最終話、霧は晴れ、森は残る
これで、本作品は終わります。ここまで読んでくれた方々、お付き合いいただきありがとうございました!
ぜひ、『FOREST WIZARD~赤髪の少年魔法使いの物語~』の楽曲を聴きながら、最後まで楽しんでください。
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王国は、変わらなかった。
少なくとも、その夜は。
少年が都で歌った翌朝、街の石畳はまだそこにあった。建物も、塔も、井戸も、全て変わらずにあった。人々は朝になると、また静かに動き始めた。昨夜のことを話し合う声は、ほとんど聞こえなかった。
でも、違うことが一つあった。
広場の中央を、人が通るようになっていた。
端を歩かずに。真ん中を、普通に。
それだけだった。でも少年には、それが十分に見えた。
都の門を出る時、少年は振り返った。
塔の最上階に、明かりが見えた。窓の前に、人影があった。老いた王の影だった。
少年は、その影に向かって、軽く頭を下げた。
返事は来なかった。
でも、明かりが、かすかに揺れた気がした。
少年は都を出た。
来た道を戻った。
石畳の古道が、あった。
足を踏み出すたびに、石が答えた。以前よりも、少しだけ強く。以前よりも、少しだけ明確に。地面の奥底から来る振動が、確かに増していた。
眠っていたものが、少し目を覚ましていた。
谷に差し掛かった時、少年は立ち止まった。
谷の奥の岩が、動いていた。ゆっくりと。おそろしくゆっくりと。巨人が、また体を起こしていた。
少年は待った。
巨人の目が開いた。深い緑色の目が、少年を見た。
「聞こえた」巨人は言った。
声が、谷に響いた。
「聞こえましたか」
「石を通して。遠かったが、確かに聞こえた」
少年は何も言わなかった。
「王国は、変わらなかっただろう」巨人は言った。
「はい」
「それでいい」
少年は顔を上げた。
「それで、いいんですか」
「世界は、一つの歌では変わらない」巨人はゆっくりと言った。「百でも、千でも足りないかもしれない。でも、始まりが必要だった。それが今日だった」
「ぼくが歌っても、星はまだ少ないです」
「そうだ」
「都は、まだ静かです」
「そうだ」
「何も変わっていないように見えます」
「見える、な」巨人は言った。「でも石は知っている。大地は覚えている。今日、広場で音が溢れた。その音が、石を通して、大地の底まで届いた。今日から、何かが変わり始める。お前たちには見えない速度で、ゆっくりと」
「いつ変わるのですか」
「分からない」巨人は素直に言った。「私の時間で言えば、すぐかもしれない。お前の時間で言えば、何年もかかるかもしれない。でも、方向が変わった。それは確かだ」
少年は空を見た。
昼の空に、星は見えない。でも夜になれば、少しだけ多くなっているかもしれない。少しだけ、昨日より明るくなっているかもしれない。
「お前はどこへ行く」巨人は尋ねた。
少年は少し考えた。
「森に帰ります」
「そうか」
「ここへ来る前にいた、霧の森に。また歌います。あそこで、もう一度歌います」
「誰もいない森でか」
「いい場所です」少年は言った。「木が聞いています。鳥が聞いています。苔が聞いています。森が聞いています」
巨人は、何か言おうとして、止めた。
それから、深く息を吸い込んだ。
その呼吸で、谷に風が生まれた。
「行け」巨人は言った。「また何百年か後に、誰かがここを通るかもしれない。その時まで、私はここにいる」
「……ありがとうございました」
「礼はいらない」巨人は言った。「ただ、歌え」
「はい」
「歌い続けろ。正しくなくていい。止まらなければ、それでいい」
少年は頷き、歩き始めた。
巨人がまた眠りについていくのを、背中で感じながら。
帰り道。
門柱をくぐった後、少年は振り返った。
王国の領域の境界に立ち、都の方向を見た。
塔が、夕暮れの空に黒く立っていた。
変わっていなかった。
でも少年の目に、何かが違って見えた。
単純な違いだった。あの塔の中に、疲れた王がいることを知っていた。石畳の下に、大地が息を吸い始めていることを知っていた。広場に音が溢れた夜があったことを、石が覚えていることを知っていた。
知っている、ということが、景色を変えた。
少年は前を向いた。
歩き始めた。
霧の森に戻るまでに、何日かかった。
石畳の古道を歩き、境界の門柱を抜け、丘を越え、林を抜け、少しずつ、霧の匂いが増えていった。
湿った苔の香り。
雨上がりの土の匂い。
鳥の声が聞こえてきた。
少年は足を止めた。
目を閉じた。
鳥の声を聞いた。以前と同じ声だろうか。変わっただろうか。少年には分からなかった。でも確かに、聞こえた。
森に入った。
木々が迎えた。というよりも、ただそこにあった。木々はいつでもそこにあった。少年がいなくても、少年がいても、変わらずにそこにある。
霧があった。
以前と変わらぬ霧が。薄く、白く、木々の間を漂っていた。
少年はゆっくりと歩いた。
苔の上を踏みしめた。足の裏に、柔らかさが伝わった。石畳とは全く違う、生きている柔らかさが。
木の幹に触れた。
掌に、温もりがあった。森の温もりが。
「ただいま」
少年は呟いた。
誰にでもなく。森に。霧に。苔に。木々に。
答えは来なかった。
でも、来なくていいと思った。
森はただ、そこにあった。それで十分だった。
少年は森の奥の、小さな開けた場所に腰を下ろした。
子供の頃からよく来た場所だった。三本の木が三角形に立っていて、その中央が少しだけ開けている。霧がうまく流れ込んで、いつもここだけ少しだけ霧が薄かった。
空が見えた。
夕暮れの空が。
星が出始めていた。
少年は数えた。一つ、二つ、三つ、四つ。
そこで止まった。
止まったのは、数えられなくなったからではなかった。多すぎて、追いきれなくなったからだった。
一つ、また一つ、星が現れ続けていた。
都にいた夜よりも、多かった。はるかに多かった。森の空気が澄んでいるせいかもしれない。でも少年には、そうではない気がした。
昨夜より、増えている気がした。
確かめる方法はなかった。
でも少年は確信していた。
少年は口を開いた。
今度は、ためらわなかった。
音が出た。
広場で歌った声よりも、少し落ち着いていた。震えはあった。でも以前の、誰にも聞かせたくないような震えではなく、生きているものが持つ自然な揺らぎだった。
木々が、少し揺れた。
風ではなかった。風はなかった。ただ、木々が揺れた。
鳥が一羽、枝に止まった。少年の方を見た。少年が歌うのを聞いた。それから、一声鳴いて、また飛んでいった。
霧が動いた。
いつも漂っているだけの霧が、少年の方に向かって、少しだけ集まってきた。
その霧の中に。
輪郭があった。
人の形をした、輪郭が。
少年は歌いながら、その霧を見た。
霧の女だった。でも以前とは少し違った。輪郭が、前よりも薄かった。形が、前よりも曖昧だった。
「歌った」女の声が言った。
少年は歌いながら、頷いた。
「聞こえた」
また頷いた。
「私の中にあるものが」女は言った。「少し軽くなった」
少年は歌を止めなかった。
「まだある」女は続けた。「三十年分はすぐには消えない。でも、少し」
霧の形が、かすかに揺れた。
「ありがとう」
女の声は、そのまま霧に混ざっていった。形が薄れ、霧に戻り、森の中に広がっていった。
少年は歌い続けた。
霧が、森全体に広がっていく様子を感じながら。
夜が、来た。
焚火を起こした。
炎がぱちぱちと音を立てた。その音に合わせるように、遠くで梟が鳴いた。草が、風に揺れた。
少年は炎を見ながら、歌っていた。
上手くなかった。正しくなかった。
でも止まらなかった。
空の星が、増え続けていた。数えるのは諦めた。数えなくていいほど、そこにあった。
世界は、救われなかった。
王国は静かなままだ。都の人々は、昨日と同じ朝を迎えたはずだ。魔法使いたちの目はまだ死んでいるかもしれない。広場を端ではなく中央を歩くようになったとしても、それだけだ。星は増えたかもしれないが、それがどれほどの意味を持つか、少年には分からない。
何も終わっていなかった。
何も、始まったばかりだった。
でも。
森があった。
霧があった。苔があった。木々があった。鳥がいた。梟がいた。炎があった。
そして少年がいた。歌える少年が、森にいた。
それだけのことが。
少年には、十分に思えた。
焚火の炎が揺れた。
少年は空を見上げた。
星が、あった。
霧の向こうに、かすかに輝く星が。森の木々の間から、覗き込むように見える星が。
全てではない。まだ全部の星が戻ったわけではない。
でも、あった。
あり続けていた。
少年は歌い続けた。
誰にも聞かせなくていい。鳥が聞いていれば十分だ。霧が聞いていれば十分だ。地面の奥底の石が聞いていれば十分だ。
歌が、霧の中に溶けていった。
霧が、木々の間を流れていった。
木々が、その歌を根の先まで伝えた。
根が、石に触れた。
石が、大地の底へと届けた。
遠い遠い谷で、巨人が眠りながら、微笑んだかもしれない。
塔の上で、老いた王が窓から夜空を見て、何かを感じたかもしれない。
集落の魔法使いの一人が、夢の中で、忘れていた旋律を思い出したかもしれない。
少年には分からなかった。
でも歌い続けた。
星が、少しずつ、少しずつ、増えていった。
霧の中で、少年の赤い髪が、焚火の炎に照らされて揺れていた。
生まれた時から知っていた、あの世界の中で。
そして世界は、また歌い始める。
ゆっくりと。
静かに。
完璧ではなく。
でも止まらずに。
次回作は、竜と吟遊詩人の物語を予定しています。お楽しみに!
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