともないのかい?」

「平気」

「本当だろうね」

 ベルタは念を押してから、今度は自分の杯へ少量だけ注いだ。慎重に一口含むと、同じく眉間に皺を寄せる。

「……薄いね」

 もう一度味を確かめる。

「豆の香りもほとんどしないじゃないか。それに、この妙な甘さ……安い糖蜜か何かでごまかしてるんだね」

 カーテローゼが覗き込む。

「そんなに違いますの?」

「カーテちゃんは駄目だよ。こんな得体の知れないもの、お嬢様に飲ませられるかい」

「まずい」

 アルバートがぼそりと言い、ベルタが吹き出す。

「そこまで言うかい」

 アルバートはもう一口飲んだ。

「やっぱり、まずい」

「なんで二口飲むんだい!」


 それだけではなかった。

 数日もしないうちに、王都では『カーテローゼ式』を名乗る品が次々に見つかるようになった。

『カーテローゼ式姿勢矯正帯』

『礼法披露会上位入賞令嬢御愛用・筋力増進薬草茶』

『一日五分で貴婦人の身体を創る! 神秘の体操』

 カーテローゼの知らない商品が、いつの間にか溢れ始めていた。

「わたくし、『神秘の体操』など存じませんわ」

「そうだろうね」

「そもそも飲むだけで筋力が増強されるような薬草など――」

「あるわけないよ」

 横からルーカスが口を挟んだ。

 カーテローゼは手にしていた薬草茶の包みを、なんとも言えない思いで見つめる。

「どうしてこのようなものが出てくるのでしょう」

「売れるからだろうね」

 ルーカスの答えは身も蓋もなかった。

「君の名前と礼法披露会の話をくっつければ、それだけで買う人がいるってことじゃないか」

「迷惑な話ですわ」

 しかも困ったことに、偽物を買った者たちは、それが偽物だとは知らない。

 翌日には、例の薬草茶を手にした令嬢が鍛錬所へやってきた。

「こちら、本当にカーテローゼ様がお飲みになっているものですの?」

「いいえ」

 カーテローゼが答えると、令嬢は目を丸くした。

「では、こちらの帯は?」

「初めて拝見しました」

「『神秘の体操』は?」

「存じませんわ」

 三度目ともなると、カーテローゼもさすがに困ったように眉尻を下げた。

 

 それからは、似たような問い合わせが後を絶たなくなった。

「では、本物の豆汁はこちらでいただけますの?」

「持ち帰ることはできます?」

「同じものを家でもいただきたいのですけれど」


「そんなに欲しいなら、自分の家で作りな!」

 とうとうベルタが音を上げた。

「豆を水に浸して、潰して煮て、布で漉すんだ。難しいものじゃないよ」

「あの、どちらの産地の豆を取り寄せれば?」

「どの産地って……普通の豆だよ」

「……普通の豆?」

「そう、普通の豆。どこの市場でも売ってるやつさ」

「まあ!」

「料理人に伝えますわ!」

「大事なのは豆じゃなくて、身体を動かす方だからね!」

 こうしてベルタは、成り行きで豆汁の作り方まで公開する羽目になった。


 これで少しは静かになる。


 そう思ったのだが、今度は別の質問が飛んできた。

「では、カーテローゼ様方がなさっている鍛錬も、こちらで教えていただけますの?」

 ベルタは黙った。

 カーテローゼも黙った。

 アルバートだけが、いつも通り無表情だった。

 礼法披露会をきっかけに増え始めていた令嬢たちは、偽物騒動を境にさらに数を増した。本物の豆汁を確かめたい。実際の鍛錬を教わりたい。せっかく来たのだから、自分も試してみたい。

 そんな者たちが次々に足を運び、とうとう朝から鍛錬所の前に女性が並ぶようになった。

 

「誰が来たって構わないとは言ったけどさ」

 ベルタは腰に手を当て、鍛錬所を見回した。

「まさか貴族のお嬢さん方が、こんなに押しかけてくるとは思わなかったよ」

 問題は、単に人数が増えたことだけではなかった。

 これまでの客なら、空いている場所で着替え、水を飲み、鍛錬が終われば入口脇の瓶に銅貨を数枚落として、そのまま帰っていく。釣り銭が必要なら勝手に取っていくくらいの、気楽なものだった。

 ところが貴族の令嬢ともなれば、そうはいかない。人目を避けて着替えられる場所が必要だし、乱れた髪や衣服を整えるのに鏡も欲しい。そもそも、自分で銅貨を持ち歩く習慣もない。初めて来た者には、器具の扱い方から教えなければならない。

 人が増えれば手間は増える。まして、今まで想定もしなかった層が客になれば、必要になるものまで変わってくるのだった。

「あたしは何屋になったんだろうねえ……」

 カーテローゼは少しばかり居心地の悪い思いで辺りを見回した。

「……わたくしが皆様に来るよう勧めたわけではないのですが」

「わかってるよ。カーテちゃんのせいじゃないさ」

「……そうですわよね」

「繁盛するのはありがたいんだけどねえ……」

 ベルタはそう言って、「付き添いの侍女はどこで待てばよいのか」と尋ねられているアルバートの方へ目をやった。

 アルバートはしばらく考えた末、

「……外」

「外は駄目だよ! せめて馬車で――」

 そこまで言って、ベルタは口をつぐんだ。

 鍛錬所の前には、すでに何台もの馬車が連なっている。

「……その馬車が邪魔なんだったよ」

 いつの間にか、問題は鍛錬所の中だけでは収まらなくなっていた。

お読みくださってありがとうございました。

もともとは一話完結のつもりで書いたお話でしたが、感想などをいただくうちに「せっかく鍛えたのだから、その身体を活かす話も書いてみたい」と思い、続きを書いてみました。

気づけば筋トレだけでなく、豆汁までずいぶん存在感を増しています。

もう少しカーテローゼたちの日々を書いてみたいと思いますので、よければお付き合いください。

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