黒尽くめの男
水星五月は帰り道を歩きながら、ぷんすかと怒った口調で言った。
「あんまり隣を歩かないでよ。誤解されるでしょうが」
「俺はおまえのボディーガードだぞ」
幼なじみの馬場勇次郎がすぐ隣にくっついて歩きながら、言う。
「すぐ近くにいないとおまえを守れないだろうが」
「あたしより弱いくせに何言ってんのよ。名前は地上最強生物みたいな名前して」
「ハンマー勇次郎じゃねーんだよ。あんなバケモンと一緒にすんな」
確かに地上最強生物とは似ても似つかない、馬場勇次郎はどちらかというとアイドル系のイケメンである。
日に焼けたその顔を見ると、五月はいつも心とは裏腹な態度をとってしまうのであった。
「とにかく離れて歩いて! 一緒に帰るのは特別に許してあげるから」
「はいはい。クイーンはいつもエラソーだなぁ」
ユラリ──と、二人の前に一人の男が立ち塞がった。
大人の男だ。黒尽くめのタンクトップにボクサーパンツ姿の男は、現れるなりその陰鬱そうな顔にニヤケ笑いを浮かべ、言った。
「水星五月……だな?」
そしてボクサーのような構えをとる。
「何……?」
五月はたじろぐことなく、どこからか愛鞭『クイーン』を取り出す。
「お父様の商売敵の雇った刺客かしら?」
「詳しいことは言えねぇ……。ただ、あんたをぶちのめしてやってくれと頼まれた」
「じ……児童虐待でおまわりさんに捕まるぞっ!」
そう言いながらへっぴり腰で前に出た勇次郎を、五月が下がらせる。
「下がってなさい、勇次郎。こんなやつ、あたし一人で……」
男が素速く間合いを詰めてきた。
あっという間に鞭の射程圏内に侵入すると、何発ものジャブを繰り出す。
五月は吹っ飛ばされたかのように見え、自分で後ろへ飛んでいた。まともに食らったら一発でKOされそうな鋭いパンチだった。
「ひっ……!」
勇次郎がスマートフォンを取り出す。
「110番! 110番!」
「へぇ……。なかなか素速い女の子だなぁ」
黒尽くめの男は勇次郎には一瞥もくれず、五月に迫る。
「だがなぁ……。俺は元プロボクサーだ。成績が残せず生活も荒れちまってよ……、それで今はこんなことをしてるってわけだ」
「人生の落伍者ってわけね」
五月が冷や汗を流しながら、口の端を笑わせる。
「みっともないこと」
「とにかく、あんたをぶちのめせば50万円くれるって言われてるんだ。悪いが再起不能にさせてもらうぜ」
「やれるもんならやってみなさいよ」
「世間知らずのお嬢様が……。プロのボクサーに勝てるとでも思ってんのかあっ!」
男の突進はあまりにも速かった。五月が鞭を振るう前に目の前に飛び込んでくる。避けるのがやっとだった。
それでも五月は毅然とした姿勢を崩さず、相手の動きを見る。
『大きな動きを見せたら……左の死角から鞭を小さく振り込んで、目を潰して腹にストレートキックだな』
冷静に闘いの行方をイメージしていた。
しかし男の動きは五月を凌いでいた。
男のフックが五月の頬をかすめる。
「痛っ!」
五月は声をあげた。
「ちょっと! 痛いわね! 乙女の顔に何すんのよ!」
危なかった。
まともに食らっていたら一発で沈められていた。
緊張が五月の足を鈍らせる。
「おああああっ!」
側に落ちていた鉄パイプを振り上げて勇次郎が男の後ろから襲いかかる。
それをいとも容易く裏拳で払い除けると、男は五月に殺意の目を向けた。
「勇次郎!」
五月が男から目を逸らした。
地面に無様に倒れながらも、幼なじみは自分を必死に守ってくれようとしていた。
幼なじみのほうへ駆け寄ろうとした五月のみぞおちを男のフックが襲う。
「うああっ!」
五月は間一髪それをかわした。が、足がもつれて幼なじみの上に倒れてしまった。
「終わりだ、お嬢様!」
男の血走った目が上から見下ろす。
そこへ集団下校中の小学四年生の群れが通りかかった。
「肉まん、おいしかったねー」
「今日で終わりなんだってー」
「あれっ? あれって水星くんのお姉さんじゃない?」
「大変だ! 変態に襲われてるぞ!」
その中から赤髪の女の子が一人、トコトコと近づいてきた。
「ガキ……。あっち行ってろ」
黒尽くめの男が凄む。
「消えねーとおまえもぶっ殺すぞ」
「勇次郎! 勇次郎!」
五月は戦意を喪失して幼なじみの名前を呼び続けていた。
「しっかりして! ああ……!」
赤髪のちいさな女の子は、黒尽くめの男の前で立ち止まると、猫のような目を鋭くして、怒ったように言った。
「俺を殺すと言ったのかっ?」
「ああ……。だが、あっち行ってくれりゃ何もしねぇ。早く……」
「おまえを俺が殺すっ!」
赤髪の女の子が消えた。
プロボクサーの動体視力でもまったく見えなかった。
いつの間にか腕の中にいた。
だっこされる形で、赤髪の女の子がニカッと笑う。
黒尽くめの男は恐怖した。
「うわああああ!?」
「ニャニャニャニャニャニャニャニャ!!!」
だっこされたまま、アニーが連続で正拳を繰り出した。
すべての攻撃が男の顔面に入る。
逃げようにも自分の腕の中にいる存在からは逃げることもできず、そのまま後ろへ倒れてからも、男はアニーの攻撃を受け続けた。
男の顔はグチャグチャに潰れ、その身体はぴくりとも動かなくなった。
小学生たちは言葉を失い、ただぽかんと口を開けて見ているばかりだった。
「あ……、アニーちゃん……」
大根がヨロヨロと前に出て、聞いた。
「この人……どう見ても……死んじゃっ……」
「大丈夫だっ!」
アニーが懐から免許証のようなものを取り出し、見せつけた。
「俺はこれを持ってるからっ!」
免許証を入れるケースのようなものには『殺人許可証』と書かれ、桜田門の紋章が入っていた。