ノアの冥界下り
「――冥界の女王、冥界の王、神々の中の強き方、匹敵するもののない戦士、我が願いを実現してくださる方よ、アッシュルの王女ベレトの捧げ物を受け取り給え――」
フードを被った人達が、両手をあげ、大きな声で一斉に唱えた。そして――
――ドン!ドン!ドン!――
――ハッ! ハッ! ハッ!――
激しく打ち鳴らされる太鼓の音、腹から出される男たちの掛け声。壁に反響し、鼓膜を震えさせている。
よくわからない香の匂いが鼻をつき、不気味さを増長させていく。揺らぐ松明の火が作る大きな黒い影は、今にも怪物の姿になって襲いかかってきそうだ。
この状況は、実にやばい。
少し離れた場所で、手すり付きの椅子に優雅に腰掛け頬杖をつき、こちらをニヤニヤ見てくるベレトさん。なんだあの女。ダガンさん見る目なさすぎ。そういえば係長の奥さんも美人だけど性格キツそうだった。あの顔はそういう女を引き寄せてしまうのかもしれない。
……いや、そんなことはどうでもいい。
この絶体絶命のピンチ、なんとかどうにかできないか?!
石柱の冷たさが背中からじわりじわりと伝わってくる。その一方で、神殿内は熱気に包まれ、太鼓の音もますます激しさを増していく。
腹に響くその音が、逃げ場のない恐怖を煽ってくる。呼吸は浅く、鼓動が速くなっているのを感じる。
なにか……なにか逃げる方法は……
――ドン!ドン!ドン!――
――ハッ! ハッ! ハッ!――
……無い!何も無い!!詰んでる!!
そんな中、一人のフード男がこちらに向かって歩いてくる。顔は影に隠されている。
だがその右手に握られたものを理解した瞬間、私の鼓動は一気に加速した。
「ンーーー!!」
鈍く光る短剣。これからどうされるのか嫌でもわかる。あぁ、神様、仏様、マルドゥク様!
無意識のうちに出していた声にならない恐怖の声は、太鼓の轟音にかき消される。体が反射的に後ろへ逃げようとするが、縄が食い込むだけで全く意味がない。
「ン――!ン――!!」
ついに、目の前にやってきたそのフード男。ピタリと立ち止まり、まるで時がゆっくり流れているかのように、短剣を高く掲げる。
――ドンドンドン!――
――ハッハッハッ!――
太鼓と男達の声がクライマックスを迎える。
「死を!!その女に死を!!」
――ベレトさんの叫び声。
「心臓を刺せ!!」
……あぁ、もはやここまで!
せっかくもらえた第二の人生、こんなところで終わるなんて……
無念だ。
――それに。あぁ、陛下、ごめんなさい!
私なんにもできませんでした!
とりあえず、謝る。
あとは、せめて、
せめてひと思いにやってくれ――
目をきつく閉じた。
顔に吹き付けた短い風で、腕がーー振り下ろされたのを感じた。
ジュブリ、痛覚よりも先に、世にも嫌な音が聞こえた。
太鼓と男たちの声がピタッと止み、神殿内を不気味な静寂が支配した。
そう、今、刃が私の胸元に突き刺さったのだ。
突き刺さったのだ……
……刺さったのだ……
「………………?」
違和感に目を薄く開くと、胸元には確かに短剣を向けられていて、刺さっている。でも刺さっているのは胸ではなくて、その手前の小さな皮の袋だった。
周りの人からは見えないだろう絶妙な位置にあるその袋、中から赤い液体が漏れ出しぽたりぽたりと垂れていく。
「…………??」
困惑の私に、袋を突き刺すフード男がガバリと覆い被さってきた。
深いフードから覗く唇が、ほんの微かな音と共に動いた。
「……死、ん、だ、フ、リ」
そう動き終えるとその口角はニッと上がり、男は勢いよく短剣を引き抜く動作をした。
考えるより先に、体が動いた。
「う……あぁうぅっ……うぅ……」
それっぽい呻き声をあげ、目を閉じ、パタリと首をもたれた。
「おおおおおお!!!」
その途端、神殿内は大歓声に包まれた。生贄の死を祝い、太鼓が再び鳴り始め、男たちの声が高らかに響きだす。
「よくやった!これで私とダガン様の仲を割くものはいない!素晴らしい死だ!」
ベレトさんの喜びのシャウトが聞こえた。
……私渾身の演技がどうも通用したらしい。そして絶賛死んだフリ中につき目をつぶっていて見えないが、目の前のフード男は私を縛る縄を解いているようだ。
次第に縄が緩んできて、リアリティの追求のため、体を傾け倒れるフリをする。だがすぐに体を支えられ……横抱きにされた。
お姫様抱っこ。……たくましい腕だ。
……誰だ……
この助けてくれたっぽい人は誰だ……
目を開けたいけどまだダメか……
ところでそろそろ息が限界だ……
ちょーっとずつ、ちょーっとずつ息を吸えばバレないか……?
なんて考えあぐねていると。
「おい、肝臓神官。その死体……また例の研究か?」
ベレトさんの声。
そして、それに答える声が、すぐそばで発された。
「……はい。今回の生贄は特にいい研究材料になりそうです。まだ体が温かいうちに捌きたいのですが」
その声は、低くて甘い男の声だった。
……ああ……私はこの声を知っている。
目を開けたくなるのを必死に我慢する。
「……ハッ!人間の肝臓で占いをしたいとは、お前は本当に変わった神官だな!いいぞ、好きにやれ!」
「ありがとうございます。それでは捌いてまいります」
私を抱えたまま、男がスタスタ歩きだす。そのうち空気の温度が変わり、神殿内を出たのがわかった。
「……もう大丈夫だ」
その小さな声にゆーっくりと、恐る恐る目を開けたら、案の定。
フードの中から色白の美形な男が、楽しそうに私を見下ろしていた。
「……よう。名演技だったな、嬢ちゃん!」




