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晴れ渡る空の下 ②

 心臓がうるさく跳ねて、冷や汗が背中を湿らせる。


 茂みの向こうで、ヤリムがゆっくり戸を開け、建物に入るのが見えた。


 ギィィ……


 戸が閉じて、生きた心地がしなくなった。


「…………」

 

 誰も……中庭に出てこない。ヤリムも、使用人さんも、誰も。


 爽やかな青い空の下、草花が風に揺れる音の中。時折不穏な物音が響き、心臓の音がやたらうるさく耳につく。


 ドッドッドッ……


 ――どれくらい時間が経ったのか。


 もしかしたら5分くらいかもしれないし、30分くらい経っていたかもしれない。


 わからないが、それはあまりにも恐ろしい時間で、居ても立っても居られなくなった。そっと茂みから身を出した。


 落ちていた細い枝を拾った。

 

 息を殺して、足音を殺して、ヤリムが入っていった戸口へ向かう。


 こんな枝ではなにもできまいと、ちゃんと分かってはいた。でもとにかく今は、なにが起こっているか知りたかった。


 バン!!!!


「きゃっ!」


 突然、大きな音と共に戸が開いた。心臓が飛び出たかと思った。


 見ればヤリムが腹を押さえながら出てきて、すぐに戸を閉じ、そこにもたれた。


 押さえた腹部からは……鮮やかな赤い血が流れ出ている。


「ヤリム……ヤリム?!……刺されたの?!」


 握りしめていた枝を投げ捨て駆け寄ると、ヤリムはズルズルと地面に座り込んだ。額に汗を滲ませ、苦しげに顔を歪めている。


「もう、警備の兵が……追いかけた、から……大丈夫やよ」


「どうしたの!なにがあったの!」


「アイツ……生きとった……」


「アイツ?!」


「それに…………壊され、ちまいました……ラビさんへの、手紙……どないしよ」


「……手紙……わかった、とにかく、止血、まずは止血!!止血!!」

 

 羽織っていた上着を丸めて腹部に押し当てる。でも出血は止まらない。布をぐんぐん赤く染めるだけ。


「……俺、体のことは……よう、わかるから……これはもう、あかんなあ」


 腹部を見ながら、かすれた声でヤリムが笑う。


「なに言ってんの!!……と、とにかくこの傷、なんとかしないと!」


 どうしよう、どうしよう、どうしよう――!

 止血、止血、止血――!


 ヤリムの呼吸が荒くなる。

 

「……ノア様、ごめん、なぁ……俺……何もできん、くて」


 喉の奥で引っかかるような弱々しい響きに、胸が締めつけられる。


「そんなことない!ヤリムはいっぱい助けてくれた!」


 膝の上の手をぎゅっと握ると、ヤリムのまぶたが震えた。


「ほんま……? もう、俺のこと……怒っとらん?」


「怒ってない!……ちょっと待ってて、お医者さん呼んでくる!お医者さんどこにいる?!」


 走り出そうとした瞬間、背中にかすかな重みがかかる。ヤリムの指が、服の裾を弱々しくつまんでいた。


「ノア……」

 

「いいからヤリムは待ってて!!痛いだろうけど頑張って!!目を閉じちゃダメだよ!!」


 ヤリムは服を掴んだまま、苦しげに眉をひそめて言う。


「……ノア様、医者ん、とこじゃ……なくて……ラビさん、とこ行き……」


「ヤリム、今はお医者さんを……」


「ここまで、来れた、ノア様なら……大丈夫……1人で……ちゃんと、行けるよ」


「なに言ってるの!!ヤリムを置いてけるわけないでしょ!」


 喉の奥がカァっと熱くなる。


「アーシャと……ムトさんに……謝っとい、てな」


「バカ!一緒に、一緒に謝んないと……!許さないよ!!」


 またしゃがんで、その震える手を両手で握った。その手の温度が少しずつ、抜けていく。


 唇を噛み締めて、脳が爆発しそうなのを、必死に我慢した。


「ノアノア……ごめん、なぁ」


「ごめんじゃない!」


 ヤリムの目が霞んでいく。いや、霞んでいるのは自分の目だった。


「……ノア……」


 かすれた声に、胸が潰れそうになった。

 

 だめだ。だめだ。

 だめだ。

 ヤリムが死んじゃう……


「だめだよ、ヤリム……」


 涙に濡れた顔で、必死にすがる。


「ラビさん、とこ……」


「やだ!!」


「強情……やなぁ……」


 ヤリムが力なく笑った。


 それから――


「……なんや、寒くなっ、てきて…………暗い、なぁ」

 

 その声は、吐息のように溶けていく。


 目の前も何もかもがぐちゃぐちゃで、ただそこに横たわるヤリムの体を抱きしめることしかできなかった。 

 

「……いるよ、いるよここに……」

   

 触れていたはずのヤリムの手が、重くなっていた。その呼吸が、胸の上下が、遅くなっていた。


「誰か……誰か…………」


 周りを見回してもやっぱり誰もいなくて、

 ただ馬鹿みたいに青い空が、澄まし顔で私たちを見下ろしているだけ。

 

 なんでこんな時に限って、空はこんなによく晴れているのだろう。


 その下の地面は、こんなに赤く染まっているというのに。

 

「……ヤリム、いるよ、ここにいるから」


 震える声で名を呼ぶと、ヤリムのまぶたが静かに下りていった。


「……悪いなぁ、俺だけ、大好きな、庭で……かわいい、奥さん、に……抱か、れてなぁ……」


 黒く長い髪が彼の頬にかかる。


 そっと払いのけると、ヤリムはまるでいい夢でも見ているかのように、微笑んだ。


 そして、そのまま。

 コテッと、頭が横に傾いた。


「……ヤリム?」


 そっと肩を揺するが、反応はない。


「ねぇ……」


 頬を、軽くぴしぴし叩いてみる。

 でも、まぶたは閉じたまま、微動だにしない。


 ――動かない。

 


「ねえ……ねえ、ヤリム……」


「ねぇ…………」


「またからかってるの?」


「おーい……」


「ねぇ……」


「…………」


 わかりたくなかったけど、わかってしまったその時、肩は震え、声にならない音が喉から漏れた。


「……ああ……」


「あ…………あああ…………」


 壊れるように崩れ落ちて、赤く染まった彼の胸に顔を埋めて、声にならない叫びをあげた。


「あーーーー!!!!」


 


 ――だから。

 すぐ後ろに人がいたことなんて、背中を殴られるまで気づかなかった。


「ッ……!」


 突然の痛みに、咄嗟に振り返る。

 けれど、間に合わない。


 次の瞬間、頭に激しい痛みが走り、再び殴られたと気づく。視界がぐらりと傾いた。


 意識が飛びかける中で、男の顔が見えた。

 滲んで、歪んで、それでも――わかった。


 わからないはずがない。

 間違えるはずがない、この顔は――

 

「…………係長――――?」


 でもそれは、私が知っている係長よりずっと、情けない顔をしていた。


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