2話
「もう!! 大丈夫?」
目の前にいる少女は焦りを見せつつも心配そうに私の顔をのぞき込む。
私はいま自分が記憶喪失であることを自覚した。私は彼女が誰なのか全く思い出せない。
「……」
「速く一緒に逃げて!」
彼女の表情から感じられる焦りは本物のようだった。急に、ここにはとどまってはいけないような大きな不安感に襲われ、気づくと私は少女の手を取り歩き始めた。
足早に歩き続けていると、少女はその早さに付いてこられないようで、歩いたり走ったりを繰り返す。私はスピードをギリギリまで緩めた。走ってはいけない。この人混みの中では走ったら目立ってしまう。そんな考えが自然と湧いてきた。少女を気にして何度か振り返りながら、後方を確認すると、急に襲われた不安感は何者かに追われている感覚にすり替わっていた。とにかく逃げないと、この少女を守らないといけない。その時、私はなぜそう感じたのかわからなかった。とにかく心の奥に潜む恐怖が脈を打つように主張してきたのだ。
電車がたくさんすれ違う大きな高架下を抜け、小さな飲み屋街を抜けた。そして、また高架下をくぐり直す。この高架下は見覚えがある。新宿だ。歌舞伎町の方に目を向けると、19歳の頃の新宿にはなかったはずのビルが聳え立っていた。目の前は能面のような顔をした人たちがぞろぞろと歩き回る。ここは、大きな大きな新宿駅。その中をできるだけ自然に、そして人の流れに逆らわず歩いていく。乗降客が一日におよそ350万人という世界一の駅。この街にはたくさんの色がある。赤、青、白とそれらの色が混じり合って無限の色が蠢いている。ネオンのようにチカチカと切り替わる色もあれば、大きくて移動しながら周りを飲み込んでいく色。混ざりすぎて何色なのかわからなくなった色。そんな色と色の間を私たちはすり抜けていく。
「……あの」
「はい?」
私はなぜ追われているのかを聞きたかったが、視界の端っこに明らかにこっちを見ている人間に気づいた。すぐに目線を外し、私たちと同じ方向に歩きつづける。
「お金持っていますか?」
「え? お金? 持ってるけど」
「私は持っていないんです」
チノパンのポケットをまさぐるが、ハンカチすら入っていない。無一文で頭に包帯を巻いた男がかわいい少女の手を引いて歩いている状況について少し面白くなってしまい、私は少し笑顔になった。少女もつられて微笑み「金無し保護者」と冗談まじりに嘲笑った。
ナチュラルで本当にポジティブな笑顔は素敵だった。私にとってはさっきまで会っていた20年前のリコも同じよう笑ってくれていた。
あの時私はリコの勉強を教えていた。「因数分解なんてこれから生きていく中で絶対に使わないよ」「そうだけどねぇ、これから生きていく中の来年の高校試験では使うよ」「そーいうことじゃなくてー」「あはは、わかってるよ人生を因数分解する事がないってことでしょ?」「は? 何言ってるかわかんないー」「あ、そう?」「あははっ先生、変な人だよね」
リコもこの少女のように上手に笑えるようになっていて欲しい。
先ほどから感じる視線はどんどん多くなってきている。一つ、また一つと目は合わないが私たちにベクトルを向けている気配が手に取るように感じることができた。
「どこか安全な場所に行かないと……」
「うん、武蔵小山駅に行って」
「わかった」
私たちは切符を買ってJRの改札口から、山の手線の内回りと総武線が停車するホームに上がっていった。
その後を追う者たち。スーツやカジュアルな服など様々な格好をしていた。一見まったく追跡者のようには見えない。2人1組で行動しているようで、それが複数の組で動いている。それぞれワイヤレスのヘッドホンをしており、それで通信を行っている。規律があって行動に迷いがない。尾行のプロだ。彼らは私たちが登ったホームに、複数ある階段をそれぞれの組が上っていく。
ホームに登った瞬間、私は「走るよ」と少女に伝え、閉まる寸前だった改札に下るエレベーターに滑り込んだ。二人しか乗っていないエレベーターは下に下がっていく。
エレベーターの中。私は頭に捲かれている包帯を取って、ポケットに突っ込む。後頭部は大きな縫い跡があり、少女はそれをみると、眉をひそめ「大丈夫?」とつぶやいた。髪の毛で隠せば、遠目で見ると包帯を巻いているよりも目立たない。
エレベーターを降りたら再び改札口に向かった。私と少女の手には”入場券”と書かれた140円の切符。
「だから、入場券なんて買ったんだ」
「普通の切符だと、改札を出るのに手間取るんですよ」
「っていうか、入場券なんてあったんだ〜」
改札を出て、目の前にあったタクシー乗り場の方へ向かうが、それを通り過ぎ大きな目玉のオブジェの前へ歩き続ける。虚を突かれた少女は小走りで追いかけ、都庁方面へ流れる人混みに入り込んでいく。
「ちょっと! なんでこっちなの? タクシーとか乗らないの?」
「今はタクシーだと危険だ。こっちの方が安全…… だと思うんだ」
「なんで?」
「……」
「……タクシーは赤信号で止まるから?」
「そう、……まだ追跡されている」
少女は振り向いてみるが、追いかけてきている雰囲気は感じられない。
「追われてないように感じるけど」
「……」
少女は、あからさまに疑心暗鬼の表情を向ける。私はひとつ大事なことを聞いてみた。
「……名前」
「え?」
「こんな時に悪い。君の名前を忘れたんだ」
「……私の名前は、石川・アシュリー・ハルカ」
急に立ち止まり、私は少女の手を引っ張り横にある出口から地上を目指す。
「痛っ ちょっと!」
「こっちはだめだ!」
地上に出て、大きなビルの中へ入っていった。エントランスを抜け、エレベーターホールへ。たくさん並ぶエレベーターの横にあるボタンを押す。上を指すボタンが一斉に光る。周りを警戒しながら少しの間待ってみるがエレベーターは来ない。私は大きく息をつき、穏やかな声で少女に語りかけた。
「ルカさん」
「え? は、はい」
「これからちょっと無理をしますけど、私から離れないで下さいね」
「はい」
ルカの頬はこわばる。私はルカを後ろに、逃げてきた方向に向かって歩き始める。しっかりとルカを守れる距離を調整しながら。
エントランスの中央で、私は歩みを緩め、ビルの入り口付近の人混みを観察する。だれもこちらを見ていないが、私はその中に追跡者がいることを確信した。
「ちょっとこっちです」
進行方向を変え、トイレがある廊下へと向かう。トイレまでの廊下。角を曲がったら男子と女子のトイレの入り口がある。そこで止まって踵を返した。
ルカはウィスパーで問い詰める。
「ちょっと! 何で? 誰も来てないじゃない」
私は緊張していたが、どこか落ち着いていて、廊下の角から目を離さないでいた。
「来てます。すぐそこです」
「……」
ルカは緊張が伝わったのか二の句を繋げずに、少し前傾姿勢になりお腹を抱え後ろに隠れる。人間は本当に危険が迫るとヘソを隠す本能がある。自分の身を守るために急所を隠すためだ。私はゆっくりルカの肩を包み込むように触れ。
「深呼吸して、僕から離れないで」
ルカは黙って素早く何回も頷く。私は黙ってルカに深呼吸を促した。すーーー、はーーー。ルカは強い娘だ。普通の人間がこういう修羅場を経験することはないが、深呼吸を一回したとたんに目の奧に光を捉え、すーっと恐怖の色が消えていった。私はそれを確認すると、廊下の角に集中した。エントランスから差し込む光が角の下部分リノリウムの廊下が流れるように光っている。そこに影がゆっくりと浸食してくる。カツン、カツンと一定のリズムで何者かが近寄ってくる。そのリノリウムの光は影の浸食が大きくなって、現れたのは警備員だった。ルカは少し緊張が緩むのがわかる。私は駄目だと首を細かく横に振った。その瞬間には、警備員はそのまま通り過ぎていきそうだった。ルカはあまりにも自然な警備員の歩き方に安心しきっていた様子だった。すると突然ルカと私の間に警備員が割り込むカタチとなって、手に持った黒い機械を私に突きつけようとした。その刹那、流れるような所作で私の掌底が警備員の喉仏に深くめり込んだ。まるで、武道の演舞のように最初からこういう動きになると決められたような、スムーズな動き出しだった。
「かっ!…… かはっ!……」
警備員は苦しそうに倒れ込んだその手から黒い機械がこぼれ落ちた。私はそれを拾い上げた。
「行くぞ」
ルカは警備員の様子を心配そうに目をやりつつも、私と一緒にその場を離れる。
LOVEの赤いオブジェがある交差点を通り過ぎ、大きなビルの合間に伸びる道を歩く。
「ねえ、あの人って……」
「そうだ、プロだよ」
私はさっき拾った黒い機械をルカに見せ、スイッチを入れた。
バチバチバチッ! 金属の端子と端子の間に青白く小さな稲妻が通った。
「スタンガン…… プロだね」
「そうだ、あのビルの警備員と違う制服だった」
「いや、あなたがよ」
「え?」
「契約通り、私を守ってくれた」
「いつ、私は君と?」
「あなたが記憶喪失になった日」
「……そうか、やっぱり私たちは会っていたんだね」
「そして、私の名前はハルカ。石川・アシュリー・ハルカ。ルカじゃないよ〜」
「……知ってるよ」
「え?」
「さっき君から聞いたよ」
「はじめて下の部分だけ略された。ルカだって」
「あ、嫌ですか?」
「ううん、あはっ、有り。なんか、記憶喪失になると違う人になるのかな?」
「……それも、嫌ですか?」
「あははは、有り」
大きな公園。赤いグラデーションの空の下で、大きな噴水が白い水しぶきを上げている。私とルカは沈んだ太陽の方に向かって噴水を通り過ぎようとしたとき。
「今村さん! 今村さん!」
私たちに向かって大声をあげる若者がいた。
「やっとみつけましたよ! どこに行ってたんですか!!」
その男は朝宮英剛。私を担当する作業療法士だ。