五、歌を覚えている巨人
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それは、動いた。
ゆっくりと、おそろしくゆっくりと。谷の岩壁だと思っていたものが、息を吸った。地響きのような音と共に、石が石を擦り合わせるような振動が谷全体を揺らした。
少年は後ずさりした。
岩が持ち上がった。いや、これは岩ではない。腕だ。長い年月の間に苔が生え、岩と同化した、巨大な腕が持ち上がる。その先に、手がある。指がある。
少年の全身から、血の気が引いた。
続いて頭が持ち上がった。山の稜線だと思っていたものが、頭の形をしていた。岩でできた顔があった。目が二つ。その目が、ゆっくりと開いていく。
深い緑色をした目だった。木々の根が織りなすような、太古の緑色。
「久しぶりだ」
声が、谷に響いた。
低く、遅く、地の底から湧き上がるような声だった。少年の体が振動した。空気が揺れた。谷の石たちが、その声に共鳴して細かく震えた。
「小さな歌い手が来た」
少年は足が竦んで動けなかった。
「怖がるな」
巨人はゆっくりと体を起こした。山が立ち上がるような動作だった。何トンという岩が、音を立てて位置を変える。谷が揺れ、道の石畳にひびが入るかと思った。
だが、不思議と石畳は揺れなかった。
まるで巨人の動きを知っているかのように、道は静かにそこにあった。
「お前の足音が」巨人は言った。「石を通して、ここまで届いた」
「ぼくの、足音が……」
「石は繋がっている」巨人はゆっくりと言った。「この道の石も、谷の岩も、大地の底も。全て繋がって、歌い続けている」
「歌い、続けている?」
「聞こえなかったか」
少年は思い出した。石畳の上を歩くたびに感じた、かすかな共鳴を。手を当てると伝わってきた、内側からの温もりを。
「……聞こえました」少年は言った。「でも、ほとんど聞こえないくらいの音で」
「そうだ」巨人は頷いた。その動作で、また小さな地響きが起きた。「今は、そのくらいしか歌えない」
巨人は谷の空を見上げた。その目が、遠い何かを見ているような色をしていた。
「昔は違った」
「いつ頃の話ですか」
「お前たちの時間で言えば」巨人はゆっくりと考えるように言った。「千年以上前、だろうか。もっとかもしれない。私には、時間がよく分からない」
少年は、草の上に腰を下ろした。巨人を見上げると、首が痛くなるほど仰ぎ見ることになる。でも座れば、少しだけ楽だった。
巨人は静かに、語り始めた。
「世界が生まれた時、全ては歌で出来ていた」
その声は、物語を語る声ではなかった。事実を、ただ述べる声だった。雨が降る、と言うような、当たり前のことを確認する声だった。
「山は歌って聳え立った。海は歌って波を打った。木は歌って根を張り、鳥は歌って空を飛んだ。人も、魔法使いも、精霊も、みんな自分の歌を持っていた」
「歌うことが、生きることだった?」
「歌うことが、存在することだった」
少年には、その区別がよく分からなかった。でも何となく、言おうとしていることは分かった気がした。
「魔法も、歌だった」巨人は続けた。「呪文というものは、もともと歌だった。願いを歌えば、世界が応えた。大地が、風が、水が、火が、その歌を聞いて力を貸した」
「でも今は」少年は言った。「魔法使いたちは歌わない。呪文だけ唱える。そして、魔法が死んでいる」
「そうだ」
「なぜですか」
巨人は、また空を見上げた。
「人が、恐れた」
「何を?」
「歌を」
少年は黙って続きを待った。
「歌は、予測できない」巨人は言った。「誰の歌も、同じではない。どんな歌も、どんな力を呼ぶかは、歌ってみるまで分からない。それが歌の本質だ」
「そして、ある王が現れた。その王は、予測できないものを恐れた。自分が制御できないものを恐れた」
「王が、歌を禁じた?」
「禁じただけではない」
巨人の目が、少年を見た。深い緑色の目が。
「歌の意味を、変えた」
少年は眉をひそめた。
「変えた、というのは……」
「歌を、呪文に変えた。音楽を、ルールに変えた。自由な表現を、正確に繰り返されるべき言葉に変えた。歌うことを、間違えてはいけない作業に変えた」
少年の脳裏に、あの集落の魔法使いたちが浮かんだ。整然と、完璧に、呪文を唱え続ける人々。子どもたちが、毎日毎日、同じ言葉を繰り返す光景。誰の目にも、火がない。
「だから、魔法が死んだ」
「そうだ」巨人は言った。「魔法は歌の別の名前だった。歌が消えれば、魔法も消える。魔法が消えれば、世界は少しずつ、歌えなくなっていく」
「星も、少なくなってる」少年は言った。「昔より、夜空の星が少ない」
巨人の目が、かすかに揺れた。
「気づいていたか」
「最近気づきました。森を出てから、ずっと気になっていて」
「星も歌っている」巨人は静かに言った。「夜空も、大地の一部だ。歌が弱まれば、星も薄れる。世界の歌が完全に消えれば、最後には星も見えなくなる」
少年は空を見上げた。まだ昼の空で星は見えないが、夜になればどうなるだろう、と思った。
「私は」巨人は言った。「ここで待っている。歌い手が来るのを、ずっと待っている」
「ずっと?」
「もう何百年も」
少年は息を呑んだ。
「誰も、来なかったんですか」
「来た者もいた」巨人は言った。「でも、みんな引き返した。王国を恐れて。あるいは、巨人を恐れて」
少年は巨人の目を見た。
あの緑色の目の中に、何があるだろう、と思った。何百年も、この谷でひとり待ち続けた目の中に。
「ぼくは」少年は言った。「行かなければいけません。王国の中へ」
「分かっている」
「どうして歌が消えたのか、本当の理由を知りたい。自分で確かめたい」
「分かっている」巨人は繰り返した。「だから、お前を呼んだ」
「……え?」
「石を通して、お前に合図を送った。足音に答えることで。お前が感じたあの共鳴は、私が送ったものだ」
少年は、石畳の上を歩きながら感じた振動を思い出した。手を当てた時の、内側からの温もりを。
呼ばれていたのだ。
「行け」巨人は言った。「王国の奥へ。塔の最上階まで。そこに、全ての答えがある」
少年は立ち上がった。
「一つ、教えてください」
「何だ」
「ぼくに、できるでしょうか」
巨人はしばらく黙っていた。
それから、大きな手を少年の頭上に差し出した。指の一本が、少年の全身ほどもある。その指先が、少年の赤い髪にそっと触れた。
「一つだけ言えることがある」
「はい」
「お前は、まだ歌える」
それだけだった。
でも少年には、それで十分だった。
巨人はゆっくりと体を沈め、また大地に溶け込んでいった。山に戻り、岩に戻り、谷の風景に戻っていく。目が閉じられ、息が遅くなり、やがて全ての動きが止まった。
谷は静かになった。
少年は一人、石畳の道に立っていた。
足元の石が、かすかに振動していた。
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