〇〇しないと出られない部屋 ②
陛下が覆い被さってきて、首元に顔を埋められる。黒い髪がふわふわと肌をかすりあげる。心臓が跳ね上がりそうな状況で、また耳元に唇を寄せられる。聞こえたのは、絞り出された低い声。
「お前が欲しい」
手首を押さえつけられて、足を絡められ身動きが取れなくなる。
「やっ、待って……んっ!」
陛下は首に吸い付いて……
でも少しして、名残惜しそうに唇を離した。
「……陛下?」
体を被せたまま寝台に顔を押し付ける陛下。 耳元で聞こえてきたのは……
深いため息と、とてつもなく寂しそうな声だった。
「……王女の嫁いだ国を攻めに行くなんて、なんて薄情だと思っているんだろ。冷酷な男だと、やはり征服王だと……思ってるよな」
図星で何も言えない。
「だがあの国は……エシュヌンナはバビルを裏切った。ムトが報告してきた。奴らはバビルの王女を娶り表面上は同盟を結びながら、裏では国境地帯の地元有力者たちに賄賂をおくり、エシュヌンナ側に寝返るよう画策していた。……バビルに攻め込むために」
「えっ?!」
思わず大きな声を出すと、陛下はまた首元に顔を埋め、手の指を優しく絡めた。でもその指先はかすかに震えている。
「ナディアには悪いと思っている……だがバビルの民を守るため、エシュヌンナとは戦わなければいけない。攻め込まれる前に。民が殺される前に」
……のしかかってくるその逞しい体が、重いはずのその体が、なぜだか小さく小さく感じた。
それはまるで父親に怒られ、泣いて母に抱きつくような小さな男の子。
そしてふと、ラルサにいた時にシンさんが言っていた言葉が脳裏をよぎった。
陛下は無益な戦を避けている、と。陛下は本当はとてもお優しい方なんですよ、と。
ーー私はまだ、この王をちゃんと理解できていなかったようだと、そのときはっきり悟った。
「陛下……本当はエシュヌンナと戦争なんてしたくない?」
「……民のため。国のため。神のため」
「ナディア王女が心配?」
「……あれは気丈な子だった。エシュヌンナに嫁ぐ時も泣き言一つ言わなかった。本当は嫌だったろうに。血の繋がりはないが、あの子は実の家族のように思っていた」
その悲しい声に、陛下の頭を無性に撫で回したくなった。そして、思いっきり撫で回した。
「……おい、なんだ」
「よしよし、です」
「…………」
「……陛下、バビルを守るためにはエシュヌンナと戦うしか……ないんですね」
「エシュヌンナの王は軍人上がりの王。和平より戦争を好む」
「陛下は戦争なんてしたくないのにね。可愛いナディアさんを嫁がせてまで、友好関係を保とうとしたのにね」
「……仕方ない。こうなったらやるしかない」
「…………」
……覚悟を、求められている気がした。
理解できない文化、お世継ぎ争い、戦争ーー
この世界で、この人のそばで生きていくには、それらを受け入れていく覚悟が必要だ。
それを身に染みて実感した時、ふと昔、自分がこんな決意を表明したことを思い出した。
それはーー
『ーー私は、社会福祉の向上と人々の幸せに貢献するため、日々の業務に真摯に向き合い、困難な課題にも誠実に取り組んでいく。そして信頼される国政の一端を担う人材として成長していきたい。』
ーー△△省への就職試験の際、「あなたはどのような人材になりたいか?」という論文試験で記述した回答だ。
公務員試験の問題集通りの、よくある定番の解答例だが、嘘じゃない。それは心からの回答だった。
若干複雑な家庭環境で育った私は、できればこんな寂しい思いをする子供がいなくなればいいと、諸々の制度を見直して、社会全体の福祉をもっと向上させる必要があると、本気で考えていた。そして役人になった。
残念ながらその決意は道半ばで閉ざされた。そしてこの異世界で翻弄されている間に、頭の片隅に追いやられていた。
それでも。
まだ心の奥底で静かに燃えている。
ーー社会福祉の向上と、人々の幸せのために。
今はまだ、受け入れられない文化も沢山あるけれど……
ーー困難な課題にも誠実に取り組む。
受け入れられないからって、目を逸らし続けていてはダメだ。
ーーそして信頼される国政の一端を担う人材として成長していきたい。
バビロン王ハンムラビの名を、「正義の法典」とともに、永遠に歴史に残す助けをしたい。
どうせ一度は死んだ命だ。
おまけにもらった第二の人生。
もう、惜しむこともないだろう。
「……陛下、私もお供します。一緒にエシュヌンナへ行きます」
「戦場なんて嫌だろ。ここでイルタニと待ってろ。法典は俺が持ってきてやる」
「いいえ陛下、戦場でもなんでも行きたいです。私はもう……この世界の住民なんだから。目を背けちゃダメなんです。陛下と同じ世界を見ます。だから一緒に行きたいです」
「…………」
「でも……私、血とか無理だし……運動神経良くないので……戦場では隠れててもいいですか……?」
陛下はククッと笑う。
「あぁ。戦場の真ん中でも、百戦錬磨の戦士でもある王自ら守ってやる」
「やった!それは心強い!……それと、ナディア王女……救出しましょうね」
「……そうだな。あの子なら再婚したい男はいくらでもいる」
「よかった。……それでは陛下、よろしくお願いします」
「……それと、こっちもよろしく頼みたいんだが」
「え?!」
陛下はニヤリ、体を起こす。
思わずビクッと体を震わすと、陛下は私の手を取り甲にちゅっと口付けて、優しくふわりと微笑んだ。
「今日のところはこれで許してやる」
「あ……ありがとうございます」
り、りあるで◯ずにー王子様だぁ……
いや、王様か。
そして陛下は寝台から下りてドアに向かい、外に向かって声を張り上げる。
「……イルタニ。聞いていただろ。朝が来たらすぐに発つ。準備をする。戸を開けろ」
「……」
「イルタニ。王の命令だ」
「……」
「開けろ」
「…………」
しばしの無音の後、ギギギ……ゆっくりと戸が開かれた。暗闇の中に、バツが悪そうに俯くイルタニさんの姿が浮かぶ。
陛下は腕を組み、イルタニさんの前に立つ。
「俺がお前たちのことを何も考えていないとでも思ったか。俺が死んだ後のお前たちのことも、俺はちゃんと考えてある。そんなに兄のことを信じられないか?」
「いいえ。兄上……神々に愛されし王、偉大なる王、ラビ陛下」
イルタニさんは定型文を無機質に答える。
「そうだ。お前は王の妹、お前に手を出させはしない。それに…………」
陛下がイルタニさんに何かを耳打ちしはじめた。するとイルタニさんの顔がみるみるうちに生気を取り戻し、あっという間に満面の笑みになった。
「……兄上!……承知しました。行ってらっしゃいませ。朗報をお待ちしております!」
「あぁ。待ってろ」
イルタニさんがにっこり、私を見てガッツポーズをする。
……なんだなんだ。
陛下は何を吹き込んだんだ……




