梁と床の記憶
「これでよし、と」
ハンドタオルで額の汗を拭って、ついでに大きなお腹をひとさすり。この大きなお腹と重さにもだいぶ慣れてきました。あと数カ月かけてもう少し大きくなって、そのあとは私もお母さんになってしまうかと思うと、この重さもどこか愛おしいですね(ウソ。ほんとは結構しんどい(笑))。
ここ数日の孤軍奮闘によって、荒れ果てたお堂もぴかぴかになりました。ここは故郷にある唯一のお寺でしたが、私たちが物心ついたころには仏様もお坊さんもいない、がらんとした廃寺になっていました。
それでも、私たちにとっては思い出の場所であることに変わりはありません。なにせここは超が幾つもつく程のド田舎、最早辺境とでも言ったほうが相応しいレベルの田舎です。他に遊ぶ場所といえば山と川、そして近所のおじいさんがやっていた駄菓子屋ぐらいしかなかったのですから(初対面の人にこの話をすると「現代日本にそんな場所が!?」と驚かれます(笑))。
そんな田舎の子どもたちが、誰にも使われていなくてそこそこ広い、家以外の建物なんて絶好のロケーションを見逃すはずがありません。お堂は子どもたちのたまり場となり、かくれんぼやだるまさんがころんだで遊んだり、おじいさんのお店で買った駄菓子を食べたり、家出した時の逃げ込み先になったり…。いくつもの思い出がこのお堂にはあります。
ですが、ここしばらくは誰も足を踏み入れていなかったようです。
高校(バスで2時間かかる)卒業と同時に上京し、先に都会に出ていた幼馴染の男の子と再会して愛を育み、結婚してすぐに赤ちゃんを授かって出産のために帰郷してみれば、お堂はすっかり荒れ果てていました。どこから入ったのか腐った落ち葉が積み重なり、無数の蜘蛛の巣とカビ、獣のフンと虫の死骸で覆い尽くされたお堂を何日もかけて綺麗にしました。
お堂は取り壊しが決まっていると母から聞きましたが、一種の恩返しですね。夫とも一緒に遊んだ思い出の場所でもありますし、それに大人になると無性に子どものころの思い出をトレースしたくなるんですよね、覚えがありませんか?(笑)
もちろん、消せないものもあります。柱の傷、塗装がはげて飾りの崩れた須弥壇、よくわからない赤黒いシミのついた床。でもそれら全てもまた愛おしくて──
コツ、コツと床を踏む音がして、むわりと花のような甘い匂いが漂いました。
慌てて振り向くと、女性がひとり立っています。
一目で異常だとわかりました。
バレーかバスケの選手のような高い身長、膝まである亜麻色の艷やかな髪、同性の私でも見惚れてしまう圧倒的な美貌。足首まである白のパーカーワンピースにネイビーのブルゾン、黒いピンヒールブーツに包まれた肢体は高名な芸術家が心血を注いだ彫刻のよう。そして、右手にぶら下げた……あれは、日本刀?
息を呑んで後退りすると、須弥座に背中がぶつかります。……まずい、出入り口はあの女性が立っている後ろの扉だけ、回り込むこともできません。手元にあるのは雑巾と箒、ビニールロープ、そしてバケツの汚水だけ。もしあの女性が襲いかかってきたら……思わずお腹を腕で庇います。
「ねぇ、知ってる?」
女性は茫洋とした目でお堂を見渡しながら言いました。低くて抑揚のない、それでいて蕩けるように甘い声。暗い井戸の底から響いてくるような、重くて甘い蜜のような声。
「何年か前に、ここで首を吊った女の子がいたらしいよ」
……何の話でしょうか。こんな田舎にそんなスキャンダルがあれば噂にならないはずがありません。そして、私はそんな話は知らないし、聞いたこともありません。
「まだ若い子ですっごい美人だったらしいけど、死体の顔は赤紫色に腫れ上がって、目は白目をむいて口は舌を突き出して涎ダラダラ。ぶら下がった状態で弛緩するから色々垂れ流しでね、相当悲惨な死に様だったみたい。ま、そうそう綺麗になんて死ねないよね」
女性が刀をもった手を振ったので思わず頭を抱えて身をかがめます。が、何もおきないので恐る恐る目を開けると、女性は刀で梁を指しています。梁は結構高い位置にあるのですが、女性の身長と刀ならば届くようです。
それにしてもこの甘い匂い、なんなのでしょうか。べたべたと身体にへばり付くような甘い匂いが、扉から吹き込む風に乗ってお堂を満たしています。この女性のつけている香水か何かでしょうか?
「ここだね」
女性が刀で示す箇所には、たしかにうっすらと擦れたような跡があり、梁も少し歪んでいるようにも見えます。
女性が刀を真っ直ぐ下ろし、釣られて視線を動かすと、赤黒いシミのある床。
ぎっ……ぎっ……ぎっ……
揺れ動く何かが見え、軋むような音が聞こえた気がして、思わず目を瞑って両手で耳を塞ぎます。
「その子は親の都合で都会から引っ越して来た子でね。垢抜けて綺麗な子だったんだって」
……あぁ、いましたね、そんな子。
整えられた綺麗な髪、日に焼けてない肌、小学生なのにうっすらと施された化粧、綺麗でひらひらした服、そして田舎女を見下し馬鹿にする目。覚えています。
「村の男達、子どもたちも、おじさんも、おじいさんもみーんなその子に夢中になっちゃった。田舎だもんね、若い女の子少ないもんね。それで、いつしかついたあだ名が『姫』。あんまり捻りがないかな」
……たしかに夢中になっている男性は多かったですし、あの女も『田舎モンになんて興味ない』と公言していたわりに、持ち上げられ褒めそやされて調子に乗っていましたけれど。
でも、全員が夢中になっていたわけではありません。現に夫はあの女なんて眼中になかった、と言っていましたし。
それに、嫉妬していたのも最初だけ。子ども同士ですから、すぐに仲良くなりました。姫は田舎にはない、いろんなことについて教えてくれましたし。実際にそれらを目の当たりにしたのは大人になってからで、話に聞いていたものとは随分違っていましたけど。
「なにもないもんね、ここ。なら、身体ひとつで出来る遊びをするよね」
そうですね。鬼ごっこやケイドロ、シンプルにかけっこだったり、川では水遊びや釣りをしましたね。懐かしい、子どもの頃はよくあんなに体力があったなと我がことながら感心してしまいます。
ええ、姫もまたそんな仲間たちの一人で──
「なんで首吊っちゃったんだろうね、姫って子」
……さぁ、知りません。あの女は男どもに随分と人気がありましたし、家出と称して夜中にあちこちをふらふらとしている不良でしたから。持ち主がいなくなってそのまま放置されてる家なんて幾らでもありましたし、寝床には困らなかったでしょうね。私も何度案内させられたことか(といっても狭いコミュニティですから、すぐに居所なんてバレてしまっていたようですけどね)。
きっと田舎暮らしが余程不満だったのでしょう。暇とストレスに耐えかねて……といったところではないでしょうか。
何にせよ、私の知ったことではありません。
「ふふ」
女性は数歩下がり、扉付近で足を止めます。そして、うっすらと残る床のシミに手にぶら下げた刀を突き刺しました。……床材は硬い木の板ですが、豆腐に箸でも入れるように、抵抗なく吸い込まれていきます。
それにしても、この甘い匂い、どんどん強くなってきて、そろそろ胸や胃が焼けそうです。どこのブランドだか知りませんが、つけ過ぎはかえって下品だと思うのですが。
「ふうん」
女性は刀を床から引き抜くと、切っ先に舌を這わせました。頬が上気し、目が官能に濡れています。ダリアや彼岸花の花弁のような紅い舌がぬらりと刀身を這う様は、エロティックなのにどこか悍おぞましくもあります。甘い匂いが強くなって、僅かに腐った果実の匂いが混じった気がします。
「凄いね、まだ風化してない」
陶酔するような、甘く蕩けた声で女性は言います。普通なら年月と共に雲散霧消してしまうはずのものが、ここにはまだこびりついていると。
マンガの読みすぎなんじゃないでしょうか? そんな作品、昔ありましたよね、サイコなんとかってやつ。
女性がこちらを見ながら、ちろりと唇に紅い舌を這わせます。
……なんなんでしょうか、不快な目です。あとその舌、見せないでください。色が気持ち悪いですし、それに刀を突き立てた床のシミ、あれおしっこのシミですよ。そこにぶら下がっていたものを見て思わず腰を抜かして漏らしてしまった、可哀想な子の恥ずかしい思い出です。
さすがにおしっこの成分はもう残っていないでしょうが、汚いことには変わりなく──
「ざまあみろ」
ぎっ……ぎっ……ぎっ……
「ふふ」
……何が面白いのか、女は笑っています。砂糖と練乳をたっぷりとまぜたミルクティーのような胸焼けのする冒涜的な笑い声にイライラします。
「ねえ」
やめてください、話しかけないでください、甘ったるい声が不快です。むせ返す甘い匂いが嫌いです、見下すようなその美貌が不快です、見透かすようなその眼が憎いです。お前なんて──
「すっきりした?」
眼の前が赤く染まりました殺そう殺しましょうそれがいい手元のビニールロープこれならいけます自信があります女に体当りして押し倒し右手を踏み潰して刀を遠くへ蹴り飛ばす抵抗する女を何度も殴りつけて静かにさせロープで首を締めるあははご自慢の美貌も形無しですね白目をむいて鼻水を垂らし舌を突き出して白い肌も赤紫に変色してあはははお似合いですよあの泥棒猫と同じで
──ぎんいろの、ひかりが
「……え?」
気がつけば、私は須弥壇を背に座り込んでいました。女は日本刀をぶら下げたまま、立って梁を見ています。白い首には跡ひとつ残っていません。
「セットにすると価値の上がるものってあるじゃない? トマトとモッツァレラチーズとか、チャゲとアスカとか、中村と杉田とか」
……何が言いたいんでしょうか。
「趣味人コレクターとしてはそういうものも蒐集しておくべきかと思ってね。けどここにいらっしゃった仏様、よっぽど凄い力を持ってたんだね。風化せずに残っていられたのは、その仏様のご加護だよ」
興味ありません、見たことのない仏様なんて知ったことではありません。コレクターだかコレラだか知りませんが、用が済んだのならもう帰って欲しいのですが。
コツ、コツと音を鳴らして女が近づいてきて、私の顔を覗き込んできます。近づかれるとどろりとした蜜の匂いが一層強くなり、息が詰まるようです。
女の手が私のお腹を撫でました。ぞっとするぐらい冷たい手。撫で方は慈愛に満ちた聖母のようなのに、氷でも這わされたような冷たさ。思わず手を払い除けました。お腹の赤ちゃんになにかあったら許せません。
女が顔を近づけ、耳元で囁きます。甘くてどろどろとした、体の中でゆっくりと滴り落ちて行く蜜のような声。
「姫もお腹に赤ちゃん、いたらしいね」
知りません。あの女は誰のものでも咥え込む阿婆擦れでしたから、父親が誰かもわからない子を宿していても不思議ではありません。子どものころから夫一筋の私とは大違いです。
「あは」
女は立ち上がり、私に興味を失ったようにくるりと背を向け、コツ、コツと靴音を立てて出口へと歩いていきます。歩くたびにサラサラと長い髪が揺れ、服の上からでも分かる形の良いおしりが揺れています。
「じゃあね。元気な赤ちゃん産んでね」
そうして女は靴音を鳴らしてお堂から出ていきました。床は音が響く木の板で、あのピンヒールでもあんな足音はしないはずなのに。
「なんなの……あっ」
立ち上がろうとして足がもつれ、バケツをひっくり返してしまいました。汚水がぶちまけられ、せっかく綺麗にしたお堂が台無しです。服も汚れてしまって、もう散々です。厄日でしょうか。
さすがに、これからまた掃除をする気にはなれませんでした。というか、よく見たらお堂は全然ぴかぴかなんかじゃありません。壁はところどころ腐り落ちて穴が空き、ささくれだらけの梁には得体のしれない小さなな虫が這い、床にはこびりついた獣のフンが残っています。
なんだか急に、どうでもよくなりました。どうせ壊される予定の建物ですし、もう義理も果たしたでしょう。
夫ももうすぐ育児休暇をとってこちらに来てくれる予定ですし、準備することはたくさんあります。もっと有意義なことに時間を使うべきでした。
掃除道具を持って、お堂の扉を締めます。甘い匂いは最初からなかったように消え去っていました。お腹に残る冷たさだけが、さっきのことが夢ではないと示しています。
ぎっ……ぎっ……ぎっ……
なにか聞こえた気がしましたが、きっと気の所為でしょう。
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あの奇妙な体験からしばらくして、私は元気な女の子を出産しました。
最新の医療技術を使わない昔ながらの出産はとても苦しいものでしたが、産まれてきた赤ちゃんを抱いたらそんな苦しみもいっぺんに吹き飛んでしまいました。
村の皆も総出でお祝いしてくれて、毎晩のようにお酒やお肉、新鮮な野菜が届けれれ、大宴会が続きました。私がお乳をあげたり寝かしつけているときでも、居間からは大きな笑い声が聞こえてきます。まったく、誰が主役なんだか(笑)。
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10年が経ちました。娘はすくすくと育っています。
村はお産から半年後に出ました。今は都会のマンションに住んでいます。夫の仕事のこともありますからね。夫も若い頃は夜遊びが激しかったりと困った人でしたが、今では一児の父として、真面目に勤めているようです。昇進も決まったそうです。何もかも順風満帆ですね。
そういえば、お堂は無事に撤去されたと母から電話で聞きました。スマホ(故郷でスマホの電波が通じることにびっくりです)で送られたきた写真には僅かな基礎の跡以外は何も残っておらず、雑草が生い茂っているだけでした。
それにしても、我が子ながら娘は随分と美しく育ちました。私はお世辞にも器量良しとは言えませんが、都会でもプレイボーイとして名を馳せた夫のイケメン遺伝子を継いだようです。
美容院で整えられた綺麗な髪、日に焼けていない白い肌、雑誌に載っていたとねだられて買ってあげた綺麗な服、友だちに教わったという化粧。
娘は夫のことが大好きで、10歳になった今でも「大きくなったらパパと結婚する!」と公言してやみません。夫もそんな娘にデレデレで、いまだに一緒にお風呂に入ったりしています。お母さん少し寂しいわ。
「あれ、ママまたそのビニールロープ買ってる」
「あぁ、ごめんねえ。二人で買い物に行くとつい買っちゃうの。なんでかしらね」
「もーしっかりしてよママ。ほんとにパパ、あたしがとっちゃうよ?」
ぎっ……ぎっ……ぎっ……




