唯の気持ち
私と姉さん、梨沙さん、修君とは小さいころから一緒にいることが多かった。
四人でよく遊んでいて、その中で修君は同い年で、一番身近にいる男の子だった。
そんな彼を意識しだしたのはいつ頃だったからだろうか、最初は対抗心みたいなものだったように思う。彼はいつも梨沙さんや姉さんを見ていて、私をあまり見てくれなかったし、そんな彼を二人とも可愛がっていた。
私もかまって欲しい。そんな小さな対抗心だ。
そんな対抗心も、学園に入学してから彼の異質さによって変わっていった。
ひたすら梨沙さんを追いかけている姿は狂気じみていたが、勉強でもスポーツでも同年代でここまでひた向きに努力する人はいなかった。
姉さんが一番前を歩き、その後を梨沙さんが歩いている。
二人とも遠い所にいて、私には届かない背中。
それなのに彼は梨沙さんの後を追いかけている。
一人残される私。
気がつけば、離れていく彼の背中に私の小さな対抗心は焦燥感へと変わっていった。
おいて行かれたくなかった。彼にまで置いて行かれたら私は一人になってしまう。
梨沙さんに囚われる彼と同じで、私も彼に囚われていった。
そんな彼の気を惹こうと私はピアノに没頭した。
ピアノは昔から姉さんも梨沙さんも上手いと褒めてくれる私の誇れるものだった。
そんなピアノを彼もよく聞いてくれた。立ち止まって振り返り、私を見てくれる。
その度に私は、更に彼に囚われていった。
もっと見て欲しい。私と一緒にいて欲しい。そんな気持ちが大きくなっていった。
この時にはもう私は彼のことを好きになっていたのだろう、気が付けば彼の事を考えるようになっていた。
高等部に進んですぐに私はオーケストラ部から私のピアノで協奏曲をしたいと誘われた。
不純な動機でのめり込んでいた私のピアノがそこまでの評価を受けていることに驚いたが、とても嬉しかった。
でもこの頃の彼は梨沙さんをより強く意識するようになって、私のピアノにあまり興味を持たなくなっていた。
私はどうすればいいのか分からなかった。
彼は関心がなくて知らないだろうが、彼は女子から結構な人気を集めている。
今までは、吉野家であることや私がいつも一緒にいることを気にして彼に近づこうとする女子はいなかった。
でも、恋愛に興味を持つだろう年頃になってくると彼に近づこうとする女子が出始めた。
特に高等部に入ってからは、上級生が彼に興味を持っているようだった。
何せ梨沙さんの弟だ。雰囲気も梨沙さんに似ている。幼さを残しながらも整った顔立ちをしていて、飄々としているそんな姿が上級生の女子に気に入られている。
梨沙さんばかり見てきた彼が有象無象の女子に興味など抱くことはないと思うが、万が一のこともある。
私は高等部に進んでから、彼の隣には私がいると主張するかのように、できる限り彼と一緒にいるようにした。
一向に振り向いてくれない彼をもどかしく感じながらも、いつかは、いつかはとそんな風に思いながら。
彼から姉弟関係が悪くなっていると聞いたときは良い機会だと思った。
梨沙さんも進路を考えなければならない時期であるし、なにより彼女は弟のことを愛している。彼が自分に固執していることを心配しているのかもしれない。
そういう思いもあって距離を取っているものだと私は考えた。
そんな彼を今日、私は一緒に帰ろうと誘い、公園で私なりに彼を諭したつもりだった。
あなたが同世代の人と比べてどれだけ優れているのかということ、あなたは梨沙さんじゃなくてあなたなのだということ、そして私の気持ちも。
でも彼はあさっての方向を向いたまま、あさってのことを口にした。
いい加減にして欲しかった。私がどれだけあなたに囚われているのか分かって欲しい。あなたが抱えている苦悩を私も抱えているのだから。少しでいいから振り向いて欲しい。
感情的になっていく気持ちとは別の部分で、気持ちを正直に伝えたところで今の彼は私を見てくれない。
そんな理性的な部分が、喉元まで出かける感情を声にならないまま押し戻した。
我慢の限界が近かった私はピアノを口実に彼を家に誘った。
私にしては結構強引だったと思う。でも感情的になっていた私は彼に聞かせたかった。
でもそれは間違いだった。
家にはなぜか姉さんがいた。
そのことに私は驚いたけれど、それ以上に私そっちのけで姉さんに話しかける彼の姿に驚いた。
姉さんは才色兼備という言葉が良く似合う人だ。吉野家の長女として立ち振る舞いを叩き込まれていて、人当たりが良い。そんな姉さんの周りにはいつも人が集まっていた。
そんな姉さんに私が勝てるはずがない。
姉さんに嫉妬する自分が嫌になる。
姉さんに会えたことは私も嬉しいはずなのに。
彼は私にこんな目を向けてくれない、興味を持ってくれない。なのに、どうして。
そんな風に考えてしまう。
どうしてこんなに上手くいかないのだろうか。
彼への思いや余計な感情を濁流で押し流すようにピアノ弾いた。酷い演奏だったと思う。
こんな演奏は人に聞かせられない。でも彼には聞いて欲しかった、知って欲しかった、私の気持ちを。
何曲か弾けば、心も落ち着いていって普段の演奏ができるようになっていった。
最後のほうは私も気持ちよく弾けたし、変な顔をしながらも良かったと感想を言う彼に、私の気持ちも落ち着いた。
姉さんが呼びに来てバーベキューが始まったが、姉さんに気を取られている彼の様子に私の感情もバーベキュー状態だった。
姉さんと久しぶりに会えたことの嬉しさ、昔みたいな雰囲気で食事をしている楽しい気持ち、姉さんに気を取られる彼の様子に嫉妬する気持ち、色々な感情がグリルの上で焼かれているようだった。
肉ばかり食べる彼に野菜も食べなよと言うが、彼は子供っぽいことを言う。
好き嫌いせず食べて欲しい。
野菜が余ってしまう。
きっと私と姉さんではこの量は食べきれない。
彼と梨沙さんの姉弟関係の話をしていたが、正直その話にうんざりしていた私は、興味本位で前から気なっていた恋愛のことを姉さんに聞くことにした。
私や彼にとっても何かきっかけになるかもしれない、そんな期待も込めて。
けれど、彼が明らかに動揺して姉さんがそれをからかい出し、聞かなければよかったとすぐに後悔することになった。
恋愛に対しては姉さんらしい考えだなと思ったが、彼の様子が気に入らない私はやけくそ気味になって、彼氏はいないの?と聞いてしまった。
吉野家から出て、姉さんも色々なことがあったと思う。
これほど完璧な女性を放っておく男性はいないだろう。
もしかしたら彼氏くらいいるのかもしれない。
すると、姉さんの表情に影が差したような気がした。
普段の姉さんなら見せない顔だ。姉さんをずっと見てきた私にはその影が気になった。
何かあったのだろうか。と思ったが、またも彼があからさまな態度で動揺するので姉さんの事より彼のことに気がいってしまった。
姉さんから逆に私たちの事を聞かれたとき、彼はいつもの様子で話すが、私は何も答えられなかった。
もう感情がぐちゃぐちゃだった。
姉さんは察してくれた様子で、お腹もいっぱいになったからと片づけを始めたので、私もそれに加わった。
グリルの上には焦げ付いた野菜が残されていたが、さすがにもう食べられない程だったそれを仕方なく私はゴミ箱に放り込んだ。
彼を見送って、家族で団らんしようとしていたら姉さんはそそくさと自室に戻っていった。
疲れたからと言っていたが、何か様子が変だった。
「どうして姉さんが戻ってくることを言ってくれなかったの?」
今日の事を両親に聞いた。姉さんが戻っている事を知っていればこんなことにならなかったのに。
「咲が言わないでって言ったのよ、唯が家のことを考えるのはまだ早いし、ビックリさせたいって」
とお母さんが言うが、そんなことを姉さんは最初言っていなかった。
姉さんは、お父さんとお母さんが唯にはまだ早い。と言ったはずだ。
私の中で疑問が膨らむ。
思えば今日の姉さんはどこか変だった。
なにが変だったかは私にも感覚でしかわからないが、今日の姉さんはいつも以上に張り付けたような笑みを絶やさなかった。
バーベキューで恋愛話をしているときの表情も気になる。
あの影の正体はなんだったのか。
そして今のお母さんの話だ。姉さんがそんなくだらない嘘をつく意味がわからない。
考えている様子の私を気にしたのか、お父さんが言う。
「まぁ咲の言うこともわかる。唯はまだ高校生になったばかりだからな、家の事を気にする必要はないんだ」
いずれその時は来るだろうが、今は気にする必要はない。そう付け加えて。
その時とはどういう時なのだろうか、姉さんがいれば家のことは大丈夫だと思う。私がこの家に貢献できることなど姉さんと比べれば些細なものだ。
両親と話し終えてシャワーを浴びた後、姉さんの部屋に行こうとした。
さっきから、ずっと感じている違和感を確かめたかった。
ただでさえ彼があんな様子で気分が良くないのに、姉さんまでおかしいなんて、このままだと私は眠れる気がしなかった。
直接話せばわかるかもしれないし、ついでに彼のことも相談してみよう。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると姉さんと出くわした。
その時の姉さんは明らかに異常だった。
顔は赤く、瞳は潤み、泣いているようにも見えた。
「姉さん?」
こんな姉さんは見たことがない。
驚きのあまりその場に立ちすくむ。
「ごめんね」
それだけ言うと直ぐにその場からいなくなってしまった。
驚きを通り越して混乱した私はしばらくその場から動けなかった。
我に返って自分の部屋に戻ったが、まだ頭が混乱している。
今日は色々な事がありすぎて精神的に疲れてしまった。
ベッドに横になるが、彼の事や姉さんの事が頭の中でグルグル回っている。
特にさっきの姉さんの様子が頭から離れそうにない。
姉さんとは話す機会がいっぱいあるし、急ぐ必要もないだろう。
そう言い聞かせるようにして、気持ちを落ち着けるように瞼を閉じた。