2人の王【side ラビ】
また、ノアが消えた。
外で倒れていたサーラが話すには、拉致犯はこれからここで落ち合うことになっていた、亡命中のエカラトゥム王イシュメ・ダガン。サーラは幾度かこの男に会ったことがある。
村長に聞くと、ダガンは昨日、数人の取り巻きと共にこの村に到着した。適当に民家借りるね、バビル御一行がきたらまた来るよ、と言い残してすぐに屋敷を出て行ったらしい。どこに寝泊まりしているかは村長もわからないという。
「陛下……本当に……申し訳ございません……」
サーラは憔悴しきっている。
「サーラ、自分を責めるな。ノアは殺されはしない」
「……エカラトゥム王は一体何を考えているんでしょう……会合前に陛下の王妃となる方を拉致するなんて……」
床にぺたりと座り込むサーラの背中をさすりながら、アウェルは眉をしかめる。
「……交渉の材料に使うんだろうな。昔からあの男はそうだ。王であるために、使えるものはなんでも使う」
ラビは拳を握りしめる。
一見、親しみやすそうな明るい男に見えるが、ダガンは目的のためにはなんでもする。王たるプライドを捨て、かつて格下だった相手のもとに助けを乞いにくることだってする。
エカラトゥムの王に舞い戻る、という目的のためなら、奴はなんでもする。
「ダガンはそうやって幾度も危機をも乗り越えてきた。あの男ほど何度も死の淵を乗り越えてきた男はそういない。……さすがあの父親を持つだけある」
「……『偉大なる大王』。ダガン王はまだ、偉大すぎる父親の呪縛に囚われているようですね……」
アウェルがボソリと呟いた。
ーー今は亡きダガンの父・「偉大なる大王」ことサムシ・アッドゥ。彼はかつてこの「二つの川の間の地」の北部一帯を支配し、巨大な王国を一代で築いた、まさにカリスマ、生きる伝説だった。
これからラビが攻めようとしているエシュヌンナも、マリ王国も、かつてはその巨大王国の支配下にあったのだ。
1人のカリスマ・「偉大なる大王」が急速に作り上げた巨大王国は、彼の死によりあっというまに瓦解する。今が好機とばかりに各都市が反乱を起こしたのだ。マリもエシュヌンナも革命の狼煙をあげた。
ダガンが治めていたエカラトゥムは、エシュヌンナに攻撃され、支配された。ダガンは命からがら国を脱出、かつて父王の手下であったバビル王ラビの元へ身を寄せる。
その後起こった「対エラム戦争」。エラムの攻撃を受けたエシュヌンナは一時エカラトゥムから撤退、その隙にダガンはエカラトゥム王に舞い戻る。
……が、執拗なエラムの攻撃に耐えきれず、捕えられたダガンはエラムに連行され、そこで凄惨な拷問を受ける。
多額の身代金を払って解放されたダガンは、再びバビル王のもとへ逃れる。そしてバビルが「対エラム戦争」で勝利しエラムを駆逐すると、ダガンはまたエカラトゥム王に復帰した。
しかし、ダガンの王位はやはり長くは続かない。ダガンは間もなく面倒に巻き込まれ、三度目の国外亡命を余儀なくされる。ダガンは亡命生活を送りながら情報を集め、エカラトゥム奪還の機会を狙っていた。
そんなダガンの耳へ入ってきた極秘情報。
「エシュヌンナが不審な動きをしている」――密かにバビルとの国境に近い町に1万もの兵を送り込んでいること。また、周囲の有力者たちに穀物を配り、エシュヌンナの味方につくよう水面下で働きかけていること。
エシュヌンナ王はバビルの王女を娶っている。すなわちエシュヌンナ王ツィリとバビル王ラビは「兄弟」である。エシュヌンナの一連の動きは、兄弟への裏切りに等しかった。
ダガンはラビにこの情報を伝えることにした。案の定ラビはエシュヌンナへの攻撃を決意、ダガンにさらなる情報を提供し、協力するよう求めた。
かくしてラビ王とダガン王は、エシュヌンナに近いこの小さな村で落ち合うことになったのである。
――ドンドン。戸を叩く音。
「陛下!申し上げます。ダガン王がご到着です」
兵の声に、部屋にいたものが一斉に戸を振り返る。
部屋の中に緊張が走る。
にこやかに入ってきたダガンは、途端に鋭い視線を全身で浴びる。ダガンはヒラリと両手を上げる。
「……バビル王。無礼を許してほしい。『神からの贈り物』は無事だ。安心してくれ。……サーラ、さっきは殴って悪かったな」
サーラがキッと顔を歪め身を乗り出そうとするが、ラビはそれを後ろ手に止めた。
「……なにが望みだ」
「さすがバビル王、話が早くてありがたい」
薄暗い部屋、張り詰めた空気の中、2人の王が言葉を交わし出す。
「俺の望みはずっとひとつ。エシュヌンナを滅ぼしたら、エカラトゥムを解放し俺を王位につけてほしい」
「随分大きく出たな」
「エシュヌンナの情報をやっただろ。それに、そのために『神からの贈り物』を使わせてもらってる」
「…………」
「ノアちゃん。結構かわいいよね。チョロいし」
「…………!」
「陛下」
無意識に足を踏み出そうとするラビに、すぐ後ろからムトが低く、声をかける。ムトもまた、何かを堪えながらダガンを睨みつけている。
ラビは静かに深く息を吐き、対峙する男を見据える。
「……エカラトゥムは北部貿易の重要な拠点。手放すには惜しい都市だ。……王位は約束できないと言ったら?」
「ノアちゃんを連れてくよ。『神からの贈り物』が側にいれば心強い」
「神を敬わないお前がよく言うな」
「敬ってたのに、神が俺にばかり試練を与えてくるからさ」
ダガンがやれやれと、肩をすくめる。
ラビは仕方なく、ため息をつく。
「……いいだろう。エカラトゥムの玉座は任せる」
ラビの言葉に、ダガンはニヤリと口角を上げる。
「そうこなくっちゃ。ノアちゃんを返さなきゃならないのは残念だけどね。……おーい、書記官来てくれる?……はい、アウェル君も。粘土板の準備して」
ダガンの書記官と、バビルの書記官アウェルはすぐに記録の準備をする。――王が神に誓う言葉を、粘土板に刻む準備を。
2人の王は村長が用意した太陽神・シャマシュを模した小さな神像の前で、互いの取り決めを誓った。
ラビは亡命中のダガンを保護し、エカラトゥムを奪還した暁にはダガンを王位につけること。
ダガンはラビのエシュヌンナ戦の支援をすること、そして『神からの贈り物』をラビに帰すこと。
両国の書記官はそれぞれ文字を刻み、それを終えると交換し、互いの記した内容に間違いがないかを確認した。そして火にくべた。
2人の王の誓いが終わる頃には、もうすっかり夜も更けていた。
「……ダガン、早くノアの居場所を教えろ」
「もちろん。……いやぁそれにしても、あの女嫌いのバビル王がね。随分ご執心なことだね」
「神が王妃として遣わした女だ。無碍にはできない」
「またまた。強がっちゃって」
◇◇◇
屋敷を出たダガンとラビ達は、暗い道を進み、離れた小屋へ向かう。だが目的地が近づくにつれダガンの背中には冷たい汗が滲みだした。
「ここにいたはずの警備がいない……」
「おいダガン、どういうことだ」
2人の王は一瞬目を見合わせて、そして同時に走り出した。
「陛下!」
ムトも続く。
小屋の前では男が数人、倒れていた。
「!……おい、そこで倒れてるのはお前の兵か?!」
「……そうだ、まだ息はあるが……刺されてる。馬の数も減ってる……」
「陛下! お下がりください!」
兵がラビを囲み、王を守るため剣を構える。
ムトは剣を手に、小屋の戸を蹴り開けた。
小屋の中ではまた、ダガンの兵達が倒れていた。
「ノアちゃんは奥の部屋だ!」
ダガンの声に、ムトは倒れている男達の体を乗り越えさらに進む。そして奥の戸に耳を当て、なんの音も聞こえないことを確認し、慎重にその戸を開けた。
だがそこには誰もいなかった。
「陛下……誰もいません」
「……どういうことだ。ダガン、ノアをどこにやった!」
「陛下、ダガン王の兵も刺されています。連れ去ったのはまた別の勢力かと」
「……ダガン、お前がここにくることを知っていた人間は?」
王と将軍に睨まれ、ダガン王はふらりと壁にもたれかかる。その顔から血の気が引いていくのが見て取れた。そして力なく首を横に振る。
「ほんの身内だけだ……」
ダガンに付き従っていた兵が、小屋の床に何かを見つけた。
「……ダガン様……犯行に使われたと思わしき短刀がここに。ですが……見慣れぬ形です。エカラトゥム軍のものでもバビル軍のものでもなさそうですが……」
「短刀……ムト将軍、どこのかわかるか」
兵から短刀を受け取り、ムトはそれを松明の明かりにかざす。
「これは北部の様式……でもマリのものではない。……これはおそらく……エシュヌンナ……のものに思われます」
「エシュヌンナ?!まさか付けられていたのか?」
ダガンが声を荒げる。
「くそ!」
ラビは拳を握りしめ、土壁を叩いた。
「陛下、馬の足跡はすでにかき消されていて……追えません」
遅れてきたアウェルが報告をする。
「……陛下。殺さず連れて行くということは、人質にするということでしょう。拉致犯はエシュヌンナに向かっているはずです。すぐに本隊に戻りましょう」
ムトが短刀を憎々しげに睨みながら、進言する。
「……ダガン、急いで準備しろ。ノアを危険に晒した罪はしっかり償ってもらう。アウェル、怪我人の手当てを。意識が戻ったら話を聞け。……奴らがノアをエシュヌンナに連れ帰る前に……さっさと落とすぞ」
ラビは小屋を出て、屋敷に向かって走り出した。




