正義の国
――それからしばらく経って。
ついに、「ハンムラビ法典」が完成した。
完成式典の日、偉大なる都・バビルには国中の有力者が勢揃いした。
列席者の色とりどりの衣装が華やかで、雲ひとつない青空も、歴史に名を残す陛下の偉大な業績を、祝福してくれているかのようだった。
神殿の広場、中央に紫色の布で覆われた巨大なそれ。その前にズラリと並ぶ、身なりのいい人たち。
荘厳な雰囲気の中、それを覆う布が取り外され、人々の歓声が上がった。
「おぉ!!」
高さ2メートルほどある黒い玄武岩の上部には、太陽神シャマシュと、ラビ陛下の姿が描かれ、その下にはびっしりと楔形文字が刻まれている。
正装に身を包んだ最高書記官・アウェルさんが、「法典」の横に立つ。そしていつもの穏やかな雰囲気とは違い、大きく力強い声を張り上げて、そこに刻まれた文字を読み上げる。
「かつて、高貴な天の神アヌ、アヌンナキの王と……エンリル神、天地の主、全土の運命を決定する方が、エア神の長子、マルドゥク神に、全人民に対する王権を割り当て、……永遠の王権を彼のために確立したとき……」
ーー「法典」の冒頭では、バビルの守護神マルドゥクが、他の神々から権力を委ねられたことが語られる。
マルドゥク神が、神々のトップに立った。だから彼の都市バビルが、全土統一を果たすことができたのだ。そういう理論だ。
「……ハンムラビ、敬虔なる君主、神々を畏れる我は、国土に正義を顕わすために、悪しき者、邪なるものを滅ぼすために、強きものが弱きものを虐げることがないように、太陽のごとく人々の上に輝きいで、国土を照らすために、人々の肌の色艶を良くするためにーー我、ハンムラビは、召し出された。」
ーーバビルの王・ハンムラビの役割はなにか。それは人々を守るためだと、語られる。
「……ここに記すのは、ハンムラビ、有能なる王が確立し、国民に真にして善なる道を歩ませようとした、正しい判決である。」
ーーそして、この先記される「判決集」の意義が語られる。
「我、ハンムラビ、完全なる王は、強者が弱者を搾取することがないように、身寄りのない孤児や寡婦に正義を回復するために、虐げられた者に正義を回復するために、我が貴重な言葉を、我が碑に書き記す。」
ーー社会的弱者を守り、国に正義を確立すること。それが王の役割であると、改めて語られる。
そのために、この「法典」が刻まれたのだと。
前文のあとには判決集が続く。
判決は、各地で行われた裁判で実際に出されたものから300近く選び、まとめた。どれも基本的には、「何かをすれば、同等の罰を受ける」という掟ーーアムル人伝統の「同害報復の原則」に則っている。いわゆる「目には目を、歯には歯を」である。
『もし、上流市民が、上流市民の目を潰したならば、彼の目も潰されるべし。』
『もし、上流市民が、上流市民の骨を折ったなら、彼の骨は折られるべし。』
このルールの根底には、「これをやられたら、ここまではやり返していい」という思想がある。言わば報復合戦の過熱を防ぐためのものである。
ただし、この同害報復の原則も、対象者がどの身分かによってくる。例えば同じ傷害事件でも、怪我をさせられたのが上流市民なのか平民なのか、はたまた奴隷なのかで、怪我をさせた加害者が受ける罰が変わってくるのだ。
『もし上流市民が、平民の目を潰したり、平民の骨を折ったりしたなら、彼は銀1ミナを支払うべし。』
欲を言えばこの身分制度にもメスを入れたかったが、社会の根本から覆すような大事業になるため、叶わず。
そんな「判例集」ののち、最後はこの「法典」を改ざんしたり、壊そうとする者への呪詛の言葉が記される。
『もし人が、我が戒律に注意を払わず、我が呪いを忘れ、神によって脅された呪いを恐れず、破壊したり改変した場合は、全能の天空神アヌが、その人が誰であれ、必ずや彼を呪うであろう。……』
こうして、『法典』を読み終えたアウェルさんは、深々とお辞儀をし、退場した。
代わりに、ギャラリーの最前列の玉座に腰掛けていた陛下が進み出て、人々を振り返り、声を発する。
「国土に正義をもたらすのが、神より賜りし我が役目。弱者が不当な扱いを受けないよう、適切に守られるよう、随時この『法典』を用いて欲しい。……そして、皆に知っておいてほしいことがある。この偉大なる『法典』は、『神からの贈り物』の力添えのもと完成した。……ノア、前に来てくれ」
研究所メンバーと共にいた私は、陛下のもとへ歩み出て、膝を折る。
陛下が手を差し出し、私はその手を取る。
陛下は高らかに宣言する。
「太陽神シャマシュが、我に授けし『神からの贈り物』! バビルの全土統一と、正義の法典をもたらした!」
人々から大きな歓声が上がり、その場は拍手に包まれた。
顔をあげると、正装に身を包み、一段と麗しいお姿で、柔らかく微笑むラビ陛下。
ーーふと、この世界に初めてきた時のこと、初めて陛下に会ったときのことを、思い出す。
あの時は何がなんだかわからず、ただ陛下のそばで、呆然と立っていることしかできなかった。
でも今は、陛下と一緒に、自分の足で立てている。
少しは成長、できたかな。
「ノア、大変な仕事だっただろう。ご苦労だった」
「とんでもないです。陛下のお役に立てて嬉しいです」
「今晩はとびっきりの宴を開こう。お前の大好きなビネガースープも沢山出してやる」
「わ!ご褒美嬉しいです。ありがとうございます!」
陛下はおでこをコツン。優しくぶつけてきた。
鼻をすりすり、擦り合わせて。
青空のもと、大歓声と拍手喝采の中、私たちは微笑みあった。
こうして、「神からの贈り物」は、役目を終えた。
ーーその晩、賑やかな宴の後、皆が幸せな眠りについた頃。
私は陛下への手紙を残して、
夜に紛れ、
ひとりバビルを去った。
出典 『古代オリエント資料集成1 原典訳ハンムラビ「法典」』 中田一郎 著、リトン、1999年 から一部抜粋、改変 もしくは筆者訳




