食って、飲んで
師範代は再び箸を持つと、ほうれん草のおひたしをおちょぼ口に運び、咀嚼しながら言った。
「澄香、おまえが1分しか最強状態を保てないのも、大山流空手がとてつもないスタミナを必要とするからだ」
「1分42秒保つようになりました」
澄香は相変わらず食事の手を止めたまま、悔しそうに言う。
「それに……力をセーブすることも覚えました。大山流空手を身につけていれば、1割ほどの力でも並の者なら敵ではありません」
「身につけていれば……、な」
申し訳なさそうに師範代が皿に箸を置く。
「たとえば私には、身につけることすら出来なかったのだ」
澄香はまだ箸を持たない。
「ボクは諦めませんよ」
「夢を持つのはいいことだ。しかし、無理な夢なら早くに諦めさせてやるのが父親としての私の務めだ」
「あたしは応援してるわよっ、澄香ちゃん」
横からアイリスが笑顔で言う。
「なんでもやってみなきゃわかんないもんね! やってみもせずに諦めるなんて、若い子がすることじゃないわよ」
「まぁ……。止めはせん」
師範代は青汁を啜ると、うなずいた。
「しかし──孤立することになると思うぞ。力をセーブし、ふつうの空手をやっていれば、おまえはヒーローになれる」
「ボクがなりたいのは空手界の英雄ではなく、大山流空手を世界に広める開拓者なのです!」
店主がワゴンを押してやって来た。
「お楽しみいただけてますかな?」
「えぇ、どれも美味しいです」
師範代が温和に笑う。
「しかもどれも健康志向で素晴らしい。……おぉ、それは?」
ワゴンにはざるに乗った蕎麦が並べられていた。
「普段はお出ししていないのですが、特別サービスです。私、趣味で蕎麦打ちをやってるんですよ」
アニーがばんざいをして喜んだ。
「ヌードルだっ!」
ロレインがぱあっと顔を輝かせる。
「産まれて初めて食べるわ!」
澄香の顔も緩んだ。
「おっ? それはボクも食べたいな」
「どうぞ、どうぞ」
ニコニコと店主がみんなの前に蕎麦の乗ったざるを配る。
「食べてみてください」
笑顔で蕎麦を口に運び、みんなの顔が残念そうに固まった。
普段店に出していないのも、これが『趣味』だというのにも、理由があるんだなと思うしかなかった。
▣ ▣ ▣ ▣
職員室で、数学教師の左近右京四郎と英語教師のジャン・ポール・ジッドは席が隣同士だ。
いつもは会話をすることなどほとんどないが、今日は珍しくジャン・ポールが右京四郎に話しかけた。
「シロー先生、今日、仕事終わり、一緒に食事行きませんか」
「……は?」
突然の誘いに右京四郎が間抜けな声を出した。
何をされるんだろう? 親しくないどころか因縁のある関係なのに?
ロレインと付き合っていることに文句でも言われるんだろうか? と思っていると、JPが言った。
「言ったでしょう、この間、リングの上で? 君を教育してあげると」
右京四郎の背中に冷たいものが走った。
何をされるんだろう? 少なくとも英語教育を施されるわけではないようだ。もしかして、人間としての再教育? 僕、この人に洗脳とかされるんだろうか?
そう思ってビクビクしていると、気がついたようにJPが微笑んだ。そして安心させるように言う。
「失礼。まだ日本語の使い方が下手でね。言い方がおかしかったようだ。君と親交を深めたいだけなんだ」
斜めの傷痕が顔の真ん中に走るイケメンの笑顔に、右京四郎が見とれた。
こんなイケメン俳優みたいなひとが、過去の因縁を水に流して、じぶんと仲良しになってくれるというのだろうか? しかもロレインの関係者──右京四郎の心が「是非、行きたい」と嬉しそうに叫びはじめた。
口から出た言葉はそれとは違った。
「あ……。は、はい」
「お酒は飲めるほうですか?」
JPが紳士の笑顔で訊く。
「ま……、まぁ……」
「じゃあ、そういう店へ行きましょう」
そんな二人の話を、いつの間にか右京四郎の横に影のように立っている女が聞いていた。
保健体育教師の青野楸だ。ただそこに立ちながら、ソワソワと赤いふちのメガネをくいくい忙しく触りながら、何かをアピールしている。
JPが言った。
「アオノ先生もよろしかったら……」
「いいんですかっ!?」
楸が食いついた。
「あっ……! あたしっ、お酒ものすごく弱えーんですけどっ!? そそそそれでもよろしければっ……!?」




