赤い猫?
水星大根は9歳の男子小学生である。
ある日、彼は見てしまった。姉の五月が公園で、物凄い形相をして、鞭を振り回しているのを。
『な……、何やってるんだろう、ねーちゃんは……?』
5月の下旬、時刻は夕方6時前。いわゆる『逢魔が時』である。二つ上の姉は長いその髪を振り乱し、何かと闘うように一心不乱に鞭を振っていた。
姉の趣味が鞭だということは知っていた。愛用のその鞭に『クイーン』という名前をつけていることも知っている。その腕前が、小学六年生でありながらプロの鞭使いにも匹敵することも、もちろん知っている。
3メートル離れた地面に置いた生卵を割ることなく鞭で取ることも出来れば、粉々に割った上で鞭先を汚さないことも出来る。
そんな姉が何かと闘っている。
しかし、相手の姿は見えない。
『な……、何かイメージトレーニングとかなのかな?』
それにしても他人に見られたらこんなの通報されかねないと思った。周りには誰もいないとはいえ、危険な武器をみんなの公園でピウピウ振り回しているのだ。しかも顔には明らかに殺気が浮かんでいる。
『た……他人のふりをして家に帰ろう。見なかったふり、見なかったふり……』
そう考えて、顔をそむけた時、大根は目の端に何かが見えた気がした。
「あれっ?」
もう一度、姉のほうを見ると、やはり姉一人しかいない。
しかし、確かに見た気がしたのだ。
飛び回りながら、姉の鞭を楽しそうに避けて遊んでいる、赤い猫のようなものを──
▣ ▣ ▣ ▣
左近右京四郎は17歳、高校二年生である。
白い月の照らす下、夜の公園のベンチに彼は一人、うなだれて座っていた。
「……どうしよう」
しょんぼりと呟いた。
辺りに人の気配はなく、夜は静まり返っている。たまにチン、チリンと微かに音がするのは、彼が乗ってきた自転車のベルが風で鳴っているのだ。
木々のざわめきに包まれて、自転車のベルがその隙間にチン、チリンと鳴る。それ以外のものの気配は何ひとつなく、自分が少し体を動かすと、衣擦れの音がいやに生々しく、まるで耳元で聞こえるようだった。
ふぅとため息を吐き、何気なく首を横へ動かすと、隣にそいつが座っていたので右京四郎は飛び上がりそうになってしまった。
『ね……、猫?』
赤い猫が、右京四郎と同じ前のほうを向いて、並んで座っているのかと一瞬思った。が、よく見ればそれは人間だった。赤い猫のような髪の毛をした、小学校低学年ぐらいの女の子だ。
「お……、おまえ、いつからいたの?」
右京四郎がそう言うと、女の子はゆっくりとこちらを向き、猫が笑うように笑った。そして聞いてきた。
「『どうしよう』って、なんだ?」
「あぁ……」
独り言を聞かれてたか──そう思い、右京四郎は説明することにした。
「ちょっと……ね。兄貴と喧嘩して、家を飛び出してきちまったんだ」
「きちまったのか」
赤い髪の女の子は真似するように言い、うなずいた。
「うん……。他愛もない喧嘩だったんだけど……、うちの兄貴、レスリングやってんだよね。俺は見ての通りのヒョロガリで……。だからなんというか、兄貴に対して劣等感もっててさ……」
説明のつもりがいつの間にか愚痴になりはじめた。
「俺が足で蹴ったのに、兄貴は無抵抗だったんだよ。『やめろ、右京四郎、やめるんだ』って、冷静に俺のことなだめようとするばっかりでさ。……ちっとも効いてないみたいに。蹴っちまったこと謝りたいのに、帰る勇気が出ないんだ。なんか自分がみっともなくて──」
「大丈夫だ」
女の子がニカッと笑った。
「俺がおまえ、強くしてやる」
「ははは……」
右京四郎は笑って女の子を見下ろした。
赤い空手の道着のようなものを着ている。しかし体は小さく、華奢で、空手選手のコスプレをしてるようにしか見えない。
軽い身のこなしでベンチからぴょんと飛び降りると、素速く振り向いて女の子が言う。
「かかってこい」
猫みたいにおおきな目がキラーンと光ったように見えた。
「遊んであげたいけど……」
右京四郎が苦笑いしながらため息を吐く。
「遊びたい気分じゃないんだ、ごめん」
「遊びだと?」
女の子の顔が、怒った。
「俺は遊び、好きだぞ!」
女の子がどうしても遊びたくて仕方がないように見えたので、右京四郎は諦めたように、優しく笑った。
「しょうがないなぁ……。ちょっとだけだぞ?」
「よし!」
女の子が楽しそうに笑った。
「打ってこい」
「じゃ、行くよ? ギャラクティカ・マグナム・空手ぱーんち」
右京四郎が繰り出したヒョロヒョロの遊びの突きを、女の子が顔面に食らって吹っ飛んだ。
「わぁ!?」
当てるつもりはなかった。寸止めどころか格好だけの、とても優しいパンチを出したのに、女の子のほうからその拳に向かってじぶんから突進してきたとしか思えなかった。自分の拳がジンジン痛んでいる。このぶんだと女の子のダメージは相当のものだと思え、地面に倒れた彼女に急いで駆け寄った。
「き……、きみ、大丈夫!?」
すると女の子が後転し、元気に立ち上がった。
「はっはっはーっ! 次は俺の番だなっ!」
よく見るとかわいい顔をしている。その顔にアザでも作ってしまったかと思ったが、なんともないようだ。
ほっと安心した瞬間、女の子の姿が消えた。
「あれ……?」
いつの間にか自分の腕が、お姫様抱っこしていた。
「すごい!」
キラキラと目を輝かせた笑顔で、腕の中から女の子が褒めてくる。
「おまえ、強い! 俺をだっこできるなんて!」
「いやいや……」
右京四郎は首を横に振った。
「おまえが自分から……」
「かわいがってくれ!」
女の子が目を閉じ、唇をキスの形に尖らせる。
「いやいや!」
右京四郎は思わず笑い出してしまった。
「はは……! おまえ、なんなの? めっちゃすばしっこいのな! ほんとうに人間か? もしかしてなんかの妖怪?」
その時、後ろから女性の声がした。
「アニー! ここにいたのね」
右京四郎が振り向くと、真っ白な西洋人の美少女がいた。
中学生ぐらいだろうか? ブロンドの長い髪が月明かりよりも眩しく輝いていて、やわらかな顔つきが月光よりも優しかった。白いフリルだらけの、乗馬服かフェンシングウェアに見える服に包んだ華奢なスタイルが、中学の頃の初恋のひとを思い出させた。
「ロレイン!」
腕の中からぴょんと飛び降り、アニーと呼ばれた女の子が美少女に駆け寄る。
「強いやつ、見つけたぞ! こいつ、俺をだっこした!」
「すみません」
美少女がすまなさそうな微笑みを浮かべ、流暢な日本語でぺこりと謝った。
「このひと、目を離すとすぐに誰かれ構わず遊び相手にしてしまいますので……」
「あ……。えっと……」
右京四郎もぺこりと頭を下げ返し、美少女と積極的に会話をした。
「その子、すばしっこいんですね。えぇと……。僕は左近右京四郎っていいます。太極高校の二年生です。その……。君たち見ない顔だけど、最近引っ越してきたとか?」
すると美少女が輝くほどに微笑んだ。その宝石のような光を放つ青い瞳に、右京四郎は息が止まるかと思った。
「ええ。アメリカから移住してきたんですよ。私はロレイン・カミュ。この子は大山アニーです。よろしくね、ご近所さん」
そしてびっくりさせることを言った。
「明日から二人とも太極小学校に通うんですよ。太極高校は確かお隣ですよね」
「え……。えーーー!? 小学生!?」
思わず指さしてしまった。
この美少女が、中学生なのならまだ、ロマンスが始まる期待もできた。しかし、小学生となると……
ありだよな、と右京四郎は思い直した。
「じゃ、アニー。帰りましょ」
ロレインがアニーの手を引いて歩き出した。
「よろしくなっ」
アニーはニカッと猫のように笑い、右京四郎に手を振った。
「ま……、またな、アニー」
右京四郎も手を振り返した。
アニーのおかげか気分が軽くなっていた。兄貴と二人暮らしの部屋へ帰ろうと思った。
▣ ▣ ▣ ▣
水星五月は小学六年生。
彼女は女王である。
長い黒髪をなびかせ、腰を左右にしならせて廊下を歩けば、男子も女子も、その颯爽とした姿に誰もが見とれる。
そんな彼女に気安く話しかけられるのは、幼なじみぐらいのものだった。
「おい、クイーン」
後ろから呼び止めてきた幼なじみに顔を赤らめて五月はキッ! と振り返った。
「ちょっ……、勇次郎! クイーンはやめてよね、恥ずかしい!」
「だっておまえ、自分の鞭に『クイーン』って名前つけてるじゃないか」
「もうっ! あたしはね、学校ではふつうの女王様でいたいの! あんまり恥ずかしいこと言わないでよね、勇次郎!」
「ふつうの女王様ってなんだ。ところでサツキ……」
勇次郎と呼ばれた幼なじみは中二病的ポーズを決めると、報告した。
「転校生が二人来るらしいぜ。しかもアメリカからだと」
「転校生?」
初耳だった五月は興味をもった。
「うちのクラスに?」
「いや、一人は五年生、もう一人は四年生だそうだ」
「ふぅん……。アメリカ人か。日本語喋れるのかしら?」
「知らんが興味あるよな」
「待ちなさいっ、アニー!」
そんな大声がして、二人は廊下のむこうを振り返った。
同じ小学校の制服を着た、赤い髪の女の子が、凄い笑顔で廊下を駆けてくる。無言だが大笑いしている。
「あーーっ!」
その顔と赤い髪を認め、五月は思わず声をあげた。
「昨日の……赤猫!」
そしてどこからともなく愛鞭『クイーン』を取り出すと、駆けてくる赤猫少女に向かい、いきなり振るった。
「とうっ」
赤猫少女は飛んでかわすと、五月の胸に抱きついて止まった。
「また会ったなっ! オメガレッド!」
「誰がオメガレッドだ」
「こらこら、クイーン。こんなかわいい下級生にいきなり鞭を振るうとは何事だ」
勇次郎がたしなめる。
「君も君だ。五月はオメガレッドじゃない。ってか、オメガレッドってX-MENに出てくるバケモンみたいな男キャラじゃなかったか?」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
後からやって来たロレインがぺこぺこと、日本式に頭を下げて謝った。
「この子、一階から六階まで駆け回って遊びはじめちゃって──」
「え……」
「中学生ですか?」
二人はロレインを、見上げた。
「あ、はじめまして」
ロレインがにっこり微笑んだ。
「私、今度この小学校にアメリカから転校してきました、ロレイン・カミュといいます。五年生です。こっちは大山アニー、一つ年下の……幼なじみ、です」
ゲームの世界から飛び出してきたエルフのような美少女に、それが流暢な日本語を喋ることに、何よりそのキラキラ輝くような微笑みに、二人はぽかんとなった。
ぽかんとしている二人に、下からアニーが大声で言った。
「俺たち、おとーさんを殺したやつを殺しに日本にやって来たんだっ!」
「は?」
「……は?」
ロレインの顔を見上げていた二人が揃ってアニーのほうへ視線を下ろす。
アニーは冗談でも言っているように笑っていた。
「ほらっ、アニー。行くわよ。先生が探してらしたわ」
ロレインが手を引いてアニーを連れて行った。
その後ろ姿を見送りながら、五月と勇次郎は揃って呟いた。
「殺しに来た……って」
「ハリウッド映画の観すぎ?」
二人の目には、アニーもロレインもふつうの小学生にしか見えなかった。いや、ふつうというよりは元気すぎる女の子と大人すぎる美少女ではあったが──
まさかこの二人がアメリカからやって来た殺し屋だなんて、そんなフィクションのような考えは、五月にも勇次郎にも、その脳裏に浮かぶことは微塵もなかった。