希望 ②
高台に着いて間もなく、エシュヌンナ・マリ同盟軍がぴたりと進行を止め、荒野に静寂の時間が訪れた。
弓兵達は合図があればすぐにでも矢を放てる。
戦車を引く馬は鼻息荒く、いつでも駆け出せる。
向かい合う両軍。
張り詰めた緊張の時間。
風の音、誰かが息を吸う音、聞こえないはずの音まで聞こえてくるような、その時間。
誰がこの静けさを破るのだろう。
そう思った、その時だった。
ーー空気が震え、風が一変した。
東の丘上から、大きな雄叫びと共に、槍を構えた大量の軍勢が傾れ込んできた。
「?!」
何事かと呆気に取られているとーー
「……援軍だ! バビルの援軍が来た!」
「あの軍旗……ラルサからの援軍だ!」
兵達の叫びが聞こえた。バビルの兵はみな一斉に歓喜の声を上げた。
援軍の到着は、兵力が対等になったということ以上に、はるかにまばゆい希望をもたらした。
援軍は敵軍の側面に突入し、動揺する兵たちを次々に薙ぎ倒していった。
「バビルに勝利を!」
援軍の前方を走る馬、声をあげ旗を掲げる男ーーシンさんだ!
文官のはずのシンさんだが、その勇ましさは将軍のムトにも引けをとらない。敵陣営が崩れていく。
「……今だ!突撃!バビルの兵よ、進め!」
戦車隊を先頭に、バビル軍は爆発したかのように駆け出した。
今やバビル軍に、恐れるものなどなにもなかった。
両軍激突。殺し合いが始まる。
私たちはそれを、丘の上から見ていた。
血なんて見れないはずなのに、なぜか目が離せなかった。
馬の上でシャム君がギュッと、後ろから手を握ってくれていた。
――そう時間をあけず、2台の戦車に追い詰められ、戦車から落ちたエシュヌンナ王の胸を陛下の剣が貫いた。
死体散らばる戦場の中で、バビルの兵がエシュヌンナ王の首を高く槍で掲げる。
同盟軍の戦意は急速に削がれたようだった。
さらに一部の兵士達がゴッソリと離脱した。マリ軍がエシュヌンナ軍を見捨てたのだろうと、サーラさんが言った。
残されたエシュヌンナ兵は次々と武器を捨て降参。
血まみれの陛下の雄叫びと、バビル軍の喜びの声。赤い大地の上に横たわる、清々しい青空に響き渡った。
「……ノア様。終わりましたね。陛下の元へ行きましょう」
「……はい」
ゆっくり馬を進めた。丘を下り、2頭の馬は血生臭い勝利の場へ。
ピチャピチャ、濡れた地面は見ないように、ただ陛下の姿だけを見るようにする。
蹄の音に陛下が振り返り、
私を見るなり嬉しそうに戦車から降り、
赤く染まった両手をバッと広げた。
「ノア! 神からの贈り物!」
目を輝かせた勝利の王の招きに応じ、馬から降りる。
すぐに陛下に抱きしめられ、周囲から再び大歓声が上がった。
……革の鎧越しに感じる、随分早くバクバク音を立てる心臓。汗と鉄分のにおい。生者の証。
陛下が無事だった。やっと実感できた。
ムトもダガンさんアウェルさんも無事だった。
「陛下……ご無事で……よかった」
言葉にすると、目に涙があふれた。
でもいっぱい、人が死んだ。
すぐそこにエシュヌンナ王の首なし死体が転がされているし。
感情がぐちゃぐちゃになった。
「……ノア、約束通り、ご褒美な」
陛下が耳元で囁いた。
目からあふれる涙はそのままに、何も考えられず、コクコク、無言で頷いた。
「……陛下!……ノア様!……遅くなり申し訳ございません!」
声の主を振り返る。ラルサ軍を率いてきたシンさんが、こちらに向かって駆け寄ってくるところだった。
その懐かしい姿に、胸の中で張り詰めていた糸がふっと緩む。
陛下もシンさんを振り返る。
「シン、よく来た! 助かった」
「はっ!」
シンさんが陛下の前に跪く。
「シンさん!……よかった、ライルが無事に着いたんですね」
「……はい。皆様ご無事で……本当に良かった」
「ライルはどこですか? あとからくるんですか?」
「……ノア様……」
「ライル、体調悪そうだったから心配で」
シンさんが口をつぐむ。
なんだろう。
「……シンさん?」
シンさんは静かに頭を下げ、瞼を閉じる。
そして言葉を選ぶよう、ゆっくり開く。
「……偶然、その時私はマシュカン・シャピルにいたのですが…………彼に目立った外傷はありませんでした。賊に襲われた気配もない。医師に見せても、理由がわからないと」
「…………シンさん? なんの話ですか?」
陛下の動きが止まる。
シンさんは喉の奥に何かが詰まったかのように、言葉を紡ぐ。
「……城門を警備していた兵から…………馬が向かってきたと、報告がありました。……それがあまりに奇妙な様子だったので、私の元へ話が上がってきたのです。兵が言うには、その馬の乗り手が……体を馬に縛り付け、なぜか口に粘土板を詰め込み死んでいますが、どうしましょうか…………と」
シンさんの言っている意味が、しばらくわからなかった。




