マリの夜 ②
◇◇◇
松明の火がゆらゆら揺れる、静かな静かな部屋の中。用意してもらった柔らかい粘土に文字を刻む。
ヤリムは明日の朝にはもう、エシュヌンナへ向かって旅立つという。せっかくだし、陛下への手紙をヤリムに持って行ってもらおうと思う。
陛下とはもう長いこと会っていない。エシュヌンナで別れてからいろんなことがあったし、話したいことは沢山あるけれど、全部書いていたらキリがない。
何を書くべきか悩ましいけど、ひとまず――
『ヤリムはそこまで悪いやつじゃないので、どうか殺さないでやってください』
これは書いておこう。陛下は優しい人だけど、敵には容赦ない一面もある。エシュヌンナ王の首も躊躇うことなく切り落としてたし。
そしてヤリムはかつて陛下の暗殺を企てたやつでもあるが、ここまでかなり助けてくれた。首だけになって帰ってこられても気分が悪い。
どうかヤリムが死にませんように。
……それにしても――
「……人質」
ぽつりと呟いた声が、やけに響いた。葦の筆を置く。
怖くないと言えば嘘になる。ヤリムが陛下は私に甘いと言っていたけれど、陛下はなによりも国のため民のために動く人だ。今はマリと和平を結ぶより、滅ぼす方が利があると判断する可能性は十分ある。
そうなれば私は…………
再び筆を取った。手が少し震える。
『私の勝手な行動をどうかお許しください。ですが、陛下ならきっとわかっていただけると信じております。私の望みは、ただひとつーー』
そこまで書いたところで、筆が止まる。
でも深く息を吐き、再び筆を走らせた。
『今はマリを滅ぼすのではなく、どうかあの恐ろしい兵器が使われないように、マリと和平協定を結んでください。ウルさんの暴走を止めてください』
あとは、あれも書いて、これも書いて――――。
コンコン。戸を叩く音。
ヤリムが戻ったのかと戸を開けると、そこに立っていたのは仏頂面のシブトゥさんだった。
「わっ!ヒルガオノヒトダ」
「?……どこまでも無礼な女ね」
シブトゥさんはズカズカ部屋に入ってきて、ボフンと椅子に腰掛け睨み上げてくる。
いきなり怖…………
でもついさっき、双子ちゃんたちの意味深発言を聞いてしまったから、この人に若干下衆な興味が湧いていた。
「…………なんのご用でしょう。ヤリムならまだお風呂ですよ」
「マリへ何しにきたの?」
「またそこからですか?!もう何度も説明しましたよ!」
ヤリムの話題には触れず、シブトゥさんは足を組み、首を横に振る。
「理解できない。ハンムラビの女がなぜマリを助けにくるの?」
「その説明はもう散々したじゃないですか!あの兵器を使わせたくないんです!」
「敵に使うなら問題ないでしょう?」
「敵とか味方とか、そういう問題じゃないんですよ。死んだ英雄を無理矢理蘇らせて、兵器のように使うなんて人道的にアウトです!……いや、戦争って時点でアウトなんですけど……」
声が少し上ずった。だが、シブトゥさんの表情は揺れない。しかめっつらのまま変わらない。
「わからない。敵を倒せれば手段などなんでもいいでしょう」
「だから……っ!」
私の稚拙な説明ではやはり、この人を納得させることはできなさそうだ。シブトゥさんは疑いと不信の眼差しをやめない。
呼吸を整えて問い返す。
「……逆にお聞きしたいのですが、シブトゥ様はなぜマリの勝利を確信されているのですか。仮にギルガメシュXを撃破できても、ラビ陛下は大軍を率いて向かってくるのです。客観的に見てもかなりマリは危険な状況です」
シブトゥ王妃の唇が、ピクリと動いた。
「神がマリの勝利を告げたのです。疑う理由がありますか?」
「……神さまも間違えることあるんじゃないですかね……」
「なんと不敬な!」
シブトゥさんが立ち上がる。眉間に深いシワが刻まれている。
「話しにならない。陛下の気が変わらないうちにさっさと帰ったら? 目障りだわ」
吐き捨てるようなシブトゥさんの言葉に、堪えていた感情が、プツン。
「わ……私だって!早く陛下のもとへ帰りたいですよ!でもあんなの見ちゃったら……ほっとけない、ほっとけないじゃないですか!
……敵とか味方とか、文化の違いとか部族の違いとか、そりゃあ色々受け入れられないことはあるかもしれないけど……でも、誰だって、むごたらしい死は嫌でしょう?!死者を冒涜するようなことはダメなことでしょう?!それは人間ならみんな同じじゃないですか?!それを避けたいと思うのが、そんなに変なことですか?!」
胸が波打つ。自分でも驚くほど、口からあふれてくる言葉が止まらなかった。
シブトゥ王妃は、少しだけ目を細めた。
そして戸口から、ゆったりとした声がした。
「シブトゥ様、どうかそこらへんにしといてください。またノアノアがプッツンして暴走しちゃいますから」
やれやれ顔のヤリムが立っていた。その髪はまだ水気を帯びている。
シプトゥさんが深く長くため息をついて、ヤリムを見る。
「ヤリム……あなたおかしいわ。こんな女をかばうなんて……あなた、おかしくなったわ」
「そうかもしれません。俺、ノア様のせいでおかしくなっちゃいましたわ」
濡れた髪をかきあげながら、ヤリムが部屋に入ってくる。




