ep53 あの日の夜(Punching bag)
「あの日の夜はあの日の夜ですッ!ユーベンブロイが六歳になった誕生日の夜です!イシュさん……貴女が来なければッ……貴女が来なければユーベンブロイは死なずに済んだんです。わたし達親子の大切な時間を返して下さいッ!」
「だから、「ユーベンブロイ」って誰です?誰か人違いじゃありませんコト?貴女は「魔の酒場亭」のディアさんですわよね?あの日は夜まで掛からず、昼前には降りた気が致しますわ。そうそう、あたしが知っている「魔の酒場亭」の皆様はお元気かしら?」
混沌はここに極まっていた。イシュが自分の溜飲を下げようとしたあの日は、今から百年程前の出来事である。そしてその百年の間にセシルラウザー公爵家は元より、その国も既に「亡国」である。
故に、イシュの溜飲は下がっている。
彼の国を滅ぼしたのはもちろん“イシュエン”の二人だが、滅ぼした国や殺害した人物の名前をいちいち覚えていたら、それはもうかれこれ百年分……即ち数十万人規模の名前を覚えていなければならなくなる。そんな事は不可能だ。
だからこそ、イシュが「あの日の夜」を覚えていない事は当然と言えば当然のことだった。
しかし、一方のディアは違う。アメリアは百年前のイチ惑星から、百年後の今のアーレの城下町がある「別惑星」に惑星間移動した上に時間旅行して来たと言っても過言ではない。
故に記憶を取り戻した現状、アメリアの中で「あの日の夜」は衝撃的な数ヶ月前の出来事と言える。
更に間の悪い事に、イシュは数日前からの記憶を完全に喪失していた。それはエンの首輪から自我を守る為に行った代償であり、それによって全ての権能を失ってしまった事にも気が付いていない。
拠って外見がイシュから依り代の姿に戻っている事にさえ、未だ気付いていないのだった。
「あぁ、もうこの話しに意味はありませんわね。ディアさん、貴女はあたしを「敵」と見做しているのでございましょう?あたしは意味も分からず殺されるコトを善し致しません。貴女があたしを殺そうとするのであれば、あたしも相応の態度を取る事になります。そういう事で宜しくて?」
「あの時のわたしは、戦う術を知らず……貴女を恐れるだけの……セシルラウザー公爵家に使える使用人でした。……でも今は違う。貴女に殺されたユーベンブロイの為に……「別の世界から来たるモノ」さんとの契約で、わたしは魂を集めなければならないんですッ!」
「セシルラウザー?ん?セシルラウザー……そうか、ディアさん、貴女はあの時の……」
だんッ――
ディアはその身の内に増大させた怒りを渾身の一撃とし、何かを悟ったイシュの顔面へと叩きつけたのだった――
「ディアさん……残念ながら、この程度の一撃じゃ、あたしは殺せなくて……よ?でもお陰で、いい事を思い出させて下さいました。――あたしの溜飲はもう下がり切っています。この身体……ソフィアが味わった屈辱も汚辱も辱めも、全てはアルデバランの死によって、無に帰したのです。だから、貴女の御子を死に至らしめた事は、仕方のなき事。それでもまだ戦うと言うのなら、手加減無しで相手をして差し上げますわ」
「わたしは貴女達の侵略からこの町を守る為に戦うつもりでした。でも、今は違います。今は、ユーベンブロイの為にもイシュさん、貴女に勝ちます!」
「侵略……?それならここはアーレですの?でも、あたしにはここがアーレだとは思えませんわ。あたし、ここ数日の記憶を何も覚えておりませんの。何がどうなってこうなったのか、そこだけは教えて下さりません?」
「問答無用ですッ!たあぁぁぁりゃあぁぁぁッ」
――へしッぺしッ
べしッべしんッ――
「(洗練していないただの魔力を乗せただけの攻撃……何故権能を使わない?いや……そうか。ディアは権能を使えないってコト?だとしたら……この程度じゃあたしにダメージは通らない)あぁ、もうッ!あたしの話しを聞いて下さいませんコト?」
――へちッぺちッ
べちッべちんッ――
聞く耳を持たなくなったディアの一方的な攻撃剛撃猛追撃のラッシュがイシュの身体に見舞われていく。
しかしイシュは平然とした面構えでそれらを受けていた。そんな中でありながら対話を試みようとするイシュは、話しの聞かなさにいい加減に煩わしくなったと言えるのかも知れない。
「まどろっこしいですわね。少しは大人しくあたしの話しを……。――金星の呪縛――」
しゅぅぅぅん――
「(あ……れ?あたしの権能が……一体何故?ただの不発?)」
――はしッぱしッ
ばしッばしんッ――
「(あ……ら?この身体にダメージが入って来てる。本当に何故?こうなったら受けずに躱すしか……)」
――はちッぱちッ
ばちッばちんッ――
「(身体が重い。普段のあたしの身体じゃないみたい……本当に本当に何故なの?)」
極まっていた混沌は正常な姿へと変貌していった。と言っても先程までのドロ沼ドロドロ劇場から一方的なサンドバッグ程度の変化である――




