師匠殺し
月光の射し込む石造りの広い部屋に、天神光は、全裸のメイファンと向かい合って立っていた。
着ているものはいつも通りのトレーナーにジーンズ、肉体も格闘家のように逞しくはなく、ふつうの大学生の姿、つまりは何も変わってはいなかった。
しかしまるで内部に巨大な力を取り込んだように、その身体からは黒いオーラのようなものが立ち昇っていた。
「免許皆伝だ」
メイファンが胸を張り、言った。
「大したものだ。私の最大の奥義を受けて、その程度のかすり傷とはな」
「頬に傷がついた……」
光がメガネのレンズに月光を映しながら、つまらなそうに言う。
「無傷でかわせなかった……。つまり、まだまだじゃないのか?」
「何を言う」
少しプライドを傷つけられたような笑顔でメイファンが牙を見せた。
「私の最大奥義だったのだ。無傷でかわされてたまるか」
「そうか……。じゃあ、いい」
「早速だが、明日、裏カクカイにデビューしろ。相手は大山澄香だ。知ってるな?」
「大山……」
無表情に光が呟くように、言った。
「既存のルールと秩序を重んじる、つまらないやつだ」
「やるか?」
「ああ……」
光の口元が、ニヤリと笑った。
「ヤる」
「では、今日はもう休め。──治療は要るか?」
「ああ……。ララを頼む。この程度のかすり傷でも治しておきたい」
「わかった。あとで部屋に向かわせる」
そう言うと、メイファンはほれぼれするように光の爪先から頭までを眺め、言った。
「貴様は間違いなく私の最高傑作だ。超級の一番弟子だ。これからもよろしくな」
光は与えられた部屋に帰ると、ベッドに腰を下ろした。
鉄格子のはまった窓から射し込む月光が半身を照らす中、何もせずにただ、待った。
ノックの音がした。
「どうぞ」
光が言うと、白いチャイナドレス姿の26歳の女が、タレ目を笑わせて入ってきた。
「すごいね、ヒカルくん!」
ララはドアを閉めると、小走りに光に近づく。
「あのメイにあそこまで言わせた人はキミが初めてだよ? すっごい才能!」
「ありがとう」
無表情に光が言う。
「ちょっと頬を隕石がかすったんだ。治してくれ」
「隕石がかすめてその程度って、すご!」
ララが光の隣に座る。
「この程度なら手を当てただけで──」
光の腕が動いたのが、ララには見えなかった。
後ろから首に巻きついた腕が、瞬時にララの頭をねじる。
頚椎が砕ける音がした。
身体は正面を向いたまま、ララの顔は後ろを向き、何を言うこともできずにその目からは光が消えた。
「フン……」
ベッドの上に倒れ、動かなくなったララを見下ろしながら、光が吐き捨てるように言う。
「おまえ、メイファンだろう? わかってたさ、ララなんて姉はいない、メイファンが化けていて、別人のふりをして僕に色目を使っていることぐらい……な」
ララはうつ伏せにベッドに倒れた格好で天井を向いている。口元から赤い血が流れ出した。
「あっけないな……。そんな弱さで何が『老師』だ。笑わせる」
ララの指だけが黒くなりかけていることに気づく。しかし、それはそこで止まっていた。
「……とどめを刺しておくか」
光がゆっくりと手を振り上げた。
「老師ー!」
道場の扉を開けて入ってきたその声に、光の手が止まる。情けない声だった。子どもがママに泣きつくようなその男のことは、もちろん知っていた。
「老師っ! いますかぁー?」
部屋に入ってきた左近右京四郎の動きが止まる。
ベッドの上で、おかしな首の曲がり方をして、動かなくなっているララを見て、おおきく口を開けると、泣くように体を震わせはじめた。
「老師!」
ララに駆け寄る右京四郎を、光はただつまらなそうな顔で見た。必死にどうにかして助けようとしながらただあたふたとする男をくだらなそうに見つめながら、言う。
「そいつは中国人だぞ? しかも工作員だ。おまけに不法入国者と来ている。粛清すべき人間だから僕が殺した」
触ろうにもあまり動かさないほうがいいように思えてただ四本の手をバタバタと動かしていた右京四郎は、顔を上げると、光を睨んだ。
「おまえがやったのかっ!?」
「そうだが……何か?」
軽蔑するように光が右京四郎を見る。
「おまえ……もしかして、本気でその中国人のことを老師だと思って尊敬でもしていたのか?」
右京四郎の怒りが爆発した。
腕がさらにもう四本生え、背中の羽根は炎のように燃え上がった。口からは長い牙が伸び、めちゃくちゃな動きで光めがけて襲いかかった。
「うわっ。キモ!」
光は飛びかかってくるゴキブリを見るような表情になり、石の壁を背中で突き破ると、外へ逃げ出した。




