イヌ・アヌム・ツェールム ②
「おかえりなさい室長!ウルにいかれている間に、頼まれていた資料を集めておきました!」
「ただいま!ありがとね、アーシャちゃん」
研究所に入ると、ニコニコと出迎えてくれたのはアーシャちゃん。
アーシャちゃんは、川での「神明裁判」のあと、1人でヤリムのもとから逃亡、しばらく実家に戻っていた。そして陛下がマリ戦勝記念に恩赦を出したのを知り、バビルにひょっこり戻ってきたのだ。
「今度はノアを死ぬ気で守れよ」との陛下の命により、アーシャちゃんは私付きの女官となっていた。
そんなアーシャちゃんの隣には、見知らぬ若い男性が立っている。誰だこの人。
「えっと…アーシャちゃん、そちらの男性は……」
「最近王宮に来た文官です。彼、とっても頼りになるんですよ」
そう言ってアーシャちゃんは、その男性の頬にチュッと口付け、上目遣いで彼を見つめた。
「粘土板、重いのに運んでくれてありがとね。逞しくて……すごくカッコよかったわ」
「と、とんでもない。アーシャちゃんのお願いなら、俺……なんでも聞くからさ。いつでも頼って。……じゃ、じゃあね!」
美女からのキッスと甘い言葉に、男性は顔を赤くして、名残惜しそうに部屋を出て行った。
その背中に、アーシャちゃんはバイバーイと手を振る。
「……今の人って……アーシャちゃんの新しい彼氏?」
そう尋ねると、突然、アーシャちゃんの顔が真顔になる。声もガクッと低くなる。
「そんなんじゃないですよ。パシリ5号です」
「5、5号……」
……頑張れ5号。
すっかり吹っ切れたらしいアーシャちゃんは、その美貌を武器に男性陣を手玉に取り、今や敏腕女官として名を馳せている。誠にたくましい女子だ。
「……ところで室長、ウルへの旅はどうでした? 運び屋の美女とイケメンとの3人旅……イケメンと何かあっちゃったりしました?」
水をカップに注ぎながら、アーシャちゃんがニヤニヤ顔で聞いてくる。
「イケメン……シャム君のことね。……いやいや、あのね、シャム君は真面目で優しい青年なんだよ。ザルさんも一緒にいるんだし、私と何かなんておこらないよ」
カップをコトンと私の前に置きながら、アーシャちゃんは眉をひそめる。
「えぇー?うそだぁ。だってノア様、そのイケメンと2人で馬に乗ってたんですよね? ノア様が前で、イケメンが後ろで、馬の上で密着してたんですよね?」
「…………そ、そうだけど」
「そんなシチュエーション、ドキドキしちゃいますよね?」
「い、いいいいやいやいや」
「ノア様、陛下大好きだけど、イケメンには弱いですもんね?」
「…………」
否定できない。
アーシャちゃんの鋭い視線に耐えきれず、黙って勢いよく水を飲み干した。
ーーいつの間にか、季節は夏。
よく冷やされた水が、熱った体に染み込んでいく。
「ははーん。これは絶対なにかありましたね。はい、さっさと吐いてください」
言い訳をさせてもらうと……
私はもう1人でも馬に乗れる。でも血糸馬は2頭しかいない。3人で行くなら、必然的に2人が同じ馬に乗ることになる。
最初ザルさんの馬に乗せてもらおうとしたら、私は1人がいいんだよ!となぜだかすごくキレられた。だからシャム君と一緒にチーちゃんに乗ったのだが……
イケメンと馬の上で密着!そんなのドキドキしない方が無理なのだ。
仕方ない。あれは仕方ないことだったのだ。
ムトを見習い、前向きに考える。
そんなこちらの心境はとっくに見透かされているのか、アーシャちゃんはニヤニヤニマニマ見つめてくる。そんな彼女の手からジャグを奪い取り、空になったカップを再び満たし、一気飲みする。
ちなみにアーシャちゃんには、シャム君=ディタナ王子かもしれない説はまだ披露していない。なんとなく、陛下にも誰にも言えずにいる。なんとなく。
「ノア室長ったら、も〜罪な女なんだからぁ」
「そ、そんなんじゃないよ!……それにしてもウル、すごく遠かったなぁ」
「そうですねぇ。あの特別早い馬でも、お帰りになるまで2週間かかりましたもんね。……ノア様がいないと、陛下の調子が狂っちゃうから大変でしたよ〜」
アーシャちゃんは思い出したように笑う。
そんな陛下は近隣都市の城壁工事視察に出かけしてしまっていて、バビルに帰ってきてからまだ会えていない。
ーー南の古都、ウル。バビルが東京だとすると、ウルは京都的ポジションだろう。
ウルは、この「二つの川の間の地」で文明を築いたという「シュメール人」が初期に建てた都市のひとつで、バビルが栄えるずっと昔から存在していた。
歴史の教科書にも載っている、「ウルのジックラト」があることでも有名だ。それを造らせたのが、およそ300年ほど前のウル・ナンム王。彼が制定したという「ウル・ナンム法典」が、いわゆる「最古の法典」とされており、今回の旅の目的であった。
その「ウル・ナンム法典」だが……
「『ウル・ナンム法典』ね、無事ゲットできたんだけど、シュメール語で書かれてたから全然読めなかったの」
この世界で今私たちが話しているのは、「アッカド語」だ。シュメール語は古い言葉で、それを読み書きできるのはごく一部。
たぶん、シュメール王朝の復興に燃えていたウル・シンや、彼にシュメールの文化を叩き込まれたイルナ王子なら読めるのだろうけど、今回ウルに旅した私もザルさんもシャム君も、みんなシュメール語は読めなかった。
「あら!それで、どうしたんです? とりあえず持って帰った感じですか?」
「いや、実はウルに行く途中でラルサに寄ったんだけど、総督のシンさんがウルまで一緒に行ってくれてね。そのシンさんが大活躍だったの!」
ラルサ総督・シンさん。シンさんとはエシュヌンナで会ったきりだったが、久々にお会いしたらやっぱり爽やかで癒しで、相変わらず推せた。
「やだ、シンさんったらシュメール語まで読めるんですか?!」
アーシャちゃんは目を輝かせる。
「ううん、シンさんは読めない」
「読めないんかい」
「ウルにシュメール語が堪能なことで有名な、高貴なお家柄の女性がいるって聞いてね。たぶんイルナ王子の遠い親戚とかじゃないかなぁ、どうも先祖がシュメール系の方らしいんだけど、その方に読んでもらおうって話になったのよ。でもその人、新興勢力であるバビルのことが嫌いみたいでさ。私とシャム君で頼みに行ったら、丁重に断られちゃったの。
それでね、困ってたらシンさんが、『私に2時間お時間をください』っていうから、言われるままお屋敷で待ってたらさ、なぜかその女の人が来てくれてね、『先ほどはすみませんでした。やっぱり私でよければお力になりますわ』って。妙に赤らめた顔で言ってくれてね!それでなんかよくわかんないけど解読してもらえたの!助かっちゃった!」
「それ絶対シンさんに抱かれてる…………」
「え?!……………え?!」
「抱かれてます」
アーシャちゃんが確信に満ちた顔で頷いた。
思い返せば、あの女の人……解読中、私のそばに控えるシンさんの方をチラチラ見て、色っぽい顔をしていたような。気がしなくもないような……。
「絶対そうですよ。前にボルシッパで、陛下とライル様とムト将軍とノア様の4人で夜を過ごされたあと、ノア様、言ってたじゃないですか。シンさんが女たらしだった……あんな爽やかで癒しなのに女たらしだった……って」
「そういえばそんなこともあったなぁ」
「でしょ? シンさんは手練れなんですよ。……ま、あんな爽やかイケメンなら、一晩くらい遊ばれてもいいですよね!」
「いやぁ……私はワンナイト的なのは、ちょっと……」
アーシャちゃんがやれやれと息をついて、カップの水を飲み干した。
「ほんとノア様ってお堅いですよね。そこがいいんでしょうけど。……それで、女たらしのシンさんが大活躍した『ウル・ナンム法典』、収穫はありましたか?」
「もちろん。バッチリあったよ!これでしっかり前文が書けそう。……『かつて、高貴な天の神アヌ、アヌンナキの王と……』……って感じで、神々の名を語るところから始めようかなって」
「お。いいですね。陛下の法典に相応しい冒頭ですね」
アーシャちゃんが拍手。それから私たちは、ニヤリと笑い、ハイタッチした。
この世界では、書物の冒頭から2、3語とって、その書物の名とすることが多い。もしこのまま陛下のOKがでれば、「ハンムラビ法典」も冒頭の3語をとって、「イヌ・アヌム・ツェールム」と呼ばれることだろう。
ーーするとそこに、歓迎できないお客がやってきた。




