ep5 契約書(Life pricing)
「間もなく目的地に到着しまぁす」
ディアはエンゲに声をかけたが、当のエンゲはランデスに乗ってから今までに起きた出来事に対して頭が、これでもかという程、理解が追い付いていなかった。
そしてもう、空から青みが失われつつある。契約書にサインした翌朝にアーレの城下町を出たにも拘わらず……だ。体感的にそんなに時間が経過したつもりはなく、その事がより一層理解を遥か彼方に追いやっていると言っても過言じゃなかった。
「それじゃあ、目的地周辺なので、一回ランデス君を適当な場所に着けて、残りの契約を済ませましょっか!」
「残りの契約?リュウゼツゴイの情報と、ここに連れて来てもらう以外に、何かあったか?」
「さては、契約書を熟読しないでサインしましたね?危ないですよ?おかみさんは悪い人じゃありませんけど、悪い人かも知れない人が書く契約書は、最初から最後まで熟読しても怪しんで、契約書の裏とか不審な折り目とかまでチェックしないと危険なんですからッ!って、おかみさんが言ってましたッ‼」
「だいぶぼったくられてる気がするが……」
「おかみ」が提示した契約書をエンゲは熟読したワケではない。だからこそ、このタイミングでディアから伝えられた事に多少なりとも寒気を覚えたのは確かだった。しかし、サインした契約書は手元にない。後の祭りと言われても仕方のない事なのも正直なところだ。
「それで、残りの契約って何なんだ?」
「両替ですッ!」
エンゲがディアから齎された言葉に何度目かの肩透かしを喰らっていた。しかしながら今度は動揺として表情に浮かべられている様子だ。
「いいですか?これは、おかみさんからの親切です!大陸が違って、国も違えば使われている通貨が違います!今持っているセレスティア大陸の通貨が使えるワケなんてないんですからッ!」
「た……確かに……」
こうして無事にこの地で使える通貨を手にしたエンゲだったが、この大陸の通貨の価値も物価の相場も知らないので、これが正当な両替だったのかは分かる由もない。しかしながら、使えない通貨を持っているよりは、使える通貨の方が有り難いのも事実な為、素直に両替に応じた事もまた事実だった。
「では、今日はここで一泊して、明日の朝にユングの町に向かう事にしますね」
「いや待ってくれ!なんでそうなる?目的地周辺に着いたんじゃないのか?」
「わたしはエンゲさんを無事に目的地にご案内するのが仕事です。ここは目的地周辺と言えば周辺ですが、この時間からじゃ、宿は取れませんよ?見ず知らずの町で野宿する事の危険性とか考えないんですか?それにこの時間から町に入れる保証もないので、そうしたら外で野宿ですよ?陸獣とかいたら、それこそ陸獣の晩御飯になりますけど?」
「俺は男だぞ?こんな狭いクルマの中で、キミは襲われる心配とかはしないのか?」
「安心して下さい。わたし、結構強いので。それにもし、わたしに手を出すなら、契約者不履行として処分するだけですから」
――ぞくっ
再びの悪寒。エンゲはディアの持つ「エレ以上の得体の知れなさ」をディアの笑顔から察していた。そんなエンゲだからこそ、命の危険を冒してまでこれ以上この手の会話を続ける気も無く、別の話題にすり替える事を決意したのだった。
「こ……ここに泊まるなら、食事はどうするんだ?それに陸獣に襲われた場合はどうする気だ?」
「ランデス君に食材は積んでませんので、携行糧食で満足して頂けると助かります。それと、陸獣に襲われてもご安心を。ちょっとやそっとの陸獣じゃランデス君の外装に傷一つ付けられませんし、ちょっとやそっとどころじゃないのが来たら、わたしが蹴散らしますッ!その時は晩御飯が豪勢になりますから、喜んで下さいッ‼」
自信満々の屈託の無い笑み……その瞳の奥底にある身の毛もよだつナニカ。それを垣間見たエンゲは、「魔の酒場亭」に踏み込んだ数日前の自分に多少なりとも後悔を抱くのだった……。