せんせい
左近右京四郎は23歳。高校の新米数学教師である。
そのナナフシのようなヒョロガリの身体を揺らして学校の廊下を歩いていると、前から17歳の恋人がやって来るのを見た。
「せんせい!」
ロレインの顔に、ぱあっと笑顔の花が開く。
「やぁ、カミュさん」
テレテレとなりながら、右京四郎も笑った。
「えぇと……。もしかしてトイレ?」
「せんせいに会いたいなって思ったら会えちゃったんです」
「それは凄いなぁ」
テレテレと頭を掻く右京四郎の後ろから、不機嫌そうな女性の声がした。
「おい、左近右京四郎。おまえら邪魔だ。そこから消えろ」
振り向くと同期の新任教師、保健体育の青野楸が睨みつけていた。メガネのレンズにギラギラとした文字で『リア充死ね』と書いてある。
その不機嫌そうな顔が、唐突に緩み、頬をピンク色に染めると、挙動不審になった。モジモジしながら何やら右京四郎の背後を熱烈に見つめている。
振り向くとその人物が立っていることに気づき、右京四郎はぺこりと頭を下げた。そしてその名前を呼ぶ。
「あ……っ。ジャン・ポール先生。お疲れ様です」
「やぁ、シローさん」
輝くようなブロンドの長髪をしなやかに揺らし、高いところから青い瞳がフレンドリーに右京四郎を見つめる。英語教師のJ・P先生だった。
「これから大山アニーのいる教室で授業です。久しぶりに会うから少し緊張するな」
JP先生はそう言いながら優美に笑う。
「また日本語、お上手になりましたね」
右京四郎が褒めると、JPは目に少しだけ殺気を浮かべた。
「この傷がうずくんでね」
そう言って自分の頬にうっすらと残る引っ掻き傷のようなものを指す。
「いつか借りを返してもらいますよ、シローさん。……それでは」
「ジャン・ポール」
ロレインがフランス語で呼び止めた。
「お願いだから問題は起こさないでね」
「フッ……。ロレーヌお嬢様」
JPは恭しく礼をすると、少し憎らしげに言った。
「あなたはよかったですね。お顔の傷がすっかり消えて……。私もその中国人に治していただきたかったところです」
JPが背を向けて立ち去ると、楸がブツブツと騒ぎだした。
「あああ……。ジャン・ポール先生。彼こそ陰キャの人生に射す一条の光だわ。あたしなんかが彼に釣り合うわけはないけど、妄想してしまうのよ。彼とあたしが明るい光の溢れる春の河川敷で並んでお弁当を食べながら……いえ、焼肉がいいわ。臭い仲になりたい。バーベキューをしながら、一緒にオンラインRPGの世界へ飛んで行くの。そこはつまらないリアルの世界とは違った理想的な空間で、あたしたちはそこでお互いの大事なところを見せ合い、爛れた関係になるのよ」
「びっくりしたね」
右京四郎がロレインに言う。
「いつの間にか背後にいるんだもん」
「JP……強くなってます」
ロレインは微笑みを消し、うなずいた。
「私に察知されずに背後をとるなんて」
「あの顔の傷……、僕がつけちゃったんだよなぁ」
右京四郎は6年前、空の上の闘いで、JPの顔を四本の手でめちゃくちゃにしたことを思い出した。
「でも……彼はロレた……カミュさんの顔に傷をつけたんだもの。僕は許せなかった」
「シロた……先生だって服を脱げない身体にされてしまったわ」
「僕は望んでこの身体になったんだ」
右京四郎はスーツの下の、背中に生えているトンボの羽根を少し揺らしながら、言った。
「後悔はしてない。……何より、君が受け入れてくれたから」
そう言うと、もぞもぞとスーツの下で残り2本の腕を動かしかけ、慌てて外に出しているほうの右手で頬を掻いた。
▣ ▣ ▣ ▣
1年A組の教室に入ると、JPは悪寒を感じるように少し身を震わせた。
嫌な感じのするほうを見ると、アニーが嬉しそうに笑いながら、声をかけてきた。
「JP先生、はうあーゆー?」
「……I'm alright」
おぞましいものを適当にあしらうようにそう言うと、JPは授業を始める。
「それでは今日は疑問文の種類について学習していきましょう」
授業が始まった。女子生徒も、男子生徒まで、JPの美しさに見とれて目を輝かせた。顔にうっすらとついた引っ掻き傷の痕のようなものまで美しく見える。31歳という年齢もまた見頃といってよかった。
ひそひそ声で、隣の女の子がアニーに話しかけてきた。
「アニーちゃん、ジャン・ポール先生と知り合いなの?」
「よくわかったなっ」
アニーは少し大きなひそひそ声で答えた。
「俺はあいつにめっちゃ嫌われてるんだっ」
「そんな感じだよね」
「わかるのかっ?」
「だって……。綺麗な鳥さんが金網の外から狙ってる猫を見るような目で先生、アニーちゃんを見るんだもん」
「ははは! 確かに俺はあいつの天敵だ。おまえ、勘が鋭いんだなっ」
「あっ、アニーちゃんこそ勘がいいね。私、よく言われるの。っていうか自分でも思うんだ、不思議と勘が働くなって」
「おまえ、名前を教えてくれっ」
「私、伏木花子。よろしくねっ、アニーちゃん」
「不思議ちゃんかっ。よろしくなっ」
何の特徴もないふつうの子だった。
入学早々、アニーは新しい友達ができた。




