5章「受け継ぐもの」(弐)
何が起こっているのか。
この男は何をしようとしているのか。
制服のボタンを外され、胸元がはだけると同時に、男の手がスカートの中に入ってきて、弄られる。
そこで何をされるのかを理解した。
このままではいけない。
声を荒げ、必死に男を押しのけようと抵抗する。
しかしそれすら男の加虐心を煽るだけで効果はない。
下着に手をかけられ、いよいよもう駄目かと諦めかけたとき。
暴れたときに落ちたのだろう。
昔、実の父が、何かの賞を取ったときにもらったガラス製のトロフィーが手に触れた。
それを手に、自分の身体に夢中になった男に振り下ろす。
痛みに男が怯んだすきに、もう一度。
痛みで動けなくなったところで、男の体から這い出し、もう一度。
頭をめがけて何度も。
そうしているうちに、男は動かなくなった。
気がつくと、床に血が広がり、それがどんどん輪を広げていく。
男はピクリともしない。
はあ、はあ、と肩で息をする。
呆然としていると、玄関が開く音がした。
母親が帰ってきたのだろう。
ああ。
この状況を見たら、なんて言うだろうか。
手に持ったままだった、赤く染まったトロフィーを棚に置き、はだけた胸元を抑えて駆け出す。
廊下で母とすれ違う。
母は何も言わなかったが、リビングの状況を見て悲鳴を上げた。
コートを乱暴に掴み、急いで靴を履いて玄関から飛び出し、駆け出す。
◆
がむしゃらに走って、気がつくといつもの公園にいた。
一つだけある街灯が、冷たい光を放っている。
当然、公園は誰もいない。
しんと静まり返った中、ベンチに腰を下ろす。
ひんやりと冷たい感触が、衣服越しに伝わってきた。
自分は、あの男を殺してしまったに違いない。
そう考えると、身体が震えてきた。
起こったことが、頭の中で再生される。
いつもどおりに、少し遅い時間を見計らって帰っただけなのに。
自分の人生はもう、取り返しがつかないだろう。
いや、たとえ取り返しがきいたとして、あの男が無事だったとして、自分に何が残るのか。
学校ではいじめられ、自分の家すら安全ではない。
どこにも居場所なんてない。
絶望感でいっぱいになり、あふれ出た涙が止まらない。
ふと、芝生の上に木材やロープの束が置かれているのが目に入った。
冬囲いのための道具だろうか。
ふとした考えが頭をよぎった。
このままあのロープで首を吊ってしまえば、何もかも終わらせて、楽になれるのではないか。
それはとても、今までで最高の、良い考えのように感じて、泣いていたことも忘れてふらりと立ち上がる。
置かれていたはしごを木の幹にかけ、なんとか良さそうなところまで登る。
手近にあった丈夫な木の枝と、自分の首の後ろでロープをかた結びにして、ほどけないことを確認して。
そしてそのまま、はしごを蹴って倒すと、空中に身を踊らせた。
木と自分の首に結ばれたロープが、音を立ててピンと張る。
全身の重さが首一か所にかかり、ぐえっと声が漏れる。
強制的に呼吸が止まり、意図せず両手が首を掻き、もがくように足がバタつくが、それもすぐにおさまった。
意識は途切れ、すぐに切り離される。
全ては、終わりを迎えた。
◆
気がつくと、目の前には自分が木の枝からぶら下がっていた。
まだぶらぶらと揺れているが、その四肢はだらりと垂れ下がり、動く気配はない。
足からは液体が垂れ流しになっており、それが自分の尿だと知った。
顔は苦痛に目を見開き、眼球が飛び出さんばかり。
首は体重と重力の影響で引っ張られたためか、妙に伸びている。
喘ぐように開かれた口からは舌がはみだしていた。
これが自分の死に様か。
そう思うと、あまりに滑稽で笑えてきた。
生きている間はあんなに苦しんできたのに、死ぬのはこんなにも一瞬で、あっさりしたものだった。
自由になった。
これで誰も自分をいじめないし、殴らない。
襲われることもない。
居場所はどうかわからないが、少なくとも、人の目を気にする必要はない。
あとはあの世でもどこでも行けばいい。
そう思っていた。
◆
朝が来た。
自分はなんの変化もない。
ぶら下がる自分の死体とともに、ただそこに居た。
昼間近くになって、公園に人が来ると、ぶら下がった自分が発見された。
すぐに警察や救急車などが来て大騒ぎになる。
と、そこにあの男の子の姿を見つけた。
話しかけても大丈夫だろうか?
でも、こんな状況では遊ぶことはできない。
自然と「ごめんね」と口にだすが、誰にも聞こえないだろう。
そう思っていた。
が、男の子が自分の名前を呼び、ぱっと振り返る。
男の子と視線があったその瞬間、彼は驚いた表情とともに息をのんで、その場に倒れてしまった。
子供が急に倒れたことで、現場は更に大騒ぎになる。
新しい救急車が呼ばれ、すぐに男の子は運ばれていった。
どうしてそんなことになったのか。
理解はできなかった。
◆
どのくらい時間が経っただろう。
何故か自分では公園から出ることはできなかった。
どこにも行けず、ただ流れる時間を過ごす。
過ごしているうちに、木枯らしが吹く頃になると、自分と同じような人が、自分と同じように人生を終わらせることが増えた。
はしごに登って、木の枝と首にロープを結んで、ぶら下がる。
そんな光景を、何度も見た。
でも、自分と同じようにさまよう人は現れない。
かわりに、首を吊った木には、片付けられたあとも消えないロープが増えていった。
◆
木の枝がロープで埋め尽くされる頃。
季節は春。
夕暮れ近くに男の子が一人で遊んでいた。
気まぐれに近づくと、男の子は無邪気に遊びに誘ってくれた。
なんて楽しいんだろう。
こんなの、いつ以来だろう。
こんな時間がずっと続けばいい。
そう思った。
なのに。
一人の少年がふらりと現れて、男の子を連れ去ってしまう。
嫌だ。
こんなに楽しいのに。
この時間が終わるのは許さない。
無意識に悲鳴を上げ、少年を追いかける。
自分の足は公園からは出られなかったが、追いかける手は少年の首を掴んだ。
もう離さない。
ほどなくして少年は公園に戻ってきて、ベンチに座る。
心の声が聞こえる。
(俺を殺すのか?)
彼には自分が見えているらしい。
そんな人に、そんな酷いことはしない。
でも、自分と一緒にいてほしい。
そう思うと、自然と手は彼の首に力をかけていた。
もう少しで、彼も自分と一緒になれる。
その時だった。
彼が何か声を発した途端、自分が吹き飛ばされる。
見ると巨大なトラが、彼と自分との間に立ちふさがっていた。
あんな大きな動物、見たことがない。
驚いていると、それはしゅるりと姿を日本刀に変えた。
気を取り直して再び彼の首めがけて飛びかかる。
と、伸ばした両腕が斬り落とされた。
痛い!
いたいいたい痛いいたいいたい‼
しばらく感じていなかった痛みにのたうち回る。
そうこうしているうちに、自分の体が透け始めた。
あ。
自分は消える。
そう理解した時には、世界は真っ暗闇に閉ざされた。
◆
ここはどこだろう?
何だか悪い夢を見ていたような気がする。
周りは真っ暗だ。
でも、遠くに白い光がある。
あそこに行けば、何かあるかもしれない。
そう思い、ゆっくりと歩き出す。
白い空間に着くと、そこには公園によくある、椅子が二つぶら下がったタイプのブランコが一つあるだけだった。
なんとなしにそれに座って、揺られてみる。
少し懐かしかった。
と、見覚えのある少年が、隣のブランコに座った。
ああ、あの男の子だ。
やっと会えた。
しかし、少年と最後に会ったときのことを思い出し、胸が痛くなる。
「ごめんね」
自然とそんな言葉が出た。
少年は、あのときとは違う、少し大人びたふうに「何を謝ることがある?」と言った。
「こんな事になるなんて思わなかった」
「こんな事……?」
自分が木の枝からぶら下がったあの時を思い出して、自嘲気味に言う。
「君がまた来てくれるとも思ってなかったから、うれしくて……」
そう。
あの時はそれもあった。
もう、会うこともないと思っていた。
「前に会ったことあったっけ?」
ああ、それだけ時間が経ってしまったのか。
目の前のあの子はもう、ちいさな子供ではないのだから。
でも、忘れられるのは少し、寂しい。
「忘れちゃったよね」
そう言うと、彼は「……ごめん」と目を伏せた。
そんな顔をさせたいわけではない。
そう思い、謝る。
「いいの。私が悪いの。私が嫌になって、諦めちゃったから」
そうだ。
自分はあの日、全てを諦めたのだ。
だからこんなことになっている。
しかし彼には伝わっていないようで、
「諦めた? 何を……」
彼がそう言って首を傾げたその時。
『——るじ!』
誰かが彼を呼ぶ声がする。
「あ? 何だこの声」
声の主に覚えがないのか、彼の眉間にシワが寄った。
『目を覚まされよ!』
「うるさいな……」
年相応に苛立ちながら言う彼を、少し微笑ましく思う。
そうだ。
彼にはちゃんと帰る場所、居場所がある。
「……戻ったほうがいいね」
「そうか?」
自覚がないのだろう。
彼はまたもそう言って首を傾げた。
ああ。
もうそろそろ時間だ。
なんとなくそんな気持ちになる。
長い時間から解放された感覚が、安堵感になっている。
たとえこのまま、消え去るのだとしても。
「私を……消してくれて、ありがとう」
元の世界に戻りかけている彼に、つぶやくように言う。
聞こえただろうか。
彼は最後に振り向いたが。
まあ、どちらでもいい。
もう、何も思い残すことはない。
静かに消えるだけ。
◆
「——っ!! はぁ! はぁ! はぁ!」
目が覚める。
視界には、窓から差し込む柔らかい光といつもの天井。
清司は起き上がると、寝汗でぐっしょりになったせいで、肌着や寝間着が肌に張りついている不快感と、未だにおさまらない呼吸と鼓動の速さに顔をしかめた。
一人の少女の苦悩と苦しみ。
死に垣間見た安らぎ。
その後の長い時間。
消える瞬間の想い。
そんなものがないまぜになって、一気にかけめぐった。
同時に、彼女の思いが脳裏をかすめる。
彼女はずっと、独りだった。
生きている間も、死を選んだあとも、ずっと。
そして、この先は誰とも交わることのない無しかない。
それを彼女に与えてしまった。
どうしようもない自責の念に駆られ、清司は膝を抱えた。
自然と涙がこぼれてくる。
「俺、あの人を……殺したんだな……」
そう独りごちて。
目覚ましの音が鳴るまでの短い時間、独りむせび泣いた。




