恋は臆病
エシュヌンナでの日々。
ナディア王妃の容体は少しずつ落ち着いてきて、エシュヌンナの街の混乱もおさまってきた。
だが、マリが今後どう出るかわからない。今のところ、マリは不気味なほど動かない。このまま何事もなかったかのように沈黙を貫くのだろうか。バビルに駐在していた外交官は行方不明らしいが……。
エシュヌンナは今後どうのように統治するか? ラルサのように総督を置くのか? ――課題は山積みで、陛下たちは連日頭を悩ませている。哀しみに浸れたのは、戦死した兵の弔いの儀礼のときだけだった。
陛下たちは動いている。
私もできることをする。
早速、「エシュヌンナ法典」の読み解きを始めた。エシュヌンナにいた学者さんたちに来てもらい話を聞く。年配の学者は、女がなにを偉そうにと最初はつまらなさそうにしていたが、こちらのガチ度を分かってくれたのか、次第に解説に熱が入り始めた。
今日もそんなおじいちゃん先生とその若い助手に、王宮の一室で教えてもらっていたところ……
「……どうだ? 法典作りの進捗は?」
陛下が部屋に入ってきた。みんなで立ち上がり、お辞儀する。
「陛下!……はい、勉強になります!……ただ、『法典』という名前はややこしいですね。『法典』というと一般的には法規集を指しますが、エシュヌンナのこれは『判例集』という名称が適しているように思われます。先生に教わりましたが、そもそもエシュヌンナにはいわゆる法律はないのです。これをしたらこういう罪で、このような刑が与えられるといった明確な決まりはないと。なので裁判官は個別の事件ごとに個々の裁量で判決を下しているそうなのです。その判決をまとめた判例集、事例集ですから、これは『法典』と呼ぶべきではないですね!」
「ふぅん……それより今日も1日頑張った王へのご褒美は?」
陛下が耳元に甘く吹き込んでくる。こっちは真面目に話してるのに。聞いてんのか。
おじいちゃん先生は意味深顔で頷き、そっと部屋を出ていく。陛下は後ろから抱き込んできて、首元にすりすり甘えてくる。
「…………まだ昼間ですよ。まだ1日終わってないですよ」
「俺といっぱい仲良くなりたいって言ってただろ?」
耳元で色気たっぷりに囁かれて、天を仰ぐ。
「う、うーーーん……」
この人の甘々モードは本当に心臓に悪い。
それを満更でもなく思っている自分がいるのも、また事実。
そんな私の耳を甘噛みしながら、呆気に取られてぼーっと立っている若い助手を、陛下はジロリと睨みつける。
「…………なんだ? 睦ごとにもご指導か?」
若い助手君はバッと顔を赤らめ、慌てて部屋を出て行った。かわいそうに。
「…………今の男は出禁だ」
「なんで?!」
「部屋の外で見ていたが、俺のノアに色目を使ってた」
「俺のノア」
思わず復唱してしまったし、たぶんそれは陛下の勘違いだ。あの人目が悪そうだったから細めていただけだと思う。かわいそうに。
「俺以外の男を近づけさせるな」
「…………」
スリスリ、首に鎖骨にキスを落としながら美形な王はのたまうが……
――昔ラルサで、「お前は黙ってお飾りの妻をやってくれればいい」とかなんとか、吐き捨てていた人と同一人物とはとても思えない。
◇◇◇
そんな日々が続いたある晩、寝所で陛下から勅命が下った。
「ノア、先にムトとシッパルへ戻っていてくれ」
「え……なぜ急に?!またシッパル?!」
熱気の残る寝台の上。陛下は隣でぐったりうつ伏せに脱力する私の、頬に張りつく濡れた髪を払いながら言う。
「ナディアが動けるようになったら、女神官にしてシッパルの修道院に入れてやりたい。それと、もういい時期だろう。俺たちの婚礼を挙げる。落ち着いたらすぐに向かうから、先に戻ってイルタニと準備を整えておいてくれ」
「な……なるほど。わかり、ました。…………うーん、でも……」
「?」
「……陛下とまた離れちゃうの、寂しいです」
そうつぶやくと、髪で遊ぶ大きな手が一瞬止まり、汗ばむ肌の上を伝ってゆっくりうなじへ、まだ露わな背中へ、腰へ、下りはじめた。
「んっ!」
「あんまり可愛いことを言うな。本当に離せなくなる。……また欲しくなる」
「ん?! ちょ……もう!」
体を起こしたが、再び優しく押し倒された。無駄だと分かりながらも抵抗する。すぐに手首をつかまれ寝台に縫い付けられる。
「仲良くして……もっとわかり合あおうな」
「こ、こここういうこと以外の面でも!分かりあわねばなりません!」
首をブンブン振ると、陛下はフッと微笑んだ。
「なら、なんでも聞け。答えるから」
「……なんでも?」
「なんでも。俺もそうする。わかり合うにはそれが手っ取り早いだろ」
「……はい。じゃ、じゃあ……」
……陛下に聞きたいこと。
陛下は甘い言葉を囁いてくれるけど……それは本音? お世継ぎのため? 陛下はご自身のお世継ぎが欲しい?
バビルの王宮にいる側室さんたちとは……どういう感じなの……?
あまりにも残酷な別れをしてしまったマリカさんのこと……まだ忘れられない?
聞きたかったが、怖くて聞けなかった。
恋は人を臆病にする。
「……ノア?」
「……なんでもないです」
手首を抑えていた陛下の手が離れ、なぜか下腹部を優しく撫で始める。
「……ナディアと婚礼の準備のために行かせる、というのは本当だが……お前をより安全な場所に留めておきたいのが本音だ。シッパルなら優れた産婆たちがいる」
「サンバ??」
頭の中がリオデジャネイロだが、たぶん違う。
「サーラが言っていたが……先週からお前はそういう時期なんだそうだ」
「なんですかそういう時期って」
「さぁ……?」
陛下はお腹を愛しそうに撫でながらニヤリとする。
「…………」
……サーラさん……
あの人私の生理周期把握してるもんな……




