第16話 「あなたになんて声を掛けなければ……あなたになんて……出会わなければ良かった」
「……あなたはどうして、さっきから人の部屋の前でそんな不審な行動をしているのかしら?」
扉が開き、顔を出したのはもちろん部屋の主である明石さん。
彼女の纏う空気が、朝に挨拶を交わすときと比べれば明らかにピリついているし、その体から漂わせている血膿の臭いも濃く感じられる。
「ゴメンゴメン。えっと、なんていうか……話がしたくてさ。
中に入れてもらえたりとかダメかな?
ああ、もちろん明石さんの部屋がイヤなら、俺の部屋でも構わないんだけど」
「何をされるかわからないから嫌よ。……と言いたいところだけど。
あなたの声に、壁に向かって八つ当たりをした私が、こうして毎日うるさくしているのだから……あなたが怒るのも仕方がないことよね」
「いやいや、全然怒ってるとかじゃなくてさ。
その、大きなお節介だってのは分かってるんだけど……。
声の感じから、どこか具合が悪いのかなって思うと、放っておけないっていうか。
もしかしたら、俺に相談してもらえれば……何かできることがあるかもしれないよ?」
自分で言っててなんだけど、胡散臭いことこの上ない説得だなこれ。
「……そうなのね。
あなたは私のことを何も知らないみたいだから、今まで普通に接してくれていたし、私の作った料理だって食べてくれてたけれど……どうせいつかは知られてしまうことだものね。
いいわよ。しばらく食欲も性欲も消し飛ぶようなものを見る覚悟があるなら……どうぞ入って」
少し怖い前置きしたかとおもうと扉を大きく開き、迎え入れる体勢で待ってくれる明石さん
「……女の子の部屋ってほとんど入ったことないから、めちゃ緊張するんだけど。
べ、別に? やましい気持ちとか下心とか、そういうのは全然……ちょっとしかないからね?」
「逆に、こんな仮面を被った女に少しでも下心を持っていることにドン引きなのだけれど……。
はぁ……こんな気持ちにさせられるくらいなら、あなたになんて声を掛けなければ……あなたになんて……出会わなければ良かった」
「ちょっとした本音なのにそこまで言われちゃうんだ!?」
どこから来ているのかわからない彼女の苛立ち、そして怒り。
でもどこか諦めたようなその口調に少しだけ寂しさが混じる。
「おじゃましますー」と、ことわりをいれてから入った部屋の中は、俺の暮らす部屋の間取りとほとんど同じで。
「てか、俺の部屋ってそこのガラス戸が最初から無かったんだけど?」
「知らないわよそんなこと」
そりゃそうだろうけどさ!
「女の子の部屋……一人暮らしの女の子の部屋……」
「ぶつぶつと気持ちの悪いことを呟かないでもらえないかしら!?
まったくあなたは……普通の人ならこの部屋に入った途端、充満している臭いで吐き気をもよおすものなのだけれど?」
「……普通の人なら、この部屋に入った瞬間に臭いで吐き気を催すものだけど」
臭い。言われれば確かにキツくはあるけど――
「これでも、それなりの修羅場はくぐり抜けてきてるし?」
「あなたはいったい何者なのよ……」
台所にはきれいに片付けられた調理道具と冷蔵庫。
洗濯機の上には部屋干しされた――
「……気持ち悪いでしょう?」
「いや? 年齢を考えたら、ちょっと攻めてる気はするけど気持ち悪いなんて思わないけど? どっちかって言えば、むしろ興奮するっていうか」
「あなたは一体何を見ているのかしらっ!?」
明石さんが干していたパンツを慌てて取り込む。
いや、もちろん洗ってはあるが、赤黄色く変色した包帯とさらしが大量に干されていることを言ってるのは分かってるんだけどさ。
それだって別に、魔物に齧られ食い千切られた死体がそこかしこに並べられていた、イスカリアの野戦病院の惨状と比べれば……ねぇ?
……ていうか、パンツはいっぱい干してあったのに、ブラが一枚もないのは――
「……何か言いたいことでもあるのかしら?」
「……別に?」
思わず目を向けてしまった彼女の胸元からそっと目を逸らす。
「……大丈夫よ。そんな妙な気遣いをしなくても。
この『症状』とは、もう5年の付き合いなのだから」
「それはつまり第二次性徴を迎えてからまったく大きくなっていないと」
「確かに気を使わなくていいとは言ったけれど、最低限のデリカシーは持ってほしいのだけれど!?」
俺のどうしようもない感想に、明石さんはその毒気を抜かれ大きなため息を漏らす。
ガラス戸が『キュルキュル』と細い音を立てながら開き、通された奥の部屋。
ベッド、本棚、カラーボックスが数個、ちゃぶ台と座布団が一枚。
俺の記憶にある同年代の女の子、たとえば『山口(金髪バージョン)』の部屋と比べても驚くほど殺風景で。
「お茶を淹れるから、好きなところに座ってちょうだい。
一応言っておくけど……布団や座布団の匂いを嗅ぐのはやめてね」
「確かに俺は匂いフェチだけど、それはあくまでも頭髪に限定されたものだから。
つまり嗅ぐとしたら布団や座布団ではなく枕――」
「いいから黙って座ってなさい」
「あっ、はい」
テレビも無い部屋に響くのは、彼女がお茶を用意するカチャカチャいう音。
そしてしばらくしてお湯が煮え立った『シュシュシュ』という蒸気音。
「どうぞ」と差し出されたコップに遠慮なく口をつける。
「何なのあなた?
どうしてこの部屋の中、この臭いの中でそんな普通の態度で私に接することが出来るの? もしかしてそれは色恋営業のつもり?」
「まったくそんなつもりは無いけどね?」
どうして俺は知り合う女性全員から結婚詐欺師だとか色恋営業だとか罵倒されるのか?
自分では気づいていないけど、もしかしてインキュバス的なフェロモンでも出してるだろうのか?
向かい合わせ座っていた明石さんがコップを持ったまま小さくため息。
「……私ね、他人と一緒にいるのが苦痛なの」
「えっ? まさかのいきなり出ていけ発言!?」
「違うわよ? そうね、言い方が悪かったわね。
おかしな仮面を被った女がいったい何を言い出すのかと思うでしょうけど。
……私って赤ちゃんのときからとても可愛い女の子だったのよ」




