アトラハシス ②
知らないおじさんの出現に戸惑う子供達から離れ、おじさんの耳元で小声で話す。
「おじさんお願い!この子たち……マリでできた私の友達なんだけど、親も家族も亡くしちゃったの。だから、できるだけここから遠く……『二つの川の間の地』の外の安全な場所、誰かこの子たちを大切に育ててくれる、親切な人のもとへ運んでほしいの」
「何その漠然とした運び先」
「いいから!とにかく2人をここから逃がしたいのよ。私が育てるわけにもいかないしさ。ね、おじさん顔広いでしょ? いい人いるでしょ?」
おじさんは腕を組む。
「うーん……まぁ、なくはないよ? 子育てのプロフェッショナルならいくらでも伝手はある。でもさ、本当にそれでいいの? 姉ちゃんを運ぶんじゃなくていいわけ? 姉ちゃんが望めばさ、元の世界へも運んでやれるよ?」
「……元の世界……?」
ーー元の世界。それはあまりにも遠い記憶の中の場所のように感じて、一瞬、たじろいでしまった。
でも、それだけだ。
そこに運んでほしいとは、今はちっとも思わない。
「……うん。私のことはいい。私もう、この世界の人間だし。そんなことよりこの子達を運んで。安全な場所へ運んでほしいの。ね、おじさんお願い!」
おじさんはふむふむ、感心したように頷いた。
「あれまぁ。姉ちゃん、随分カッコよくなったじゃない。……わかったよ、このちっこいの2人、遠く安全な場所へ運べばいいんだろ」
「うん!遠くの、ちゃんと大切に育ててくれる人のところにだよ!ポイってしちゃだめだよ。ちゃんと安全な場所に連れてくの。ね、絶対約束して!」
「わーったよ。俺は請け負った仕事はきっちりやるからさ!……ほら坊主たち、さっさと行くぞ!」
状況がわかっていない2人は、ギュッと互いの手を握り、不安げに私を見上げた。
「このおじさん、だれ」
「しらないひといやだ」
この子達の反応は当然だ。たとえおじさんが丸っこくて親しみやすいおじさんだとしても、突然、知らない人について行くなんて怖いだろう。
2人の前にしゃがみ、その小さなスベスベした手をとり、ギュッと握る。
「大丈夫よ。このおじさんはね、君たちをこれから楽しい冒険に連れて行ってくれるの。お父さんやお母さん、お兄ちゃんたちとは少しの間だけお別れだけど、その分、とってもすごい冒険ができるよ!」
「やだよ、みんなといっしょがいい……」
「おかあさんも、いっしょがいい……!」
泣き出しそうな声に、胸がきゅっと締め付けられる。
「うん……そうだよね。でもね、今お母さんたちは用事があってね、どうしても一緒に行けないの。だから君たちはちょっと先に冒険に出かけて、あとでお母さんたちに、『こんなすごいことがあったんだよ!』って、いっぱいお話してあげて。そしたらみんなきっと、『ええ!?そんな冒険してきたの!?すごいわね!』って、びっくりしちゃうからさ!」
「そうそう、これから始まるのは、とびきりの大冒険だぞ」
おじさんが口を挟む。ぽっこりお腹の手前で腕を組み、どこか得意げに言った。
「一つ目の巨人に、身体の半分が鳥の姿をした、歌のうまい女とか――そんなヤツらがわんさか出てくるからな!」
その言葉で、子供たちの目がぱっと輝いた。
「……なにそれ! おもしろそう!」
「いく! おかあさんをびっくりさせる!」
「うん……! そう、えらいね……! いい子、いい子!」
小さな冒険者たちを、思いっきり抱きしめた。
銀色のやわらかい髪がふわりと顔をくすぐり、鼻の奥がつんと熱くなる。
「……そうだ。おじさん、ここまでどうやって来たの? 表は陛下もいるし、そこら中にバビル兵がいるから、歩いて行くのは……」
「その廊下から裏口に出れる。そんで運河を使って行くよ」
おじさんはケロッと答える。
「運河? おじさん船まで持ってるの?」
「ん? 運河を歩いていくんだよ。肩から水を出しながら進めば水面を歩けるから」
「どゆこと???」
「いーからいーから。はいはい、坊主たち、行くぞー!」
……よくわからんが、おじさんだからな。
安全に運んでくれれば、なんでもいいです。
廊下に向かって歩き出すおじさん。子供たちはその後ろをキャッキャと着いていく。
そして2人は歩きながら振り返り、ニコニコ手を振ってくれた。
「おねえさん、じゃあね!」
「じゃあね!おねえさん!」
「……うん!じゃあね!おじさん、2人をよろしくね!」
おじさんは振り返ることなく、歩みを止めることなく、声をあげる。
「任せときなさいよ。なんたって俺はプロフェッショナルだからな!」
3人の姿が廊下の中に溶け込むまで見送って、安堵のため息に肩を落とす。
どうか2人が、幸せに暮らせますように。
……そういえば……
おじさんに異世界から来たこと、話したっけ?
◇◇◇
神殿の外に出ると、みんな馬に乗って待っていた。近寄る私に陛下が手を差し伸べてくれて、一緒に馬に乗る。
振り返れば、相変わらず上がり続ける王宮の火。時期にここも燃えるだろう……。
「一度街を出るぞ」
陛下の声に、みんな頷いた。もうバビル兵も街から撤退し始めているらしい。
とにかく、これでマリの戦いは、終わった。
「ノア、いろいろ聞きたいところだが……疲れただろ。何か欲しいのはないか? なんでもやる」
馬を走らせながら、後ろに座る陛下が言う。
「なんでも……」
「もう『二つの川の間の地』に目ぼしい敵はいない。思わぬ財宝も手に入った。お前はバビルの王妃になるんだ。望めばなんでも贈ってやるよ」
陛下はうなじにキスを落としながら、そんなことをのたまった。
「……!」
なんでも……欲しいもの。
くれるの?
……そうだな。私が今、一番ほしいもの。
「陛下……」
「ん?」
「私……」
陛下は私の言葉を待ってくれる。
全てを手に入れた王が、平凡な女の望みを、叶えようとしてくれている。
なんて贅沢なことだろう。
ありがたさを噛み締めながら、それを願う。
「陛下、私、しばらく有給休暇がほしいです」
そう言って、その広い胸に頭を預けたら、体力が限界を迎えたようだった。
「……休暇か。そうだな。ゆっくり休んでいいぞ」
その言葉に心から安堵して、陛下の温かい腕の中、穏やかに意識を手放した。
◇◇◇
あとから聞いた話によると、王宮から上がった火は「第一の壁」の内側を焼き尽くしたらしい。
身分の高い人たちを外から守っていた壁が、火を内側に留める役割を果たしたのは、あまりに皮肉なことだった。
そしてその晩、街に雨が降った。
水の神エアが現れたからだと、噂する人もいた。
優しい雨は、業火を静かに眠らせた。




