十、歌われなかった歴史
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ケルトの旋律を流しながら読むと、文字がより深く、世界へと染み込んでいきます。
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広場の中央に、立った。
足が止まらなかった。それだけが、確かなことだった。
広場の石畳は、都の外の古道より新しかった。でも同じように、踏みしめるたびに振動があった。地面の奥底から、かすかな共鳴が返ってくる。谷の巨人が石を通して少年に合図を送ったように、この石も何かを伝えようとしていた。
少年は立ち止まり、足元に目を落とした。
石が、震えていた。
ほんのわずか。でも確かに。まるで長い眠りの底で、誰かが夢を見ながら体を動かすような、そういう震えが、少年の靴の裏を通して伝わってきた。
広場の縁で、人々が立ち止まっていた。
通りすがりに少年を見た人が、立ち止まった。その隣にいた人も気づいた。荷物を抱えた商人も、子供の手を引いた母親も、老いた男も、若い女も。誰も何も言わなかった。ただ立って、広場の中央に立つ一人の少年を見ていた。
赤い髪。
それが目立ったのかもしれない。この灰色の都には、赤い色がなかった。服も、建物も、顔も、どれもくすんだ色をしていた。その中に、炎のような赤い髪をした少年が立っている。
静寂が、重くなった。
夕暮れが、深くなっていた。橙の光が石畳を染め、広場に長い影が伸びていた。塔の頂上が、空の色と同化し始めている。
少年は空を見上げた。
星が出始めていた。
数えた。一つ、二つ、三つ。
足りない。
やはり、足りない。
でも見えた。消えかけた星々が、それでもまだそこにあった。完全には消えていない。かろうじて、まだ灯っている。
少年は、ここに来るまでのことを思い出していた。
霧の森。苔の香り。鳥の声。風の歌。孤独だったけれど、あの森には確かに、生きている音があった。
集落の広場。呪文を唱え続ける魔法使いたち。死んでいる目で、完璧に言葉を繰り返す人々。老婆の言葉。お前の目に、まだ火が宿っている。
古道の石畳。足音に答える大地の共鳴。石が、まだ覚えていた。
谷の巨人。おそろしく遅い声。世界は歌われて生まれたと、事実を述べるように言った。そして。お前は、まだ歌える。
焚火の夜。誰にも聞こえない声で、掠れた音を出した夜。一つの星が、少しだけ明るくなった気がした夜。
霧の女。三十年分の歌われなかった声。夢の中だけで歌い続けた老人の旋律。歌って、小さな勇者。
王の疲れた顔。止めない。
それら全てが、今、少年の体の中にあった。
重かった。でも荷物ではなかった。重さが、力だった。
少年は深く息を吸い込んだ。
広場の縁で、人々が静かに見ていた。
塔の最上階に、窓の明かりが灯っていた。
少年には見えなかったが、その明かりの前に、老いた王が立っていることを、何となく感じていた。
少年は口を開いた。
出てきたのは、歌とも言えない音だった。
震えていた。掠れていた。音程が正しいかどうかも分からなかった。旋律があるのかどうかも分からなかった。言葉もなかった。ただの音だった。
でも少年は続けた。
止まらなかった。
少年の足元の石が、震えた。ほんのわずか。でも確かに。その震えが広がっていった。石から石へ。広場の端へ。道へ。都の石畳へ。
世界が、三十年間に失ったものを、少年は今、知っていた。
一人の魔法使いが歌いすぎた。地面が割れた。十七人が死んだ。王は恐れた。歌を禁じた。
魔法が死んだ。集落の人々の目が死んだ。広場の中央が空になった。星が薄れた。大地が黙り始めた。
霧の女が生まれた。歌われるべきだったのに歌われなかったものたちが、形になって漂い始めた。
三十年間。
誰も歌わなかった三十年間に、失われたものの重さを、少年は霧の女から受け取っていた。王と向き合った部屋で、感じていた。石畳の振動から、読み取っていた。
完璧な歌が、世界を壊した。
だから王は、全ての歌を止めた。
でも完璧な沈黙も、世界を壊した。ただ、ゆっくりと。静かに。誰も気づかないうちに。
どちらも正しかった。どちらも間違っていた。
少年には、その答えが分からなかった。
分かることは一つだけだった。
歌わなければ、何も始まらない。
少年の声が、広場に流れた。
言葉のない、旋律のない、正しくない音が。
広場の縁の人々が、動かなかった。逃げなかった。叫ばなかった。
ただ、聞いていた。
子供が一人、母親の手を離した。広場の中央に向かって、一歩踏み出した。母親が止めようとして、でも止めなかった。
その子供の目に、光があった。
三十年間、一度も見たことのないような光が。
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