六、夜営と、忘れられた星
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ケルトの旋律を流しながら読むと、文字がより深く、世界へと染み込んでいきます。
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谷を抜けると、道は広い原野に出た。
遠くに、王国の塔が見えた。
第一章で地平線に見えていた黒い影が、今はもう少し大きく、もう少し具体的な形をして立っている。石で組まれた塔の頂上が、沈みかける夕日を受けて鈍い光を帯びていた。
まだ遠い。今日中には着けない。
少年は道の脇に焚火をした。
乾いた枝を集め、火打石で火を起こす。小さな炎が生まれ、夕闇の中でゆらゆらと揺れた。少年はその前に座り、背嚢から乾いたパンを取り出して、ゆっくりと食べた。
空が暗くなっていった。
夕の赤が消え、濃紺に変わり、やがて黒くなる。その変化の中で、少年は空を見上げ続けた。
星が出た。
一つ、また一つ。
少年は数えた。頭の中で、自分が知っている星の配置を思い出しながら。
足りない。
やっぱり、足りない。
森で育った頃、夜空にはもっと星があった。ある晩には、天の川が白い帯になって空を横断するほどに。でも、いつからだろう。少しずつ、少しずつ、星が減っていった気がする。最初は気のせいだと思っていた。あるいは、空気の汚れや雲のせいだと。
でも今は分かる。
巨人の言葉が、耳に残っていた。
「歌が弱まれば、星も薄れる」
少年は膝を抱えて、空を見た。
あの薄れていく星の一つ一つが、世界から消えた歌の欠片なのだとしたら。失われた魔法の、忘れられた旋律の、誰かの歌われなかった声の名残なのだとしたら。
胸が、重くなった。
焚火がパチパチと音を立てた。
少年は口を開いた。歌を歌おうとして、でも声が出なかった。
怖かった。
王国の領域に入ってから、ずっと怖かった。このあたりに人がいれば、歌声は聞こえる。誰かに報告されるかもしれない。旅人たちが言っていたことを思い出す。歌う者を狩ると。
でも、それだけではなかった。
もっと深いところに、恐れがあった。
もし歌ったとして、何も変わらなかったら。森では、歌えば鳥が答えた。木が揺れ、風が声を返してくれた。でも今、この石の道の上では、誰が答えてくれるだろう。何が応えてくれるだろう。
歌って、何も起きなかったら。
それが怖かった。
少年は焚火の炎を見た。炎は小さく揺れ、赤と橙と黄色の間を行ったり来たりしていた。音は出ない。でも炎には、何か歌に似たものがある気がした。自由に形を変え、ルールを無視して、ただ燃えていた。
「……歌われなかった星たちよ」
少年は呟いた。
歌うつもりではなかった。ただ言葉が出た。
「あなたたちは、誰の歌だったんだろう」
「どんな旋律だったんだろう」
「もし聞けたなら、どんな音がしたんだろう」
夜風が吹いた。
少年の赤い髪が揺れた。
それだけだった。
でも少年の掌が、またかすかに震えた。足元の石畳の、遠い奥底から来る振動。巨人の言葉が蘇る。
「お前は、まだ歌える」
まだ、とは何だろう。今後歌えなくなる可能性があるということか。あるいは、まだこの世界に歌える者が残っているということか。
少年には分からなかった。
ただ一つだけ確かなことは、今夜この原野に自分以外には誰もいないということだった。聞いている者はいない。報告する者もいない。王国の兵士も、旅人も、魔法使いたちも。
少年は深く息を吸った。
口を開いた。
音が出た。
歌とは言えないほど小さな、掠れた音だった。森で歌っていた頃の伸びやかさは微塵もない。震えていて、頼りなくて、正しい音程かどうかも分からない。
でも確かに、音が出た。
少年は少しだけ続けた。
言葉はなかった。ただの音だった。炎の揺れ方に似た、自由な形のない音。
すると。
遠くの空で、一つの星が、少しだけ明るくなった気がした。
錯覚かもしれない。そう思った。きっと錯覚だ。雲が薄れただけかもしれない。目が慣れただけかもしれない。
でも少年は、笑った。
小さく、誰にも見せない笑い方で。
「……まだ歌える」
炎が、大きく揺れた。
少年は目を閉じた。明日、王国の都に入る。都の中に何があるのかは分からない。巨人が言った「全ての答え」が、本当にそこにあるのかも分からない。
でも少なくとも今夜、この焚火の前で、一つの星が少しだけ明るくなった。
それで十分だった、と思った。
翌朝、少年は目を覚ました。
空は白んでいた。星は見えなかった。でも夜の間に、空はかすかに変わった気がした。たった一つの音が、世界のどこかをほんの少しだけ動かした気がした。
確かめる方法はない。
少年は立ち上がり、荷物を背負い、石畳の道を歩き始めた。
足音が石に響く。石が大地に振動を伝える。
コツ、コツ、コツ。
都が、近い。
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