ザ・ウォール ②
――足音が遠のいて、少年が私の口から手を離した。大きく息を吸い、上がった呼吸を整える。
「……もう行ったな。お姉さん大丈夫?」
少年が立ち上がり、手を差し出してくれた。その手を掴み、まだ強張っている膝を伸ばす。
「うん……助けてくれてありがとう。でも誰か別の人が追われちゃった……」
「大丈夫。あれ、俺の仲間でめちゃくちゃ足速いんや。……あの男、昔から時々現れるんだけど、なんかいつも気持ち悪いんだよな」
そう、少年は小声で吐き捨てた。
ーーヤスマフ・アッドゥ。かつて偉大な父によりマリの王に据えられたものの、ジムリ・リムに玉座を奪還され、殺されたと思われていた男。
まさか生きていて、しかもマリの市内に潜んでいたとは。いや、ウルさんとも繋がりがあるくらいだ、きっといろんな場所を放浪しているのだろう。
それにしても気味の悪い男だった。係長に似た顔であんなキャラ、やめて欲しい。
深く息を吐き、少年に話しかける。
「……そうだ、君もしかして昨日ヤリムの家にいなかった?」
少年が頷く。思ったとおり、ヤリムから薬を受け取っていた男の子だった。
「お姉さんはヤリムさんの家の前にいたよね?」
「うん」
「ヤリムさんとはどういう関係?」
ーーヤリムとの関係。
なんと答えればいいのか、悩んでしまった。
まさかバビルの女です、なんて言えないし。
ヤリムの女です、とも言えないし。
「関係……難しいな。でもあえて言うなら……」
ーーヤリムは掴めない男だったが、「ギルガメシュXをマリで使わせたくない」という点で私たちは一致していた。その意味ではーー
「『同志』……かな」
「仲間ってこと?」
「うん。そうね」
少年は下を向く。暗闇で表情は見えないが、どことなく……悲しそうだ。
「ねぇ、今朝……ヤリムさんが死んだって……ほんと?」
その言葉に、胸がきつく締め付けられた。
それを認めるのは辛かった。
「……うん」
「本当に死んじゃったの?」
「うん」
少年は顔を上げて、私の手をとった。
「……お姉さん、一緒に来て」
言われるままに、少年の手に引かれ路地を小走りで抜けた。少年は複雑に入り組む狭い住宅街を迷うことなく進んでいく。彼にとっては自分の庭なのだろう。
どうやらこのエリアは……いわゆる「貧民街」らしい。しばらく進んで、壁が崩れかけた建物がギュウギュウに立ち並ぶ場所についた。
その中の一軒、朽ちかけた木の戸をギギギと押し開け、少年は中に入る。
「母ちゃんただいま」
少年に続いて中に入ると、すきま風の吹き込む部屋、今にも消えそうな炉の向こう側に、30歳くらいの頬のこけた女性が寝転んでいて、こちらを不思議そうに見あげた。少年のお母さんのようだ。
「あんた……そちらのお嬢さんは?」
「こんな時間にこんな良さそうな服着てのこのこ歩いてたから、案の定ヤバい男に絡まれとった。可哀想だから連れてきた」
そう言って、少年はテキパキと炉の火に筒で息を吹き込み始めた。お母さんは細い腕で体を起こしながら、心配そうに私を見る。
「怖い目に遭いましたね。お怪我はないですか?」
「はい、大丈夫です。ピンチなところを息子さんに助けていただきました。本当に助かりました。……それと、夜分遅くにお邪魔してしまい、申し訳ございません」
頭を下げると、お母さんは微笑んで、私に座るよう促した。
「こんなボロ屋でごめんなさいね。たいしたおもてなしもできなくて……」
「とんでもないです!」
首をブンブン振る。
火を大きくした少年が、お母さんの方を振り向く。
「この人、ヤリムさんの仲間なんやて」
お母さんは目を丸くする。
「あら。道理で私らのような者にも腰が低いわけね」
「ヤリムさんが死んだの、ほんまらしい」
「まぁ…………」
お母さんは肩を落とす。
――ヤリムが言っていた。確かこの少年は、お父さんが行方不明で、お母さんが病気だと。ヤリムはこのお母さんに薬を渡していたのだろう。なんの病気かはわからないが、お母さんは見るからにか弱い雰囲気を醸し出していた。
「お嬢さん、なんで……ヤリムさんはお亡くなりに……?」
お母さんは悲しげな声で問う。
膝の上で握った拳に、力を込める。
「ヤリムは……殺されたんです。さっきの、私を追いかけてきた男に殺されました」
「あの男が?!アイツ何者なんだよ!!」
少年が勢いよく立ち上がる。お母さんが、やめなさいとなだめた。
「さっきの男は……ヤスマフ・アッドゥ。前マリ王です」
2人は驚き、固まった。
「殺されたヤリムは、バビル王と和平交渉に行くところでした。ヤスマフはそれを阻止するためにヤリムを殺したようです」
「いやでも……ヤスマフ王は……随分前に死んだはずでは……」
「生きていたんです。再びマリ王位につくために暗躍しています。そして……ヤリムが交渉をしようとしていたのは、この街にまもなくバビル軍の過激派一派が攻め込んでくるからです。ヤリムはそれを止めようとしていました」
「バビルが攻め込んでくる……? バビルの王子が死んだから? エシュヌンナに派兵したから? それでここに攻めてくる?!」
少年は声を荒げる。お母さんは不安げに眉を下げる。
「……そうです。そして彼らには恐ろしい兵器があります。それひとつで街を焼け野原にできるような、世にも恐ろしい人間型兵器です。先日南のヒートの街がそれのために陥落しました。この街も時期に火の海になります」
少年はお母さんと目を見合わせる。




