悪夢
馬場勇次郎は病院のベッドでうなだれていた。
いくら相手が大人で、しかもプロボクサー崩れだったとはいえ、たったのパンチ一発で病院送りにされた自分を情けなく思っていた。
「……ったく。いつまで落ち込んでんのよ」
その傍で五月が腕を組み、叱るように言う。
「弱いくせにあんたがしゃしゃり出るからでしょうが。早く良くなって学校に来なさいよ」
「早くよくなれっ」
その横でアニーがばんざいをしながら言う。
「素早く、よくなれよっ!」
「……じゃ、あたし帰るから」
五月がバッグを持ち、立ち上がる。
「とにかくへんなこと気にしてないで、早く学校来るのよっ」
「五月……」
勇次郎がうなだれていた頭をさらに深く下げ、言った。
「……守ってやれなくて──ごめん」
「……ふん」
病室を出ながら、五月が言った。
「かっこよかったわよ」
「帰るぞっ!」
アニーが楽しそうに飛び跳ねながら、五月の後をついて出て行った。
「家だっ! 家に帰るんだぞ!」
残された勇次郎は自分が許せなかった。気を失ってしまってあれから後のことはまったく覚えていない。五月が傷ひとつなく助かったのはよかったと安心している。
しかし五月を救ったのが自分ではないどころか、さっきの小さな小学四年生だと聞いて、あんなのに負けた自分を許せなくなった。
「俺は……男だぞ」
弱々しい声で呟く。
「しかも五月は俺が守るべきだったんだ……幼なじみとして」
窓の外を見た。
「ここ、3階か……。こっから飛び降りたら死ねるかな」
バカなことを言いだした。
「死んだら転生できて、チート能力もらえて、最強の男になれるんじゃねーかな……」
「なれるぞ」
「えっ?」
誰もいないはずの病室内に声が聞こえたような気がして、勇次郎はキョロキョロと辺りを見回した。女の子の声……というよりも、まるで虎か何かが喋ったような声だった。
やはり誰もいない。
「気のせいか……」
「ただし死ぬ必要はない」
すぐ目の前でまた声が聞こえ、驚いて顔を上げると、布団をかぶっている自分の上に、肌の浅黒い幼女が腕組みをして立っていた。
「び……、びっくりした!」
目つきはやたらと鋭いが、4歳ぐらいに見える幼女に、勇次郎は気を抜いた。
「きみ……、いつからそこに?」
「フン」
幼女は猛獣のような笑いを浮かべると、言った。
「私がここに立っていることにさえ気づかんとはな。デクノボウめ」
デクノボウと言われ、勇次郎が傷ついた。
幼女が聞く。
「強くなりたいか?」
「えっ?」
「私なら貴様を強くしてやることができる」
「ははは……」
勇次郎は笑い飛ばそうとした。
「お嬢ちゃん、誰かのお見舞いで来たの? かわいい服だね」
幼女の着ているのは真っ黒なチャイナドレスだ。裾が長すぎて引きずっている。頭の後ろから黒豹の毛並みみたいに艶々とした長い髪がたすきのように前にかかっている。
幼女はベッド脇に置いてある皿の上のカットりんごに目を移すと、呟くように言った。
「うまそうなりんごだな」
「あっ。欲しい?」
勇次郎が優しく笑う。
「母さんが持ってきてくれたんだ。いいよ、食べなよ。えぇと……つまようじ、つまようじ……」
「いらん」
幼女が左手を前に差し出した。
「これで食う」
一瞬にして、幼女の左手首から先が、黒く鋭い針のように変わっていた。
「……は?」と目を丸くする勇次郎。
「むんっ!」
幼女がりんごに左手を突き刺す。りんごの置いてあるテーブルが真っ二つに割れた。しかし激しい音を立てることもなく、時が止まったようにそこにとどまっている。
「て……、手品……?」
唖然とする勇次郎を横目で見ながら、幼女がりんごをシャクリと齧った。その口元は笑い、りんごを齧る歯は牙のように尖っている。
「どうだ? 欲しいか、このような力」
勇次郎は何も答えなかった。目の前の幼女の存在を恐れるように、ベッドの上で少し後ずさる。
「……そうか。この姿では甘く見られるのだな。ならば、これでどうだ」
幼女の身体が黒い影のようになり、みるみる大きくなる。再び形を成した時、そこにはピッチピチの黒いチャイナドレスをはちきれそうにした、17歳ぐらいのお姉さんが出現していた。勇次郎は思わず赤面し、目を覆った。
「目を覆うな。見ろ」
そう言われ、手を退けて見ると、お姉さんのチャイナドレスが破れて全裸になっていた。褐色のコーヒープリンみたいなものが二つついた胸には、美味しそうなチェリーのようなものがちょん、ちょん、と乗っている。
「ひぃっ……!?」
勇次郎は泣き出してしまった。
「私は自分の身体を自由に変えることが出来る。自分の身体のみならず、手に触れたものならなんでも変えられるのだ」
腰に手を当て、胸を反らせてお姉さんが言う。
「どうだ? この最強の力、貴様も欲しくはないか?」
勇次郎は混乱していた。目の前で起こっていることが何なのか、ちっとも理解できない。ただ、相手の言っていることが本気で真面目な、ほんとうのことだということだけは、わかった。
「つ……、強くなれるのか?」
その言葉を聞いて、黒い女がニヤリと笑った。
「なれる。私の弟子になれば、な」
「俺……、強くなりたいっ!」
「ようし……、いい子だ」
黒い女は、名乗った。
「私の名はラン・メイファン。今日から私のことは『メイファン老師』と呼べ」
「老師……!」
「では、師弟関係を結ぶ儀式だ」
メイファンがそう言って、右手を前に差し出す。
握手を求められているものだと思い、勇次郎がその手を握る。
するとメイファンの右手が魚取り網のようにばっ! と広がり、勇次郎を包み込み、取り込んでしまった。