九、霧の女
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ケルトの旋律を流しながら読むと、文字がより深く、世界へと染み込んでいきます。
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塔から出た時、空気が変わっていた。
日が傾き、都に夕暮れが落ちていた。長い影が建物の間を這い、石畳が橙色に染まっていた。
それだけではなかった。
霧がいた。
都の中に霧は似合わない。石の建物と整然とした道に、霧は違和感があった。でも確かに、塔の影に霧が溜まっていた。薄く、低く、地面を這うように。
少年はその霧の方へ歩いていた。
なぜかは分からなかった。足が、そちらへ向かった。
霧の中に入ると、温度が変わった。冷たいとは違う。普通の温度ではない感覚。少年は自分の手を見た。指先が、かすかに透けて見えるような気がした。
気のせいだと思った。
でも霧は深くなっていった。
「来たのか」
声がした。
女の声だった。
少年は周囲を見た。霧の中に、人影があった。はっきりとした輪郭ではなく、霧そのものが形をとったような、輪郭の曖昧な影だった。
「あなたは、誰ですか」
「さて」女の声は言った。「名前があるものかどうか」
少年は動かずに待った。
霧の影が、近づいてきた。
少しずつ形になっていった。女の形に。長い髪を持つ、青白い肌の女の形に。でも目が見えなかった。目の位置に、霧があった。光がなかった。
「お前が来たことで」女は言った。「少し、動けるようになった」
「あなたは、何者ですか」
「歌われなかったものたちの、残滓だ」
少年は息を呑んだ。
「歌われなかったもの……」
「そうだ」女は言った。「三十年の間に、歌われるべきだったのに歌われなかった声が、この世界には無数にある。死ぬ前に歌いたかった者の声。生まれた子供に歌って聞かせたかった歌。悲しい時に泣きながら歌いたかった旋律。誰かを送る時に口ずさみたかった別れの歌」
「それらが、消えずに残った」女は続けた。「歌われなければ消えるべきものが、行き場をなくして漂っている。私は、そういうものたちの集まりだ」
少年には、分からないことが多かった。でも何かが胸を打った。
「苦しいですか」少年は訊いた。
女は少し黙った。
「苦しい、という言葉が正しいかどうか」女はゆっくりと言った。「歌われなかったものには、感情がない。でも、行き場がない。それは苦しみに似ている。存在しているのに、存在できない。それが、三十年分、積み重なっている」
少年は都を見回した。
夕暮れの中に、人々がいた。行き交う人々。静かな人々。
あの人々の中にも、歌いたかった声が眠っているのかもしれない。誰かに伝えたかった言葉が、旋律に乗せたかった想いが、押し込められて眠っているのかもしれない。
「一つ」少年は言った。「聞かせてください」
「何を」
「あなたの中に、ある歌で。一番古いものを」
女は動かなかった。
しばらく、霧の中に静寂があった。
それから、音がした。
歌ではなかった。言葉でもなかった。音とも呼び難い、ただの振動だった。でもその振動の中に、何かがあった。悲しみのような、喜びのような、でもそのどちらとも言い切れない何かが。
少年の目から、涙が溢れた。
「……これは」
「三十年前に、死んだ老人の歌だ」女は言った。「その老人は生涯、一度も誰かに歌を歌ってあげられなかった。声が悪いと、子供の頃に笑われて。だから歌わなかった。でも死ぬ前の夜、夢の中で歌った。誰にも聞こえない夢の中だけで。それが、私の中に残っている」
少年は涙を拭わなかった。
「正しくなくていい、と」少年は言った。
「何?」
「その老人は、声が悪いと笑われた。でも夢の中では歌った。正しくなくていいから、歌いたかったんだと思う」
女は答えなかった。
でも霧が、少し揺れた。
「お前は歌うつもりか」女は言った。
「はい」
「止められないと分かっていても」
「止めたければ止めてください」
「止めない」女は言った。「止めるために、ここにいるのではない」
「では、なぜ」
女は少し間を置いた。
「見たかった」女は言った。「誰かが歌う姿を。三十年間、一度も見たことがなかったから」
少年は女を見た。
目のない顔を。霧でできた体を。三十年分の歌われなかった声を抱えた、この存在を。
「ぼくの歌は」少年は言った。「上手くないです。正しくないかもしれない。怖いです。王国の兵士に聞こえたら、どうなるか分からない。それでも」
「それでも?」
「あなたたちに、聞こえますか」少年は言った。「歌われなかったもの全部に、届きますか」
霧が、静まった。
女は答えなかった。
でも少年は、その沈黙の中に答えを見た。
届く。
歌えば届く。
完璧でなくていい。正しくなくていい。ただ歌えば、この女の中に積もった三十年分の声に、届く。
少年は踵を返した。
「どこへ行く」
「広場です」少年は歩きながら言った。「門のそばにあった、広場の真ん中に」
「そこは、人が多い」
「知っています」
「見られる」
「知っています」
「歌えば、何かが変わるかもしれない。分からない方向に」
少年は立ち止まった。
振り返り、女を見た。
「それが怖かった」少年は言った。「ずっと、怖かった。もし歌っても何も変わらなかったら。あるいは、変わりすぎたら。でも」
少年は、巨人の声を思い出した。石の道の振動を。老婆の目を。魔法使いたちの死んだ目を。王の疲れた顔を。女の抱える三十年を。
「変わらない方が」少年は言った。「ずっと怖い」
霧の女は動かなかった。
少年は歩き始めた。
広場に向かって。
石畳を歩くたびに、地面が振動した。
コツ、コツ、コツ。
どこか遠くで、谷の巨人がその音を感じているかもしれない。大地の底で目を閉じたまま、少年の足音を聞いているかもしれない。
塔の上で、王が窓を見下ろしているかもしれない。
霧の女が、後ろからついてきているかもしれない。
少年には分からなかった。
確かなことは、足が止まっていない、ということだけだった。
広場が見えてきた。
夕暮れの広場。石畳が橙に染まり、井戸が影を落としている。人々が端を歩いている。中央は、空っぽだった。三十年間、空っぽのままだった広場の中央が。
少年は、その空っぽの中央へと向かった。
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