マリの夜 ④
「……わかんない。マリって国の存在、私は知らなかった。詳しい人は知ってるかもしれないけど……学校では習わなかったと思う」
「えぇー??……そうかぁ、それは残念やなぁ」
ヤリムが唇を尖らせた。
ーーそうだ。バビルの名が歴史に残り、マリの名がバビルほど残らなかったということは。歴史が変わらない限り、きっとマリは――
「やっぱりマリはバビルに負けるんやな。神が勝つ言うても、歴史は勝った人間が作るもんやからなぁ」
「…………」
「なら、尚更頑張らんとなぁ。俺、この国が大好きやし、役人としてこの国の人を守らなあかんから…………あ、そや!頑張るにはご褒美が必要や。ノア様。俺約束通り、ボスへの説得頑張ったよ。ご褒美が欲しいなぁ」
「ご褒美……」
ちゅーが欲しいとかなんとか、言ってたっけ。
思わず顔を逸らす。
だが、また寝台に押し倒された。
「きゃっ」
心臓が一段とうるさく動き出す。
「……抱かへんよ。我慢する。今はちゅーだけほしいです」
そう甘く囁き、すぐ真上で妖艶に微笑むこの男も、綺麗な顔をしているけれど――。
あの、吸い込まれそうなエメラルドの瞳が目に浮かぶ。
陛下に、会いたいな。
「ノアノア……」
そう思いながら――
下から手を伸ばして、ヤリムの顔を包み引き寄せて、望まれていたキスをした。
「!」
ふるんと唇を離すと、落ちてくる長い前髪の向こうでヤリムが固まっていた。
「……おーい。したよ。したから退いてください」
「……ん?!……あ、し、したなぁ」
上擦った声をあげたヤリムが、目を高速で泳がせる。動揺しているようだ。なんだかヤリムらしくなくて、思わず笑みがこぼれる。
「ふふ、キスくらいで、変なの」
「だ、だって急にノア様が積極的になるんやもん」
「さっきのキスはお礼の気持ちです。深い意味はないから誤解しないでよ!……ヤリムは王様に会わせてくれたし、和平のことも提案してくれた。マリに来るの、実はすごく怖かったけど、ヤリムのところに来てよかったって今は思う。私の話、信じてくれてありがとう。そういう意味のやつだから」
そういうと、ヤリムは目を潤ませた。
「……なんと……感激や。ノアノア大好き。もっかい……」
「エシュヌンナまで気を付けて行ってね」
「…………手強いな…………」
覆い被さるヤリムが、ボソッと呟いた。
「あ、それとね、陛下に会ったらさ、遠く離れていてもお慕いしてますって伝えてね」
「やだ」
「あとあれ!そこにある粘土板。今乾燥中なんだけど、あれも陛下に渡してね。ヤリムの助命嘆願も書いといたから、絶対渡してね!」
「…………」
「じゃ、寝よう。朝には出発でしょ。私そこの椅子で寝るから、寝台使って」
「何言うとんの。新婚が同じ寝台で寝ないでどうすんの。このまま一緒に寝るよ」
「えぇ、やだよ」
ヤリムが頬を膨らませて見下ろしてくる。
「やだ言わない!……ノア様お願い。こう見えて俺、ラビさんとこ行くの不安なんやよ。1人じゃ寝れない。寝不足で旅したら怪我するかも。怪我して旅の途中で死んで和平の話もパーや。ノア様それでもええの?」
「えぇーーー?!」
「ほら!はい、ここ寝てな」
ヤリムが体を起こし、布団をかけてきて、横にゴロンとなる。さらに手をギュっと、つながれた。
「…………近い」
「ええの」
「よくない…………」
「ええの」
離れなきゃとは思うけど……すぐ隣で満足気に瞼を閉じ横になる、その人の手の温かさに、なぜだか猛烈な眠気に襲われた。
そういえば、あの村を出てからしばらく野宿だったから……こんなふうに温かい場所で、ふかふかのお布団で寝るのは久しぶりだった。
「……ノア様、俺がいない間は、俺の家に居てくださいね。ボスはもう了承済みですから。明日マリを出る前に家まで送ります」
「わかった……」
「そんでもし……マリが危なくなりそうだったら……使用人たちと一緒に逃げてください」
「わかった……」
「落ち着いたら挙式しような」
「しないよ……」
「俺な、結婚なんてしたら女の子と遊べなくなってつまらん思ってたけど、ノアノアとなら毎日飽きずに楽しめる気がするわ。そや、2人で一緒に旅にでも行こうな!ノアノア、海って見たことある? ここを西にずっと行くと、広い広い海があるんや。その向こうに、海に浮かぶ島がたくさんあってな、あ、島っていうのはな」
「ヤリムうるさい。眠い」
興奮気味に話していたヤリムの、ふぅと優しく息をつく音が聞こえた。そして頭をゆっくり、撫でられた。
「…………おやすみ、ノアノア」
「ヤリムおやすみ……」
「おやすみ」
「……」
「……」
「……なぁ、カカリチョーって誰?」
「ヤリムおやすみ!!」




