最終話 ノアの方舟
ーーバビルを去ってから、ふた月。
私は、束の間のスローライフを送ったあの村で、エニアちゃんの家に住まわせてもらっていた。
泣きながら1人馬に乗って現れた私を、おばあちゃんやエニアちゃん、村の人たちは温かく迎え入れてくれて、今やすっかりここの住人だ。
正直に言えば、最初は陛下が探しにきてくれるかも?なんてちょっと期待していた。だが、その気配は全くない。それも当然だろう。あんな手紙ひとつ置いて、無断で出てきてしまったのだ。陛下には……手紙の内容もそうだけど、きっと呆れられたのだろう。
でも、これでいい。これでよかったんだ。
今では、あのせわしない日々は夢だったのかもしれないと、思い始めている。
そうだ、夢だったのだ。豪華な王宮で、たくさんの女官さんたちにお世話していただいて、美麗なる陛下に愛されながら暮らすなんて、夢以外の何物でもない。
夢から覚めた。
心機一転、今は平民らしく、仕事をして、日々慎ましく暮らしている。
仕事は、文字を読み書きできることを生かし、文書の作成代行業務をやらせてもらっている。
ーー机の上に広げた、まだ柔らかい粘土板。
今日は隣村の村長からの依頼で、中央への嘆願文書を書いている。なんでも、川の流れが変わりつつあるらしく、このままだと畑に水を引くのが難しいので、運河を掘削して欲しいとの依頼だそうだ。
この村も今やバビル領。陛下は地方行政にもメスを入れているため、このような文書作成の需要はこれから増えていくことだろう。
ーー文字を刻み終え、腕を伸ばし、思いっきり背を反らす。
ずっと机に向かっていたから、肩が凝った。
でもこの感覚……
なんだか懐かしい。
そう、これはデスクワーク。
やっぱり、デスクワークは落ち着く!
「ノア、そろそろ昼飯にする?」
向かい側に座っていた、タッ君が言う。エニアちゃんの想い人であり、もうすぐ11歳になるタッ君の手には葦の筆が握られていて、その前には文字を刻みかけの粘土板。
「んー、もうちょっと……。タッ君どこまで書けた?」
「俺はギルガメシュが旅に出たところまで書けたよ」
タッ君は一生懸命、「ギルガメシュ叙事詩」を粘土板に模写している。読み書きを教えて欲しいと頼まれたので、仕事の傍ら、こうやって教えているのだ。
ちなみにもう名前を隠す必要もないので、村の人たちからは「ノア」と呼ばれている。
「もうそんなところ? さすがタッ君、早いじゃん」
「まあね。でもこれ読めない……ギルガメシュが会いに行きたい人……方舟を作って大洪水を生き残った人の名前ってさ、ウタ…………なんて読むんだっけ?」
「ウタナピシュティムだよ」
タッ君が頭を抱える。
「長え!……もういいや、ノアにしよ。いいよね? 短くて書きやすいし。あ、そういえばノアは川をどんぶらこって流れて生き延びたんだから、ちょうどいいね」
「いやいや。いくらどんぶらこでも、それじゃ本当に『ノアの方舟』になっちゃうじゃん。私が旧約聖書の元ネタになっちゃうじゃん」
「えー? だって長い名前書くのめんどくさいんだもん」
タッ君は賢く達観している面もあるが、時にとてもズボラである。これは早々に直してもらわねばならない。
「……タルシシュ君、いいですか。書記官たるもの、長い単語でもめんどくさがらずに、横着せず正確に、書き写さねばなりませんよ。正しく情報を伝えること、それが文書の意義なのですから」
プチお説教をしていると、小屋の戸口からひょっこり、エニアちゃんがのぞいてきた。
「ノアさーん……あの、……あの………」
いつもハキハキしているエニアちゃんが、珍しくゴニョゴニョしている。何かあったのだろうか。
「エニアちゃん、どうしたの?」
「……ノアさん、その…………ぼちぼちのハドキムさんは……やめちゃったの……?」
「え?」
なんの話かと頭を傾げながら小屋を出て、エニアちゃんの後に続き、表の方に回ってみるとーー。
そこには、澄み渡る青空の下、
やんごとなき方が立っていて、
それはそれはやんごとなきことを、
ひとりでしてらっしゃった。
「…………陛下……? 何してるんですか…………?」
「白目だ」
そう、なぜかラビ陛下が、両下瞼を指で引っ張って、白目を剥いて立っている。
なにこれ???
思わず3歩ほど、後ずさった。
「……白目ですね……綺麗な白目……」
「ノア。俺と結婚してほしい」
「んな白目剥きながら言われましても」
思わず冷静にツッこんでしまった。
「バビルでは正式なプロポーズをする時、白目を見せるしきたりがあるんだ」
陛下は変わらず白目を剥いたまま、教えてくれた。
なにその奇妙すぎる文化。バビルやば。
「…………そうなんですか。すごい文化ですね…………」
「んな文化あるわけねぇだろ!!!」
陛下は白目を解除し、地面の砂を蹴った。
陛下が……陛下がセルフツッコミした!!!
なんて貴重なものを見てしまったのだろう!!
……あ。顔が赤い。やっぱり白目するの恥ずかしかったのかな。ふふ。かわいい。
いやいや、そんなことを言っている場合ではない。
なんか陛下が来た!!
改めて驚いていると、エメラルドの瞳が、数歩先から真っ直ぐこちらに向けられた。
ドキリとする。
「……ノア」
「…………」
「何も知らなくて……悪かった。何も考えず、穢れを祓うだとか、そんな言葉でお前を傷つけていたな。本当に……悪かった」
そう言って、陛下は視線と、肩をガックリ落とした。
どう見てもやんごとなき方が、こんな場所にきて、謝罪をしている!この異常事態になんだなんだと、遠巻きにギャラリーが出来つつある。
「いや!あの、陛下はちっとも悪くないです。これは私の問題なので、謝らないでください。この世界では、穢れを祓うこととか、呪われた言葉を口に出さないとか、そういったことがすごく大事にされてるの、よく分かってますから」
「でも、お前を一人で抱え込ませた……ライルのことも、『神からの贈り物』のことも。辛かっただろ」
陛下はますますショボンとする。
こちらも申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「陛下、どうか気にしないでください。むしろ私が謝らなくちゃいけないのに……」
「その通りだ。俺に何も言わずに出て行ったこと、ちゃんと反省しろよ」
ショボンとしていた陛下の顔が一転、お怒りモードになった。思わず頭をガバッと下げる。
「も、申し訳ございませんでした!!」
頭上から、こわーい陛下の黒い声が降ってくる。
「お前がいなくなって気が気じゃなかった。俺を苦しませた罰、その償いはどうするつもりだ?」
「……陛下、ど、どうか命だけは……」
おそるおそる顔をあげると、陛下は呆れたように肩を下ろした。
「……もう『陛下』じゃない。王位はイルナに譲ってきた」
「へ?!?!え、え、え、……なななんで?!」
突然の爆弾発言に声が上ずる。
陛下がジロリと、睨んでくる。
「……なんだよ。王じゃない俺はお呼びじゃない
とでも?」
「い、いや、そう言うわけでは全然ないんですけど!……だってあれだけ国と民に尽くしてきた人が、そんな、あっさり……」
「十分尽くしただろ。あとは好き勝手にさせてもらう。バビルにはムトやアウェルがいるし、イルタニたちもついている。イルナは立派にやれる。……だから俺はもう、ただひとりの人間だ」
そう、宣言した陛下……いや、ラビ君は、なんだかとても、晴々しい顔をしていた。
「ひとりの人間として、俺はプロポーズをしにきた。……バビル王には『神からの贈り物』が必要だったが、俺にはノアが必要だ」
「……」
「たとえどんな背景があっても、ノアは俺の愛しい女だ。ノアと一緒にいたい。お前が離れていくなんて耐えられない」
ひたむきで真っ直ぐな言葉に、胸がいっぱいになる。言葉が出てこない。
ーー陛下が、陛下を辞めて、私のもとへ来てくれた。
「……これからも俺のそばにいてほしい……」
この人にそんな甘い声で、甘い顔で囁かれて断れる女がいるだろうか。
いや、いない!
目に涙を溜めたまま、首をコクコク、縦に振った。
「……よかった」
緊張していたのか、陛下の美麗なるお顔がデレっとほどけた。
嬉しそうに微笑むその表情に、胸がギュッと、締め付けられた。
「それと……この世界の文化を全部受け入れようとしなくていい。お前がおかしいと思ったことはちゃんと言え。ちゃんと聞くから。それで2人で話して、妥協点を探して、新しい文化を作ろう」
「……はい……!」
何度も頷くと、ギュッと抱きしめられた。
その温かい腕に包まれて、たまらず縋り付く。
この温度、この香り。
うん。私の大好きな場所だ。
「……それにしても、よくここがわかりましたね。私、どこに行くか誰にも言ってなかったのに……」
「ムトが、ノアが行くならきっとあそこだろうと。妙に嬉しそうに言っていた」
……ムトめ……。
「ここでムトと何かあったのか?」
ラビ君の声が、低くなった。
「い、いいえ?」
「……まぁいい。俺が上書きしてやる」
ラビ君はそう言って、私を軽々と抱き上げた。そしてスタスタ歩き出す。
「わっ!」
「その裏の小屋に住んでるのか?……2人で暮らすには小さすぎるな。金と人手は持ってきた。家を改装するぞ」
「え?!金と人手って……」
ふと目線を奥にやると、少し離れた家の影からひょっこり顔を出し、ニヤニヤ手を振ってくるアーシャちゃんの姿が見えた。
「アーシャちゃん?!いやいや、……ていうか、ちょっと待ってください!」
「いやだ。早くいろいろ確かめたい」
「いろいろってなに!」
「言わなくてもわかるだろ?」
そういって、ニヤリと微笑むその人は、相変わらず色気が半端ない。顔が熱くなる。
「……ダメです!そんないきなりダメです!」
「譲位の手続きと、仕事の引き継ぎで疲れたんだ。早く褒美が欲しい」
ラビ君が、抱え上げた私の腰にキスを落とす。
「その前に!……お仕事です!今いいところなんです!」
「そうよ!いくらイケメンだからって、ハドキムさん以外の人がノアさんにベタベタしないでよ!」
ここでエニアちゃん参戦!ラビ君にしがみつき、小屋に入ろうとするのを必死に食い止める!
タッ君とおばあちゃんは遠目にあわあわ見守っている!
「なんでムトが出てくる!ノアは俺の女だ!」
ラビ君はあくまで優しく、エニアちゃんを引き剥がそうとする。
「だめーーー! ノアさん、逃げて!」
エニアちゃんは離れない!
「ラビ君!エニアちゃん!落ち着いて!」
ーー小さな村で、突如勃発した、平和な争い。
……ということで、私はこれからこのラビ君の妻になるそうです。
大丈夫でしょうか?!




