決めた日
あの日の午後の光は、今とはまったく違った温度を持っていた。窓から差し込む日差しは柔らかく、照らされた机の上には書類の山が整然と積まれていた。俺はスーツの袖を整えながら、彼女の顔を思い出す。さやは、笑っていた。いや、正確には「微笑んでいた」のだろう。愛情のこもった笑顔ではなく、礼儀としての微笑みだった。
婚約を決めたのは、そう、十年前の冬。両家の顔合わせの場で、俺たちは互いに言葉を交わした。いや、ほとんど言葉は必要なかった。親たちは喜び、親戚は祝福し、俺たちはただ頷いた。心の奥で湧き上がる感情は、何もなかったわけではない。ただ、愛というよりは、確かに「面倒ではない相手」という安心感に近いものだった。
「そうじ、これからもよろしくね」
さやが静かにそう言った。声は軽く、しかしどこか決意を含んでいた。俺は小さく笑って、ただ「こちらこそ」と返す。手を握るでも、抱きしめるでもなく、ただ隣に立って、同じ方向を向く。二人の間には空気が流れ、それは奇妙に居心地が良かった。
帰り道、俺たちは並んで歩いた。街灯に照らされる雪道は白く輝き、足元の雪を踏む音だけが響く。会話はほとんどなかった。沈黙は、愛を確かめるためのものではなく、むしろ日常の心地よい音のようだった。さやの手が偶然に触れそうになる距離を保ちながら、俺はただ歩いた。それだけで十分だった。
思えば、なぜあのとき婚約を決めたのか。答えは単純で、理由はいくつも重なっていた。互いの家庭環境、将来の安定、そして単純に「別れる理由がなかった」こと。愛がなかったからこそ、合理的に、淡々と決めることができた。愛していなくても、結婚は成立する。いや、成立させられる。社会的にはそれで問題はなかった。
式の準備も同じだった。衣装合わせ、招待状、食事のメニュー。さやは興味なさそうに指示を出し、俺は淡々とそれに従った。二人で笑い合う瞬間もあったが、そこに感情はほとんど混ざっていなかった。笑顔は笑顔として存在し、沈黙は沈黙として満ちていた。それが、当時の俺たちにとっての「共生」だったのだろう。
夜、家に戻ると、さやは居間の窓際に座り、外の景色を眺めていた。俺は黙って隣に座る。手を伸ばすでもなく、言葉を交わすでもなく、ただ一緒にそこにいる。温かい灯りが二人を照らし、沈黙は重すぎず、軽すぎず、ちょうどいい距離感を保っていた。
「これでいいんだろうな」
心の中でつぶやく。声には出さない。さやが振り向くこともなかった。ただ微笑み、外の景色を見つめ続ける。愛がなくても、一緒にいることはできる。それは確かに、当時の俺たちにとって、最も自然な形だった。
そして俺たちは、そのまま眠りについた。肩が触れることもなく、言葉を交わすこともなく、ただ同じ布団に包まれて。愛という形は存在しなくても、互いの存在は確かに感じていた。そうして、十年後の葬式の雨音に思いを馳せることになるなんて、この時の俺たちは、夢にも思わなかった。




