3話
路線バスの中。私は白い吊革を掴み流れる風景を見ていた。目の前にいるルカを守らないといけないという恐怖はまだ強く心の奥で脈を打っている。そして、それ以外に大きく支配する灰色でモヤモヤとした気持ちが煩わしい。窓の外に流れる風景の中に記憶の扉を開いてくれる風景を無意識に期待していた。
「今村さん、どこまで行くんですか?」
横に立っていた朝宮英剛は迷惑そうな声色で訪ねてくる。私はどう答えようか迷っていると、目の前に座るルカが割って入る。
「まずおうちに帰るって言ったじゃない。お父さんが記憶喪失なんてお母さんになんて言えばいいか……実際にあった方が……いいんです」
涙声でルカはまた嘘をついた。
「それはわかりますが、でもあなたの戸籍も……」
朝宮はハッとして周りを気にしてウィスパーに、「まだ証明できていないんですからね!」と訴えた。
「だから家まで来ればわかるって言ったじゃない。12歳の子供捕まえて証明とかよく言えますね。大人のくせして」
朝宮の迷惑な色が一瞬で変わる。とても冷徹な張り詰めた色になった。
「ねぇ、お父さん、思い出してよ! お母さん、お父さんが居なくなってからずっと寝込んでいるんだよ。ねぇ!」
私の左腕の裾を掴んで揺らしながら涙を流すルカ。周りの乗客はこちらを見ないが耳をそばだてたり、最後部に座っている高校生のカップルはチラチラ視線を送っていた。私は無言でいるしかない。何か喋ってしまうと、ルカが作り上げてきたメロドラマの辻褄が合わなくなってしまう。しかし、ルカから出てくる言葉と紡ぎ出される表情筋の動きに淀みがない。すべての感情もチグハグな色を全く発さない。本当に感情が彼女の中から出ている。素晴らしい素質だ。それよりも、朝宮から、冷たくて奥底から流れてくる、真冬の氷の下でゆっくりと対流する冷水のような感情が気になった。ルカを見つめる顔には笑顔のために働く表情筋が全てフリーズしていて、瞬きだけ定期的に働いているようだった。
日は完全に沈み青から紺色へのグラデーションが少しずつ藍鉄色に変わっていった空の方へ、私たちを乗せたバスは走っていった。
武蔵小山駅の横にある商店街。微かに聞こえるクラシックのストリングスがノスタルジックに響いてくる。白髪の女店主はパンがたくさん入ったビニール袋を並べている。黄色い濃厚なカスタードクリームが懐かしさを感じさせてくれる、典型的なクリームパンの有名な店で、店主が入院して奥さんが1人で頑張っているそうだ。その横にある生肉屋の作るメンチカツが、ヤバいらしい…… とにかくもう普通のメンチカツには戻れないそうで、日々味が微妙に変わるんだとか、その日の温度や湿度そしてメンチカツを作るお爺さんの気分次第だそうだ。他にもこの商店街の特徴を事細かにバスの中でルカから教わった。
「へーここですかー ヤバいメンチカツって」
朝宮は来たことのない土地に対する強い好奇心に支配され、さっきの冷徹で重い感情は微塵も感じられなかった。ルカは私の裾を掴んで「どうしようか、アレ」と首をクイっと朝宮を指した。さっきまでメロドラマを演じた少女とは思えないような悪態ぶりだ。酷いのはその後で「スタンガンでやっちゃう?」とほくそ笑んだのだ。面白い子だ。大人が言うようなセンスの冗談をさらっと言いのける。12歳の子供なのだが、子供でいる時間が短かったんだろう。子供が大人にならざるを得ない事情は、どんなことであれ不幸なことだ。
「何か思い出したりしますか?」
朝宮は振り返り私の不安な心をさりげなく気遣った。作業療法士とは、医療行為を行う医者と違って、患者の心に寄り添う仕事だ。彼は小さい頃、交通事故に遭い、大腿骨を折る重傷を負った。リハビリで親身になって元通りの生活に導いてくれたのが作業療法士だった。この話を最初に出会った頃、話してくれた。人は外傷を負うと心の傷も負うことになる。当たり前なことができなくなると人は自分を責めてしまうもの。でも、当たり前なことができない経験も1つの貴重な人生経験だと、その経験は必ず大事なものになる。だから、今は僕を信じて一緒に元の生活に戻りましょう。その言葉に救われた朝宮少年は作業療法士を目指そうと思ったんだそうだ。その時の彼から漏れ出る色は美しかったのを強く覚えている。
「あ、お土産にメンチカツ買いましょうか?」
「本当にお家まで来るんですか?」
ルカの嫌そうな顔は普通の人なら簡単に心を折る力がある。しかし、朝宮は全く尻込みせずに。
「私は今村さんの作業療法師です。責任を全うさせて下さい」
朝宮の固い心は誰にも折れそうにない。少し異常にも見える責任感が少し怖さも感じた。行きすぎる責任感は相手の気持ちを感じることが出来なくなり、良かれと思ってしている行動が全て裏目に出てしまう。その成れの果ては相手の認証不足による自己価値の崩壊によって怒りに変わり相手を傷つけてしまう。朝宮にはそんな未来を感じてしまう。
「じゃあ好きにしてよ」
ルカが折れ議論を放棄した。
「じゃあ、お土産のメンチカツが買ってきますねー」
朝宮は精肉店のおばちゃんに「メンチカツ5個」と伝えた。揚げ物と香ばしい焼いたパンの香りなどが入り交じった匂い。さびが目立つ古ぼけたアーケード。全て見覚えがない。しかし、懐古的な記憶が蘇るのはかすかに聞こえるクラシックだ。少しゆがんだレコードに針を落とし、それがゆっくり上下に動く。でも音はちゃんと聞こえてきていた。それがとても不思議だった子供の頃の記憶だ。19歳以前の記憶は普通に蘇ってくる。あの冬の自販機前でのリコとの時間は20年も前の記憶だ。私にとってはついさっきだったような気がするし、遠い昔のような気もする。エアーポケットのような20年間は私の存在を曖昧にする。今ここにいる私は何なのだ? 19歳のあの時からタイムスリップでもしたような感覚もある。しかし、今の私を形成するメンタルは19歳の頃のものではない。自分の体つきや心の奥に潜んでいる恐怖。普通じゃない20年を過ごしたのは間違いない。
「あなた、傭兵だったのよ」
メンチカツを買う朝宮から少し離れ、ルカは私の濁った葛藤の色を察したのか、ぼそっと伝えてくれた。傭兵……今までの自分の行動を考えてもしっくりくる。敵対する人間を排除しないと自分が殺されてしまう世界を生き抜いてきたのなら、心の奥の恐怖の正体は想像できる。でも想像できるだけだ。客観的には元傭兵でしっくりくるが、自分の本質には全く響かなかった。パズルのピースが、形はキレイに嵌まるが、絵が全く繋がっていないものになっているような、頭ではわかるが心ではしっかり捉える事ができないような感じだ。記憶がないから納得できないというのとは違う。本質を震わせてくれないような、そんな感じだった。少し混乱した私は「冗談ですよね?」と答えるのがやっとだった。
「お父様が言ってたよ。伝説の傭兵だったんですって、あなた」
「ピンときませんが……」
「あなたは私の用心棒なのよ」
メンチカツをほおばりながら、朝宮が戻ってくる。
「ほふぃーばーぼ(ボディーガード)?」
「……そうです。お父さんの職業です」
「今村さんってボディーガードだったんですか? ってことは元軍人とかですか?」
「……そうよ」
ルカから感情が揺らぐ波を感じた。朝宮にアレルギーでもあるのか、「行こお父さん」と囁きその場の会話を強制的に閉じた。私はそのルカの違和感よりも強く商店街の中に感じた。咄嗟にルカの手を取り自分の背後に寄せて、手は虎拉ぎに構えてた。古武道の世界では手を開いた状態で指を折り曲げ力を入れると体幹を安定させる力が働く。
「あ、ソウさん! お久しぶりですねー ハルカちゃん良かったねー お父さん帰ってきてー」
その違和感の正体は、古いブティックの軒先に出てきた男だ。私はこの男から発する一種の緊張感が私を警戒体勢から解かせない。それほど異常な色だった。いや、どこか懐かしさをも感じるしっくりした緊張感。
彼の名は宮澤堂。ブティックの店主に化けた現役の傭兵だ。