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第31話 春葉の決意

 翌朝――。


 春葉はベッドから起き上がり、身支度を整えた。階段を下りる動作一つ一つが、まるで重い枷に縛られているかのようだった。


 いつもの日常のルーチン。しかし、昨日の部室で目撃した冬也と夏月の情景が頭を離れない。


 結局、扉を開けることなくその場を後にしたが、それが正しかったのかどうか、まだわからない。


 結果として冬也の心は夏月に大きく傾いた。それを想像するのは容易だった。


 部室に飛び込むべきだったのだろうか。だが、それではただの邪魔者になってしまったのではないだろうか――。


 そんな思いが胸を締め付け、一晩中眠れなかった。さらに葵にも心配をかけ、自分の迷いや弱さを晒してしまったことも悔やまれる。


 それでもなお、諦めきれない自分がいる。それほどまでに、冬也は春葉の心の中に深く根を下ろしている存在なのだ。


 小さい頃、貧しい母子家庭で育ち、育児放棄されていた春葉にとって、冬也との時間だけが唯一の救いだった。彼との日々は、春葉にとって楽しい毎日であり、何よりの安らぎだった。その記憶が、春葉の心に深く染みついている。


 ダメ。諦めちゃダメ。負けちゃダメ――。自分を奮い立たせるようにそう繰り返し、春葉は心に強い意志を宿す。


 階下に降り、ダイニングへと足を向けた。長テーブルには既に義父母と葵が座っており、執事長とメイドたちが控えていた。


「遅れてすみません」


 一言だけ挨拶をして、山名家の朝食が始まった。





 給仕を受けながら食事をしていると、義父が厳しい口調で語りかけてきた。


「春葉。葵から聞いたが、学園の男子生徒と付き合っているそうだな」


 春葉の心臓が、その言葉に凍り付く。


「養女とはいえ、お前も山名家の娘に変わりはない。こちらで決めた相手以外と付き合うことは許さない」


 義父の声音は、有無を言わせぬものだった。


「…………」


 春葉は唇を噛みしめ、膝の上で拳を握りしめた。心を奮い立たせ、意を決して口を開く。


「お父様。お言葉ですが、私も一人の人間であり、女性です。好きな殿方がいますし、その方と話したり、お付き合いしたいという気持ちは……」

「黙りなさい」


 義父が容赦なく春葉の言葉を遮る。


「お前は山名家の娘だ。その山名家の娘が、どこの馬の骨ともわからぬ男と付き合うなど、恥さらしもいいところだ。家門に泥を塗る真似は許さん」


 ピシャリと言い切ると、それ以上この話を続けるつもりはないと言わんばかりに、再び食事に戻った。


 義母はいつも通り黙したまま、何も言わない。葵は春葉の視線を受け止めることなく、そっと顔を背けた。


 春葉は目を閉じ、震える体を必死で抑え込む。気を緩めれば、そのまま涙が溢れ出てしまいそうだった。


 思えば、この家に来てからずっとこうだった。義父の言葉が絶対であり、義母はそれに従うだけ。そして葵はそれを受け入れ、将来のレールの上を歩むことを当然のように受け入れている。


「ごちそうさまでした。体調がすぐれませんので、先に失礼させていただきます」


 春葉は震えを隠すようにそう告げ、山名家のダイニングを後にしたのだった。



 ◇◇◇◇◇◇



 それから、心に暗闇を抱えたまま、春葉は登校の準備をした。


 家を出て、今にも泣き出しそうな空を見上げる。垂れ込める重たい雲が、彼女の胸中そのもののようだった。


 とぼとぼとした足取りで学園へ向かいながら、春葉の頭の中には冬也のことしか浮かばない。


 彼のことは、ずっと昔から好きだった。初めて出会ったのは図書館――本の話で意気投合した瞬間、春葉の心は光に包まれたようだった。


 それまで真っ暗だった世界が、彼によって少しずつ明るく変わっていった。その時間は何よりも大切で、彼との日々は唯一の希望だった。


 ――なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。春葉は自問しながら、目に映る景色も意識に入らないまま足を進める。


「冬也君も、お似合いの相手、夏月を見つけたみたいだし……私は結局、こうなる運命だったのかな」


 つぶやいた声が、思った以上に大きく響く。思わず、自嘲するようにふっと笑ってしまった。


 その瞬間、目尻に溜まっていた涙がぽろりと零れ落ちた。


 一滴が頬を伝うと、堰を切ったように次々と涙が溢れ出す。


「私、ダメだったね……頑張ったけど」


 春葉は小さな声で言葉を紡ぐ。それでも涙は止まらない。


「辛い……苦しい……哀しい……」


 歩みを止め、横のブロック塀にもたれかかる。


 視界は涙でぼやけ、思考は空っぽになった。ただ嗚咽が漏れる。


 ――何分経っただろうか。


「冬也君……」


 かすれた声でその名前を呼ぶと、心に浮かぶのは彼の笑顔だった。困ったように笑う顔、優しい声、そっと触れた指先の温もり――。


 そして、冬也とのキスの感触。


 その記憶が、胸の奥に灯をともす。


「私……やっぱり冬也君が好き」


 震える声でそう呟いた瞬間、胸の奥から情熱が湧き上がってきた。


 ――今まで、本気のつもりだった。でも違う。


 春葉は初めて気づいた。自分は覚悟を決めきれていなかったのだと。


「もう迷わない。もう戻らない。私、頑張ってみる。冬也君と行けるところまで行ってみる」


 言葉にすることで、自分の決意が確固たるものになる。


 善悪なんてわからない。最後に「ああよかった」と思うのか、「失敗した」と思うのか――それだけのこと。


 だから私は、自分で選んだ道を進む。そして、その先で後悔するなら、それも私の生きた証だ。


 そう胸に誓い、春葉は再び歩き出す。


 義父も義母も葵も夏月もいない、ただひとりの通学路を、彼女は自分の意志で進む道を選んだのだ。

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