H 【side ラビ】①
野営地のテントの中、簡易的な寝台で泥のように眠るノア。ラビはその隣に腰掛けて、寝顔を見つめる。
しばらく見ぬ間に髪が伸びている。それに、心なしか痩せた気もする。指には見慣れぬ青い指輪。
頬に張り付いた髪をつまんで払うと、ノアは目を閉じたまま眉をひそめたが、またすぐに眠りに戻った。
――ノアと離れてからおよそ1ヶ月。その間ダガンのイタズラで、ラビの寝所に女が送り込まれたことがあった。
その夜は寂しさを紛らわすため酒を飲んでいたし、どうせノア以外の女には触れられないと、高を括っていたのもある。寝台の前で恥じらい気味に、肉付きのいい女体をさらけ出したその女の腹に、ラビは深く考えず手を伸ばした。
ノア以外の女に触れれば、衝動的に首を絞めてしまうラビだが――その時は違った。
ラビの手は滑らかな女の肌を滑って、くびれた腰を、そこからあがって2つの豊かな膨らみを撫で上げ、女に甘い吐息を漏れさせた。
ラビは驚いた。
驚いて、興奮して、慌てて寝所を飛び出した。警備の兵が心配そうに見守る中、ラビは女官長の控室の戸を叩き、サーラを呼んだ。
「…………陛下? どうなさったんです?」
眠そうに目をこすりながら、サーラが部屋から出てくる。
ラビは無言で彼女に近づき、そっとその細い首に手を添えた。
「……陛下……?」
かつて世話の最中に何度か首を絞められた経験から、サーラは一瞬で体を強張らせた。
「陛下……これは、一体……」
ラビは無表情で、無言で、震えるサーラの首に優しく触れ続けた。
そんな訳の分からない時間がしばらく続いて、サーラはふと、気がついた。
「……陛下、もしかして……首を絞めたくならないのですか……?」
ラビは指でサーラの顎下を優しく撫で、ゆっくり手を離した。そして穏やかな表情で頷いた。
「……あぁ。そうみたいだ」
「まあ!なんてこと……!!」
サーラは目を丸くし、手で口を覆いながらその場でくるくる回り、ぴょんぴょん跳ね出した。
「陛下のトラウマが克服された!信じられない!すごいですわ陛下!」
「サーラ、今まで心配かけたな。もうお前が気に病むことはない」
「ええ!本当に!!…………」
舞い上がっていたサーラだが、言葉の途中でふと気づく。
ーーラビの世継ぎを望める女が、ノアだけではなくなったことに。
一転し顔を強張らせたサーラは、おそるおそるラビに問う。
「……陛下……まさか、ノア様以外の女性にもお世継ぎを産ませたいとか、考えちゃったり……?」
だがラビは星空を見上げ、嬉しそうにつぶやいた。
「……よかった。これで遠慮なくノアに触れられる」
サーラはキョトンとした。
「…………と、言いますと?」
ラビはサーラに目をやり、真剣な表情を浮かべる。
「これでも我慢してきたんだ。ノアには触れらるとはいえ、突然発作のように衝動が起こるかもしらないからな。もうノアを怖がらせたくない。だからあまり触れないように我慢していた」
「……『あまり触れないように我慢していた』……?」
「あぁ。辛かった……」
サーラは口をあんぐりさせた。
「うそ……あんなにベタベタイチャイチャしてて……あれで我慢してたつもりなんですか……?」
「そうだ。でももう、遠慮は不要だ。これで思いっきりノアとイチャイチャできる……!」
小さくガッツポーズをするラビに、サーラは引いた。
「…………怖っ…………」
「なんか言ったか?」
「い、いいえ。……まぁ……でもよかったです。陛下、ノア様とお世継ぎをたくさん産んでください。そうすればイルナ王子達はお役御免!陛下の正当なる血筋がバビル王家に残されます!」
「……サーラ、そのことだが」
ラビは意気込むサーラを宥めるように言う。
「ノアとの子は欲しい。でもそれはバビルの後継者にしたいからじゃない。……イルナはいい子だ。自分が何を求められていて、そのために何が必要なのかよくわかっている。野心にまみれたウル・シンの子とは思えないくらい、優しくて正義感の強い子だ。きっといい王になる」
サーラは眉を思いっきりしかめた。
「……陛下、まさかお子が生まれても……イルナ王子達を廃位しないおつもりで……?」
「そうだ」
後退りしながら、サーラは首を振る。
「し、信じられないですわ……そんなこといけません。陛下の血が残らないなんて、イルタニ様もお嘆きになります!それに今はおとなしいイルナ王子だって、いざ即位すれば陛下の実の子を疎ましく思うはず。そうすればお二人の子が危険に晒されます!」
「イルナはそんな子じゃない。だから俺は……もしノアが子を産んだら……ノアが望むなら、俺はーーー」
◇◇◇
夕日が差し込む部屋で、ノアの寝顔を眺めながら、ラビはそんなやりとりを思い出す。
ノアは……ノアはどう思うだろうか。もし子ができたら、やはり世の女の常として、自身の子を次の王にと望むだろうか……。
ラビは悩ましげにノアの手を取り、指を絡めた。
ノアとはまだ話していないことがたくさんある。
知らないことがたくさんある。
知ってほしいこともたくさんある。
たとえば、かつての婚約者・マリカのこと。
ノアは「全部聞いた」と言っていたがーー。
ーーあのクーデターの夜。
奇襲をかけてきた兄たちを返り討ちにしたあと、ラビは首謀者に仕立てられたマリカの部屋を訪れた。
あのときのマリカの表情と言葉は、今もなおラビの脳裏に鮮やかに甦る。
――ラビ君?!どうしたの、その怪我…………え、返り血?! 嘘、お兄さんたちが……?!
――……どういうこと? 私の名前が……粘土板に刻まれていた?…………い、意味わかんないよ……
ーーそう……。私、ハメられちゃったのね。結婚式のことで頭いっぱいで浮かれちゃってたのかも。油断したわ。……でもクーデターなんて、私知らない。ラビ君、お願い。信じて!
――ありがとう。ラビ君が信じてくれたらそれでいい。……でも私……このままだと絶対有罪判決よね。王族殺しの罪なんてヤバいじゃない。……宰相殺しの犯人みたいに、首を斬られて……生首を城壁に晒される? ……それはまだいい方ね。……生きたまま焼かれるのかな。それとも皮膚を削がれて……手足を……もがれたりするのかしら……
――そんな死に方絶対にイヤ。……怖いよ。怖い。どうしよう。ラビ君、私、そんな死に方したくない!……怖い…………!
◇◇◇
「怖い…………」
無意識に呟いたラビの言葉に、ノアはもぞもぞと身を動かした。そしてゆっくり、目を覚ます。
「ん…………あれ、陛下?」
「……おはよう。まだ夕方だけどな。もっと寝てていいぞ」
「いやいや……」
ノアはのそのそと身を起こし、隣に座っているラビを見る。
「陛下に見られながらなんて、寝られないですよ」
「そうか?よく寝てたぞ。相変わらずうっすら白目を剥いて寝るんだな」
「!!……ちょっ、もう、寝顔なんて見ないでください!恥ずかしい!」
真っ赤にした顔を手で覆うノアの横で、ラビは笑う。




