マリの後片づけ【side……】②
「……ノアァァァァ……どういうことだ……」
今にも爆発しそうなラビ。だがそれが自分への想いの裏返しとわかっているノアには、王の怒りすら愛おしく感じられた。
ノアはラビに向き合い、その頬を両手で包み、しっとり口付け、その唇を優しく啄む。
「!」
ラビは目を見開いた。
「……陛下、私、陛下とずっとこうしたかったです。もっといっぱい、いっぱい、してください」
離れた唇を名残惜しそうに、どこかとろけるように見つめるノアに、ラビは釘付けになる。
「ノア………」
その甘い懇願に、ラビの放つ黒いオーラは一気に桃色に塗り替えられた。
「陛下、大好きです」
ラビはノアの首元に顔を埋める。目には見えないが、黒いしっぽをブンブン、嬉しそうに振っている。
ムトはそんな2人をガン見する。
「……ハンムラビ、ノアちゃん無事でよかったね。そうだノアちゃん、ギルガメシュX……っていう怪物みたいなやつ、見なかった?」
桃色の世界にズカズカ立ち入ってくるダガンの問いに、ムトの横に立ったイルナが答える。
「つい先ほど、ベレト王妃が冥界に送りました。前マリ王・ヤスマフさんを生贄に捧げて」
「え?!ベレト?!…………え?!この死体、ヤスマフ?!なんで?!」
転がる死体に驚きの声をあげるダガン。
その彼の前に、柱の影から、照れくさそうにベレトが現れた。さっきまでの凶暴さはどこへやら、今はまるで乙女のように頬を染め、ひょこひょこ歩幅小さめに、夫の元へ歩み寄る。
「……ベレト?!なんでここに?!」
驚くダガンを前に、ベレトは恥じらうように肩をすくめた。そして背の高い彼女よりも背の高い夫を、上目遣いで見つめた。
「ダガン様……お久しぶりです。ご無事でよかったですわ」
その声は初々しく、いじらしく、可愛らしい。ついさっきまで「いいから誰か死ね!」などと叫んでいた人物と同じには、とても思えない。
ベレトの変わりように、ノアたちは虚無顔になる。
そんなベレトに向かい、ダガンは微妙な距離を取ったまま、話しだす。
「ベレト…………また俺をつけてたの? 実家のアッシュルに帰っててって、言ったよね?」
「申し訳ございません。でも私、ダガン様に恐ろしい神託がくだったときいて、いてもいられなくて。ダガン様のため私にできることを、なにがなんでもやらねばと思ったのです」
ベレトはどこかしょんぼりと答えた。
「…………」
「……ここに至るまで、賊の襲撃を受けたり、荒野で恐ろしい獣と対峙したり、大変な目にも会いました。でも……ダガン様のことを思えばなんてことはなかったわ」
「ベレト…………」
「ダガン様は私の全てです。ダガン様に何かあったら、私、生きていけないわ……」
「…………ベレト!!」
ダガンはベレトに歩み寄り、その体を強く抱きしめた。ベレトの目が見開かれる。
「いつもお前は勝手に動いて……どれだけ俺が迷惑してると思ってんの?」
「ご、ごめんなさい」
「……でも、俺のためにありがとな」
「…………ダガン様……っ!」
「愛してるよ、ベレト」
「はああああっ!!!」
ベレトは歓喜余って気絶した。
「うわ、ベレト?!…………なんだ、寝顔も可愛いじゃん」
「…………」
ノアはやっぱり、虚無顔である。
ヤスマフの死体は、ダガンの従者たちによって神殿の外へと運び出されていった。
その場に残されたのは、穏やかな静けさ――。
その沈黙を破ったのは、イルナだった。
「……父上、ウル・シンを見ましたか?」
「あ、あぁ……」
ラビは短く答えたきり、口を閉ざし、目を伏せた。
「……父上?」
イルナがもう一歩近づき、静かに問い直す。
「イルナ……」
ラビは口をつぐんだ。代わりに、ベレトをお姫様抱っこしたダガンが口を開いた。
「イルナ君、ウル・シンは死んだよ」
「え……!」
イルナの表情がわずかに歪む。
ラビは無言で頷く。
ダガンは言葉を続ける。
「俺たちは北門から入ったんだけど、すでにウル・シンの軍がマリの王宮内に侵入して、略奪を始めていた。それで王宮についた俺たちを見て、『陛下!イルナ殿下の大勝利でございます!』……なんて、狂ったように笑ってた。バビルの兵たちも圧倒的な勝利に大興奮。勝手に挙兵したウル・シンだけど、とても責めれる空気じゃなかったな。
それで……炎の中から金銀財宝が運び出されるのを見ながらさ、王宮を進んで……中庭に着いた時。突然、そこに生えていた大きなヤシの木が、勢いよく倒れてきたんだ。まるでウル・シンを狙ったように。で、それに頭潰されて、彼はあっさり死んだよ。あっけない終わりだった。ね、ハンムラビ」
「……」
ラビはまた、頷いた。
「……あっけない、終わり……」
イルナは、その言葉を呟くように繰り返した。
目を閉じ、静かに俯く。
その閉じられたまぶたは微かに震えていた。
長い睫毛が、小刻みに揺れていた。
震えているのは、指先も同じだった。彼は両手を拳にし、懸命に感情を抑え込んでいた。
ムトが、ノアが、不安そうに見守る中。
イルナはその場に膝をついた。
やがて、手を地につき、静かに、額を床に擦り付ける。
彼は言葉を搾り出す。
「父上……此度は勝手な挙兵、諸々の不祥事……本当に……申し訳ありませんでした」
「…………」
ラビはふぅと息を吐く。
その息の音に、イルナの心臓の鼓動がはやまった。
ラビは抱いていたノアを離し、立ち上がり、静かにイルナを見下ろす。
「……イルナ、たとえ実態はウルの仕業だとしても、名目上、これはお前が起こした戦争だ。この件についてはバビルに帰ってまた話そう」
「はい……」
「それと」
言葉を止め、ラビは優しく微笑んだ。
「お前が無事でよかった」
イルナの肩が、震える。
床に額を押し付けたまま、涙が頬をつたった。
「…………はい…………!」
しぼり出すような返事に、ノアは静かに目を細め、微笑んだ。
「……あ!そうだ、陛下!」
ノアは何かを思い出したように顔を上げた。
「ジムリ・リム王は……どうなりましたか? 生きてますか?!」
その問いに、ラビの眉間がピクリと動く。
「なんでそんなやつ……」
唇をとがらせたラビの代わりに、再びダガンが口を開く。
「王宮にいた兵の報告によるとね、バビル軍に追い詰められたジムリ・リムは、共にいたシブトゥ王妃を自ら刺し殺したらしいよ」
「えっ……」
ノアは息を呑む。
「その遺体を抱きしめて、彼は狂ったように叫んだらしい。『シブトゥは誰にも渡さん!永遠に俺のもんや!』ってね」
ノアの目が、じわりと見開かれていく。
「それから松明の火を自分の体につけた。どうも油を被っていたみたいだ。あっという間に2人は火だるまになった。それで今、あの豪華な王宮が轟々と燃えてるわけ」
「…………」
あの陽気な王が、最期にみせた王妃への狂気。
ノアは言葉を失った。




