イヌ・アヌム・ツェールム ③
「ごきげんよう。……次期王妃様」
陛下の側室の方々だ。3人とも、今日もたいへん麗しい。
「……こんにちは」
無視するわけにもいかず、低めの声で挨拶すると、3人はクスクス小さく笑い出した。
「ノア様はウルからおかえりになって早々、お仕事ですか? 少しはゆっくりされたらどうですか?」
「あまりにお忙しくて、お肌の手入れも行き届いていないようですね」
「今晩はゆっくりお休みなさって。陛下のお相手なら私どもにお任せください」
「……なにを無礼な!」
アーシャちゃんが声を荒げる。
でも側室さんたちは動じない。
「陛下もいつも同じ女では飽きてしまうでしょう。マンネリ防止のためにもいいと思うのですが……」
あら、なんで怒ってるの?とでも言いたげな3人の美女。あくまで親切心ですよ?という体を崩さぬ3人の美女。
どうやら陛下の首締め癖がなくなったらしいことを、すでに聞きつけているようだ。これで安心して王と夜を過ごせるこの方たちにとっては、私が目障りで仕方ないのだろう。
だけど……ここはちょーっと、言い返してやりたい。
「お気遣いありがとうございます。でも陛下が誰と夜を過ごすかは、陛下が決めることで、私には何の権限もありません。……というか、私がいない間はどうしてたんです? まさか私がいなくても、陛下は皆さんの元へ行かなかったんですか?」
「…………!」
「こんな美人なのに。もったいないですね」
嫌味ったらしくそう言うと、案の定、舌打ちされ、ガン睨みされた。
もともとどこかの小国の王女だという側室さんたち。プライドが許さないのだろう。
「……あなたなんて……胸も尻も色気もなにもないくせに……!」
1人が憎々しげに吐き出した。
「ノア様はこれでいいのよ!陛下が今育ててらっしゃるんだから!」
なぜかアーシャちゃんがムキになって答える。
「育てる?!陛下にそんな手間取らせるんじゃないわよ!」
「…………」
そう言われると、何も言えない。
そんな哀しき戦場に、さらに新たな客がやってきた。
「皆様、あんまり母上をいじめないでくださいな」
現れたのは――陛下の養女であり、元エシュヌンナ王妃であるナディアさん。
ナディアさんは、シッパルの修道院に入っていた。体調もだいぶ回復しているようだ。今日も柔らかい笑みを浮かべ、優雅なオーラを纏っている。
「ナディア様……!いえ、私どもは決していじめたりなど……」
「なら『法典』の編纂のお手伝いに? あら、あなた方、字を読み書きできましたっけ?」
「…………いいえ」
「なら母上の邪魔をしないでくださいな。母上はただでさえ昼も夜も忙しいのですから。貴重な時間を奪わないでくださいな」
「…………失礼いたします」
側室さんたちはそそくさと退散していった。
アーシャちゃんと一緒に惜しみのない拍手を送ると、ナディアさんはニッコリ微笑んだ。
「母上、お帰りなさいませ。……あの方たちのことはどうか気になさらず。ただの嫉妬ですわ」
「ナディアさん、ありがとう。……そうですね。でも、私なんかが偉そうだけど、ちょっとあの方々には同情……しちゃいます」
後宮に閉じ込められ、王の寵愛を得られず、ただただ日々を過ごしている側室さんたち。
嫌味の一つや二つ、聞いてあげなきゃ可哀想だ。
「母上はどこまでもお人よしですね」
ナディアさんはフフフと品よく笑って、机の上に置かれた粘土板文書に目をやった。
それは私がウルから持ち帰った、シュメール語で書かれた文書の一つ。
「……母上、こちらは……?」
「これ、ウルでもらったんです。シュール語で書かれた古い歌だとか……」
しばらくそれを見やり、どこか哀しげな顔をするナディアさん。
「どんな歌が書いてあるか、わかりますか……?」
ナディアさんは頷き、落ち着いた声でそれを読み上げる。
『以前は人々が通過していった壮大な大門には
いくつも死体が横たわっている。
祭りが催された広場には
死体がまきちらされている。
以前は人々が通っていったあらゆる道路には
いくつも死体が横たわっている。
国の踊りが催された場所には
人々が重なりあって投げ捨てられている。
国土の血は、鋳型に注がれる銅や錫同様に、
窪地の中へ注ぎ込まれた。
それらの死体は、バターのごとく、自然と融けていく。』
「…………」
研究室が重い空気に包まれる。
繰り返される、街に溢れる死体の描写。
なんて哀しい歌だろう。
思わぬ重々しさに口を閉ざす、私とアーシャちゃん。ナディアさんがぽつりぽつりと話し出す。
「……私たちの先祖・シュメール人は、アッカド人が台頭し、一度歴史の表舞台から去った後、再びウルにシュメールの王朝を起こしました。ですが、それも100年ほどでアムル人やエラム人に滅ぼされました。……きっとこれは、その時のウルの街の悲惨な姿を描いた歌ですね」
「…………」
――そういえば、前にウル・シンが言っていた。
『本来この地はシュメール人のものです。ですがシュメール人の王朝は滅び、今やすっかりアムル人に乗っ取られました。シュメール最後の王イビ・シンは、アムル人の勢いに押され、エラム人の攻撃にも耐えきれず、エラムに連行され殺されました。……』
ーーつい先日、この目で見たウルの街はずいぶん栄えていたが……。
あのウルの街は、100年ほど前は死体が散らばり、暑さで腐敗していくような、目も覆いたくなるような状況だったのか。
私が見たあの街は、その地獄から復興した姿だったのか……。
「……ほんと、戦争なんて勘弁してほしいですよね。あんなのやって喜ぶのはキチガイだけですよ」
アーシャちゃんがボソッと呟いた。
まったく同意。頷いた。
「本当に、そうですね……」
かつて戦争で、父と夫が殺し合うという状況に追い込まれたナディア王妃は、弱々しくお腹を撫でた。それから思い出したように顔を上げる。
「……母上、私の仲のいい方に、母上に取り次いでほしいとお願いされて、私、こちらにきたのです。よければその方に会っていただけませんか?」
「ナディアさんの紹介ならもちろん!どんな方ですか?」
「シッパルの大商人の妻であり、元ラルサの王女・シェリダ様です」
「シェリダ王女!!」
同時に叫んだアーシャちゃんと、目を見合わせる。
出典 「ウルの滅亡哀歌」『筑摩世界文學体系1 古代オリエント集』 杉勇 訳者代表、筑摩書房、1978年より一部抜粋、改変




