三角関係が壊れたら
この古代世界には、東京にはありふれていたいろんなものが、無い。
特に、水道、電気、ガス、交通網。
インフラのありがたさを身にしみて感じる今日この頃。蛇口をひねれば水が出る、あの当たり前の日々に感謝したい。
トイレは……意外とある。王宮には現代の水洗トイレに近いものがある。でも町の外に出たら、もう、アレである。だいぶ慣れたけど。
スマホがない生活は慣れてしまえば意外とどうにかなる。無ければ無いで生きていけるとわかった。
米。
食べたい。ここはパン食がメイン。米が恋しい。
そして……今、私が猛烈に欲しいもの。
東京にあって、ここにはないもの。
それは……
酔い止め……酔い止め薬である。
「うっ……うううううう」
「……ノア……辛そうだな……」
船の一番後ろで身を乗り出し水面に向かい吐いていると、ムトと今後の進路について話していた陛下がやってきて、背中を優しくさすってくれた。
そう、中川乃愛、現在絶賛、船酔い中。
シッパルから出発したバビル軍はいくつかの隊に別れ、私と陛下がいる隊は東側の川まで行軍し、小型の船数隻に分かれて乗りこんだ。
バビルから駆けつけたサーラさんとは無事船着場で合流できた。
アーシャちゃんは急に実家に帰ることになったらしい。サーラさんも事情はよく知らないそうだ。
エシュヌンナへの道中、「名前を言ってはいけないあの人」の話を聞けるかと思ったのだけど。
シッパルでは特段目ぼしい情報は得られなかった。
それにしても、酔い、辛い。あぁ辛い。
医薬品、あれはやはり人類の偉大なる大発明だったのだ。医薬品の開発に携わる方々に私は心から敬意を表する!
「この程度の川の流れで吐くとは……大丈夫か。ノアは弱すぎるな」
ムトは心配してくれているのか、けなしているのか。
「仕方ないでしょ……私乗り物酔いしやすいし……船なんて隅田川クルーズの船しか乗ったことないし……こういう小型の木製の帆船なんて初めてだし……うぅぅぅ」
「ノア様……本当にお辛そう。陛下、村にはあとどのくらいで着くでしょうか?」
水を持ってきてくれたサーラさんが陛下に聞く。
「この風向きなら……夕暮れまでには着くだろう。ノア、もう少しの辛抱だ」
「はい……うぅうううう」
これから向かうエシュヌンナに、実は酔い止め薬的なものがあったり……しないだろうか。
そのエシュヌンナだが、実はこの「二つの川の間の地」では、いわゆる3強に入る国である。
ーーこの「二つの川の間の地」には都市国家が多数点在している。周りの都市をどんどん落としていくことで、都市国家は領土を拡大していく。
長らく特に有力だったのが、南部のラルサとバビル、北西のマリ、北東のエシュヌンナ。ラルサはつい先日バビルが征服したので、バビルが南部最強となった。
それからエシュヌンナのさらに東には、大国エラムがある。エラム国は数年前の「対エラム戦争」でラビ陛下が撃退したので、最近はあまりこちらの地域にはやってこない。
つまり現在この地域には、バビル、エシュヌンナ、マリの3トップが君臨している。この3都市は多分同じくらいの国力で、互いに同盟を結んだり、時に対立したり、なかなか難しいバランスで三角関係を保っている。
そしてその三角関係が崩れとき――
それはすなわち、戦争が起こるときなのである。
これから我らがバビル王が攻め込むエシュヌンナは、つい数年前まで大混乱の中にあった。
「対エラム戦争」でラビ陛下に撃退されたエラム国が、撤退する際に通りかかったエシュヌンナを腹いせに略奪しまくったのだ。当時のエシュヌンナ王も殺されたらしい。そしてエラムは暴れ回って満足したのか、そのまま東に帰って行った。
空位になったエシュヌンナ王の座に着いたのが、軍の司令官だった男・ツィリだった。王族でもない軍人が、しかも平民出身の男が王になったのだ。当時のエシュヌンナはよっぽど混乱していたのだろう。
そしてこの男、なかなかに王としての資質があったらしく、早速ご近所バビルと外交的交渉を始める。
その頃、ラビ陛下はラルサへの侵攻を検討している段階だった。陛下はラルサ攻めに集中するため、エシュヌンナと組むことにした。ナディア王女を軍人上がりの王に嫁がせて、同盟関係を構築したのだ。
そしてバビルがラルサを併合した今――
エシュヌンナはバビルを裏切った。
それを知り陛下は激怒した。必ずやあの憎たらしきエシュヌンナ王を除かねばならぬと決意した。
――というようなことをムトから聞いたわけだけど、やだもう。関係性複雑。職場の男女関係くらい複雑。頭こんがらがりそう。吐きそ。もう吐いてた。
◇◇◇
木製の船を兵の皆さんがオールを漕ぎ漕ぎ、泰然たる大河の流れに逆らい上流へとのぼっていく。川では葦で作られたさらに小型の船も見かけた。筆になったり家になったり船になったり。葦はいろんなところで大活躍だ。
「それにしても……この部隊はなんでこんなに人が少ないんですか? 王がいるというのに、この隊が一番人数少なくないですよね?」
ヨロヨロに船の縁にしがみついている私の横で、陛下は遥か船の進む先を見つめる。
その横顔があまりにも美しくて、あぁイケメンって、ただ髪が風にかきあげられるだけで絵になるんだなぁと感心する。ちょっと吐き気が和らぐような気がしなくもない。
「エシュヌンナを攻める前に……会いたい人物がいる。エシュヌンナの状況を詳しく知っている男。小さな村で落ち合うことになっている」
「誰ですか?」
「気にしなくていい。村に着いたらゆっくり休め」
そう言って陛下は船の前の方に行ってしまった。
軍事機密だろうか。
◇◇◇
太陽が川の向こう側に沈み始めた頃、小さな船団は川沿いの小さな村に着いた。陛下も目立たぬよう兵士のローブに身を包み、女子チームもフード付きのローブを着る。村長らしき初老の男性が恭しく陛下を迎える。一番大きな建物へ案内され、男性陣はなにやら別室に行ってしまった。
ひとまず、休憩。村長の奥さんが軽食と温かいワインを出してくれた。酔った体にアルコールはどうかと思ったが、水道も自販機もないこの世界で飲み物は貴重である。ゆえにわがままは言えない。大人しく頂く。
そしてまた酔う。
「……サーラさん……ちゃっと夜風に当たってきます……」
「ノア様!やだ、どうしよう。なにか胃に優しいものを……」
「吐いたらすぐ戻ります……」
「お一人になるのはダメですよ!私たちが何者か村人たちは分かっていないとはいえ、何が起こるかわかりません。危険です。私も一緒に参ります」
つい先日、私が一人になった瞬間を狙い拉致させたサーラさんが言うと説得力がある。言葉の重みが違う。
2人で建物の外に出て、日干しレンガ造りの家々の間を少し歩く。すっかり夜になっていて、頭上には天然プラネタリウムが広がっている。その美しい星空の下、適当な空き地を見つけ、私は地面に星空を創造する。
「……はぁ、はぁ…………少しスッキリしました……埋めとこ埋めとこ」
「ノア様……よかったです。今度はワインでなく、スープをもらいましょう」
サーラさんが、小さな声でそう言った時。
「吐き気に効くいい薬草があるよ」
横からどこかで聞いたことがあるような男の声がした。
振り向くと、フード付きのローブを着た背の高い男が立っている。フードに隠れて顔は見えない。
サーラさんが素早く男と私の間に立ち塞がる。
「どちら様です?」
丁寧ながらも警戒心を含んだサーラさんの声。いやいや守られているだけじゃダメだ。私も立ち上がり……とりあえず……ボクシングの構えを取る。ボクシングやったことないけど。形だけ。形だけでも警戒しておきたい。
男が淡々と答える。
「たいしたものじゃない。彼女がひどく苦しそうに見えたから。ただの親切心」
「……ご親切にありがとうございます。でも大丈夫です、すぐに戻りますから」
「村長の屋敷には残念ながら薬草の類はないと思うよ」
「なぜあなたがそれを?」
「別にいいじゃん。それより……俺と来てくれない? ずっと会いたかったんだ……神からの贈り物」
男がそう言うなり、サーラさんがバッと手首を掴んで、男に背を向け走り出した。
「ノア様走って!」
「は、はい!」
男を振り返る余裕もなく、足がもつれそうになりながらも必死にサーラさんについていく。
足音が複数聞こえる。何人かに追われている。それでも家々を抜け……向こうに大きな屋敷が見えてきて……あと少しだ!
だがその時、
目の前に、月明かりを遮る人影。
サーラさんが急停止し、すぐに体を反転させる。
さっきの男に先回りされたんだ!……そう気づいた瞬間、サーラさんが膝から崩れ落ち、バッタリとうつ伏せに倒れた。
「……?!サーラさん!サーラさん!」
慌ててしゃがみその肩を揺するが、サーラさんはぐったり、目を開かない。
「……気絶しているだけだよ」
上から男の声が降ってきた。
バッと見上げると、フードの下で男の口が微笑んでいた。
「な……何ですか!」
「何?……何って、そんな野暮なこと」
男は楽しそうにフードを外す。
そこに現れた顔に、驚愕した。
「…………か……」
暗いけど、わかる。
わからないはずがない。
間違えるはずがない、このお顔。
「さ。行こうか」
「…………係……長?……なんでここに……?」




