朝焼けと背中
陛下たちは、この街を出てエシュヌンナに攻め込むことを決めた。
撤退しようが攻め込もうが、どちらにしろエシュヌンナ・マリ軍との対立は避けられない。ならば、今バビル軍の勢いがあるうちにエシュヌンナだけでも叩こうと決めたのだ。
たとえラルサからの援軍が間に合わなくとも、相手がエシュヌンナ一国であればバビル軍は勝てる。
陛下はマリ軍の足止めができるよう、すぐに工作兵を西側へ手配した。それにライルが順調に進めていれば、ラルサの兵はあと数日のうちに着くはずだ。そうすれば万が一マリ軍が到着しても十分に戦える。
ここからエシュヌンナまでは歩いて1日ほどの距離。陛下の養女で、エシュヌンナ王に嫁いだナディア王女の安否は不明。
バビル軍と共にいたマリからの援軍はまだ本国の動きを知らないようだったが、念のため分離された。
◇◇◇
戦闘の邪魔にならないよう、私とサーラさんは少数の兵を付けてもらい、シッパルへ向かうことになった。せっかく会えたのにまた陛下とお別れだ。
夜明けと共に街を出て、戦場へ向かう陛下らバビル軍を見送る。戦士たちが向かう東の空が不気味なほどに赤い。
勇ましきバビル軍の先頭には、2頭の馬が引く戦車。そこにムト共に乗り込んだ、鎧をまとうラビ陛下。その表情は凛々しくて、まるで恐れを知らぬよう。
威風堂々たるものだった。やはりこの人は王なのだと、嫌でも思い知らされる。
戦車の横に立ち、陛下を見上げる。東の空を見つめる陛下の瞳は、朝焼けを映し赤く染まっている。
「……陛下、こういうことは、私初めてで。なんとお声がけしたらいいのか……」
陛下を見上げる私は、今どんな顔をしているのだろう。きっと苦み走ったような、なんとも情けない顔をしているはずだ。
――だって、まさか自分が、戦場に向かう王を見送ることになるなんて。
戦乱の世に来てしまったことは分かっていたけれど、いざその場面が目の前にやってきて、恥ずかしくなるほど動揺していた。指先が冷たくてたまらないし、ローブの下に隠した膝の震えが止まらない。
「こういう時はさ、陛下に勝利を、神のご加護を、ご武運を、とかなんとか言えばいいんだよ」
陛下の隣の戦車に乗るダガンさんは、サラッとそんなことを言う。こういう場面には慣れているのだろう。いつもはベレトさんに見送られていたのだろうか。
ダガン王率いる勢力も、バビル軍と共に戦うらしい。数は少ないが今は貴重な戦力だ。
「……はい。そういう言葉があるのは分かってるんですけど……でも、なんか違くって……」
「違う?」
陛下が眉を寄せる。
「はい……あの、陛下…………」
戦争なんてやめてほしいです。
バビルとマリとエシュヌンナ、三者面談をもっとしたほうがいいです。
腹を割って話し合って、みんな仲良くやっていきましょうよ!文化は違えど、同じ人間でしょう!
……そんな理想論は甘すぎて反吐がでる。この圧倒的な現実の前ではおとぎ話にすらならない。
自国の民が殺されるのを待つか、先手を打って敵兵を殺しに行くか。提示されたのは惨すぎる二択。
私に言えることなんて、やっぱり何もなかった。
「…………勝ち負け、とかよりとにかく、無事に……帰ってきてほしいです」
声を振り絞ると、陛下はフフッと笑った。
「……甘いな。俺が帰るのはバビルが勝つ時だけだ。バビルが負ければ俺は死ぬ」
「じゃ、じゃあ、絶対……勝って! ……帰って……きてください……」
まだ始まってもいないのに泣きそう。
私はただ見送るだけなのに泣きそう。
だってこれからこの人達は、人を殺し、自分も殺されるかもしれない、この世の地獄に向かうのだ。
行ってほしくない。
怖い。
死なないで。殺さないで。
なのに陛下は涼しい顔を崩さない。
「……帰ったらもちろん、褒美をくれるよな?」
そう言って、ニヤリと口角を上げる。
……この人は何で、こんな時でも余裕があるのだろう。こっちはもう、心臓がこぼれ落ちそうで仕方がないと言うのに。
「褒美がないと頑張れないな……」
そう寂しそうに呟いて、わざとらしく眉を下げる陛下。
……もしかしてこれは……私を元気づけるため?
いやいや……これから過酷な場所に向かうのはこの人たちなのに。出陣する人に逆に気を遣われてどうする!
「……もう! なんでもあげるので、ちゃんと帰ってきてください!」
そう吐き出すと、陛下は嬉しそうに戦車から身を乗り出して、耳元に甘く囁いた。
「言ったな? もう今度は待たないからな。……そっちの覚悟だけして待ってろ」
「…………うぅ〜」
思わず睨む。でも陛下は楽しそうに笑って、戦車に身を引き戻した。
陛下の後ろでムトがふぅと息を吐く。
「……安心しろ。必ずバビルに勝利をもたらして戻る」
「はい……」
「シッパルで待っててくれ」
「はい……」
「土産にエシュヌンナ王の首を持ってきてやる」
「あ、首は全然いらないです」
陛下が変なことを言うものだから、妙に気持ちが落ち着いた。
いつのまにか陛下の後ろでは太陽が上がりきっていた。空から赤みが消え、薄黄色の柔らかい光が世界を優しく包んでいた。
まるで神が、バビル軍の進む道を明るく照らしているようだった。
その――光のせいだろうか。
連日の疲れのせいだろうか。
テンションがおかしくなってしまったのだろうか。
気づいたら私はバビルの大軍に向かい、大声を張り上げていた。
「……みなさん! 神はバビルと共にいます! 『神からの贈り物』はここにいます! どうか……どうか、バビルに勝利を!」
陛下もムトもダガンさんも、みんな目を丸くした。
我に帰って、わしは何をしとるんじゃと自分で自分が怖くなった。
一瞬の静寂のあと、地面を震わすような雄叫びが響き渡った。それは何万もの男たちの声だった。
――ノーア! ノーア! ノーア!――
大歓声の中、王と将軍は目を合わせて満足気に頷いて、馬をゆっくり進ませた。
明るくなった空、次第に遠くなっていく見慣れた背中。
行ってしまう。
陛下もムトも、振り返らない。
ダガンさんは振り返ってウィンクしてきた。
ザッ、ザッ、ザッ、隊列を組み進む数多の男たちの足音。だんだん小さくなっていく。
「ノア様……すごい……立派な王妃様になられますわ!」
バビル軍を見送りながら、サーラさんが手のひらから血が出そうな勢いでバチバチバチバチ拍手する。
「……すごくないです。やけくそです。もう、やけくそです」
「いいえ、とても立派でしたわ。あとはお世継ぎですね!」
「…………」
サーラさんは、こんな時でもブレない。




