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灯台下暮らし  作者: 夜寝眩
25/25

水曜日

前話削除して書き直しました

平日とは違ったざわめきが満たす駅前の広場。

そのざわめきは、そわそわとした雰囲気を隠そうともしない。友人や知人に会いに行くのか、遊びに行くのか、それとももっと親しい人との約束なのか。

何にせよきっと僕の目の前を通り過ぎていく人たちには、それぞれ予定があって大半の人が楽しみにしていた休日のイベントに繰り出そうとしているのだろう。


唯との約束の日。

五月上旬とは思えない、初夏を思わせるような陽気と陽射しが白く舗道を照らし、風がほんのりと汗を乾かしていく。

僕はそんな駅前で待っている。眩しい光を避けるように俯きがちにして。

人の足が僕の目の前をどんどん通り過ぎていく。

そんな光景を無感情に眺めている。

ふと視線の先で二つの白いパンプスが止まった。視線を上げていく。

透明感のあるすらりとした足をのぞかせて、膝下まで伸びる淡い青色の布地のワンピース。

日の光が眩しくて思わず目をそらした。光が目になじんでやっと彼女と目が合う。

「おはよう修君。大丈夫?」

「おはよう唯。今日は日差しが強いね」

目を逸らした僕を気にした様子の唯に、僕はなんでもないような返事を返した。

昨日のドレス姿を除けば、しばらく制服姿の彼女しか見ていなかった。

新鮮な感覚。

でも今の僕には澄み切った空を思わせるようなその青は眩しく映る。

「そうだね。ちょっと暑いよね。夏には早すぎるよ……」

そういって少し照れくさそうにモジモジ。

「だよね……唯、その服似合ってるよ。今日みたいな日にぴったりじゃないかな」

「そ、そうかな。あ、ありがと」

「どういう反応なのさ、おもしろいなぁ」

昨日の舞台で見せた凛々しい姿はどこへやら、どこかぎこちなく微笑む唯に思わず、そう茶化してしまう。

「なによ……しょうがないじゃない、こういうの本当に久しぶりなんだから」

少しむくれて抗議してくるけれど、その声は尻すぼみになっていく。

「そうだね、こうやって二人で出かけるなんてあんまり無かったからね」

学園では何かと二人でいることが多いし、家同士のつながりもある。

けれどこういう風に待ち合わせて二人で出かけるという普通なことが逆に少ない。

「今日はどこに連れてってくれるの?」

期待に満ちた目で唯が見つめてくる。

「着いてからのお楽しみということにして、とりあえず電車に乗ろう」

唯を促し改札に向かう。行き先はもう決めてある。


新快速電車のシートに二人並んで座る。窓側は唯に譲って。

「修君、窓側じゃなくてもいいの?」

「唯、好きでしょ?窓側の席」

すると唯は少し恥ずかしそうにして、ありがとうとポツリとこぼした。

普段大人びているけれど、こういうところは子供っぽい。

というより、昔から変わらない。

それが悪いということではなくて、親しみを持って見ていられる。

まだ発車していないのに窓の外に目を向けて、窓ガラスにうっすら反射して見える純粋な微笑みが眩しい。

電車が走り出す。

――ガタゴト。

電車特有の規則的な音と振動が僕達を揺らす。

「こっち方面だと何だろう。三ノ宮?」

そう問いかけながら僕の顔を探るように覗き込んでくる。

「どうだろう。まだ出発したばっかりだよ」

焦らす僕に、むぅ、と唯は少し頬を膨らませる。

「そんなに知りたい?」

「うーん……」

「いや、そこ悩むの?」

「知りたいと言えば知りたいんだけどさ、知らいない方が楽しいような気もするし」

そう言って思案顔をする唯を見て僕は思わず笑ってしまう。

「まあ、そういう気持ちも分からくはないけどさ、とりあえず何も考えずに外の景色を楽しめばいいよ、少なくとも三ノ宮ではないからね」

「そうなの?うーん、逆にどこに行くのか気になっちゃうけど……」

昨日、舞台で多くの人を魅了する演奏をした女の子が今、呆れるほどどうでもいいことに頭のリソースを使っている。

そんな唯の様子を横目に、電車は淡々と走り続ける。

車輪の規則的な音が、彼女の小さな悩みをかき消すように響いていた。

やがて唯は、ふっと肩の力を抜いた。

「もういいや」とでも言うように、窓の外へ視線を移す。

見慣れた三ノ宮駅のホームに電車が停まる。多くの人がホームで待っていて、車内もガサゴソとドアが開くのを待つ人が多い。

そんな光景と音を尻目に僕達は静かに待っている。

新快速姫路行きの電車は停車駅が少ない。三ノ宮を出れば停車駅は片手で数えられるくらい。

唯はそのことに思い至ったのか、それまで窓の外の雑踏をぼんやり眺めていた唯が、はっとしたような表情でこちらを見た。

「どうしたの?」

こちらの問いかけに、唯はまた思案顔。

「ううん、なんでもない」

そう言ってまた窓の外に目をやった。その横顔は柔らかく微笑んでいる。

やがて車内に、ドアが閉まります。とアナウンスが聞こえてくる。

さすが休日というか、席に座れなかった人たちが通路まで立ち並んでいる。

こうしてシートに二人並びで座れて運がよかったと、そっと胸をなでおろししていると唯が僕の脇腹をつついてきて、座れてよかったねと微笑んでくる。

電車がまた走り出す。窓の外の見慣れた風景が速度を上げて流れていく。



私は電車の窓の外を眺めながら、実のところガラスに反射する彼の横顔をちらちらと見ていた。


今日、日が昇る前に目が覚めた私は、昨日の演奏会での疲労感が嘘のように消えていることに自分でも驚きつつ、彼と出かけることに対して、楽しみだとか嬉しさだとかを感じながら、そういう感情を持ってしまうこと自体に恥ずかしくなって、一人でベッドの上で体と心を起伏変転させた。

おおよそ人には見せられない変な運動をして正気を取り戻したころにはすっかり日が昇っていた。

身支度を済ませてリビングに行くと、植木さんが挨拶と共に迎えてくれた。

「皆は?」

「旦那様と奥様は予定がございましたのでもう出られました。咲様はまだ見ておりません。おそらくまだお休みになっているのではないかと」

お父さんとお母さんは忙しい。それは分かっているけれど少し寂しい。

そういえば昨日、姉さんは帰りが遅かったのだろうか?

自分は演奏会の疲れのせいか打ち上げの後、家に帰ったらお風呂に入ってすぐに眠ってしまった。

「姉さんは昨日遅かったのかな?」

「旦那様も奥様もお休みになられた後、私も休ませて頂きましたので詳しくは……」

「そうなんだ……」

姉さんは昨日、あの後どうしたのだろうかとふと気になった。演奏会後に姉さんと彼が食事に誘ってくれたのは覚えている。私はオケ部の人たちと打ち上げがあるからと断ったけれど、二人はどうしたのだろうか。

「唯様、朝食はどうされますか?」

行方不明になりそうな思考を植木さんの言葉が断ち切ってくれた。

「ああ、うん。食べるよ」

間の抜けた返事に植木さんが不思議そうな表情を見せたけれど、すぐにかしこまりましたと言って朝食の準備をするためにキッチンに向かって行った。

私はダイニングの椅子に座って静かに食事が運ばれてくるのを待った。変なことを考えないようにして。

待ち時間もほとんどなく、すぐ出てきた食事を終えた後、私は姉さんの部屋のドアの前に立っていた。

ドアをノックしようとしてはやめるを三回ほど繰り返した後ようやくドアをノックする。


返事は無い。


もう一度。


返事は無い。


まだ寝てるのかな……でも食事をとっている時に視界に入った時計の針は綺麗な直角を示していたし、あのしっかり者の姉さんがこんな時間まで寝ているのか。

生活リズムが狂うようなことはしないほうが良いだろうと、寝ているなら起こしてあげようと思って、いつもは感じない重さを感じさせるドアノブを回してゆっくりドアを開けた。

ただの暗闇が私を迎える。

カーテンは閉められて日は遮られ、照明は落とされたまま。ベッドも綺麗に整えられたままで、人がいた気配が感じられない。

嫌な考えが頭を支配しそうになる。私はポケットからスマホを取り出し、姉さんにメッセージを送る。


『姉さんどこにいるの?』

するとすぐに返信が帰ってきた

『友達の家にいるよ。ごめんね何も言わずに』

ほっと胸をなでおろした。私は何に安心したのだろうか、姉さんに何事も無かったことか、それとも。

また変な考えが脳裏をよぎろうとして思わず首を振った。

『よかった。寝てるのかなと思って部屋に行ったけどいなくて』

『急に決まっちゃったから……』

と姉さんはバツが悪そうに連絡するのを忘れていたと言う。久しぶりにこっちに帰ってきて友人と会ったらそういうこともあるのかと、そう思った。

とにもかくにも不安は消えた。頭を切り替える。今日は彼との約束の日。


自室に戻ってクローゼットを開ける。

並んだ服を見て何を着て行こうかなと考えたけれど、どこに行くか分からない状態で服選びをするのは難しい。

移動が多いのか少ないのかでも服選びは変わる。

ちょっと不満に思ってしまうけれど、そんな思いが彼と一緒に歩く様子を思い浮かべると簡単に反転してしまうのだから不思議だ。

無意識に口元が緩む。


ふと窓の外を見ると五月にしては元気が良すぎる日の光が部屋に流れ込んできている。きっと今日は暖かいだろうなと思ってスマホで天気を確認してみると案の定。

あきれるほど季節を先走った陽気だと天気予報が告げていた。ついでに一週間の天気も見てみると今日がこの一週間で一番気温が高いらしい。明日からは平均的な春のような気温になっている。

「なんで今日だけ……意味わかんない」

最近の四季の乱れに思わずぼやいて、これならもう夏服でもいいかもしれないと思いながらスマホをテーブルに置いて、またクローゼットの中とにらみ合う。

とはいえ五月に夏服というのも気が引けるなと、服をパラパラ見ていく。


空色が目に留まった。

今日の天気に良く合いそうなそれをハンガーラックから外す。

澄み渡る空のように柔らかい雰囲気のワンピース。

軽やかに揺れるロング丈の布地。袖は短く、ひらりと舞うようなフリルが肩先を包み、首元には控えめなラッフルとウエストには同色のリボンが結ばれ、過剰な装飾はなくシンプルなそれは今日にピッタリだと思った。

ワンピースを着て、姿見の前で左右に体を振りながら見栄えを確認してから自分の顔を見てみると、苦笑いを浮かべていた。

「これは思いっきり夏だよね……」

そうは言っても、心はもうこれと決まってしまった私は、このワンピースに合う小物をそそくさと選び始めた。


駅前で待ち合わせに着くとすぐに彼を見つけた。

下はすっきりとしたシルエットの黒のパンツ。白いシャツの上に春の曖昧な光を映すような、白寄りのライトグレーのジャケット。

余計な装飾はなく、とてもシンプルな装いの彼は何故かうつむき気味に待っていた。

なんて声をかけようかな、なんて思いながら近づくと、私に気が付いたのか、顔を上げて一瞬眩しそうにして目を逸らす彼に、私は声をかけた。



いくつかの駅を素通りした電車はあっという間に須磨の海景色が見えるところを走っている。天気がいいのも相まって、きらめく海が広がっている。窓側に座っている唯は、広がる海を楽しそうに見ている。

「こんな風に海を見るなんていつ以来だろう。すごい久しぶり」

すごく自然な独り言のようだったから、僕は何も言わずに窓の外に見ている唯を眺める。窓の外から海に反射した日が目に飛び込んできて、その眩しさに思わず目を細めると、唯の横顔が、似ている彼女と重なった。

「修君も?」

ドクン。

心臓が跳ねて、きつく目を閉じ残像を振り払う。

目を開けると、こちらを見ながら首をかしげる唯。不自然に見えただろうか。


「ああ――ごめん、日が眩しくて……そうだね、久しぶりかも」

そう言うと唯は、そっかと言い微笑む。チクリと何かが胸を刺す気がした。

「すごいよね、天気予報みたけど今日は五月が家出したらしいよ。明日にはちゃんと戻って来るらしいけど……意味わかんないよね。おかげで服選び迷ったもん」

そう言って唯は、軽い布地の空色ワンピースの膝部分を少し持ち上げて、少し不満顔をする。

「こればっかりはしょうがないよ――」

振り払ったはずの残像が脳裏をよぎる。


――似合ってるよそのワンピース。

待ち合わせ時に言った言葉を繰り返そうとして喉元で詰まる。

僕はどちらに向かってその言葉を出そうとしたのか。

「――夏の予行演習みたいに思えばいいんじゃない?駅前で待ってるときジャケット着てきたことちょっと後悔したよ。だから唯の判断は良かったんじゃないかな」

そう言うと唯は微笑みながら、

「そうかも。修君は天気予報見なかったの?」

「見ればよかった。まさかここまで暖かいというか、暑いとは思わなくて、昨日と今日でこんなに違うなんて想像もしなかったよ。ホント、どうなってるんだろうね……」

時計の針を巻き戻すように時間も巻き戻せたらならどれほど良いだろうか。

唯は困ったように頷いて、だよねと言って車窓の外に顔を向ける。

電車は速度を保ったまま、どんどん駅をすっ飛ばして海辺を進んで行く。本州と淡路島を結ぶ巨大なつり橋の下を潜り抜け、目的地はもうすぐそこ。



電車に揺られて大体三十分。駅のホームに降りると手を上にあげて自然と伸びをした。

大きく息を吸うと潮の香りがほんのりと鼻孔をくすぐる。

「潮の香りがするね」

そう言うと彼は首を傾けて、そうかな?と香りを探るように鼻で息を吸う。それでも私が感じた香りにたどり着けずに首の角度を強めた。

そんな姿に思わず笑ってしまう。

「ううん?感じるような無いような……海が近いとはいえ、ここまで届くかな?というか唯の反応がなんか思ってたのと違うけど。途中から気づいてた?」

「気づいてたというか、もう選択肢が明石か姫路くらいしかないじゃない。だからあんまり驚きがなかったってだけ」

そう言うと彼は、それもそうかと納得したような、それでいてどこか不服そうに首を傾けたまま変な表情をする。

「ここからどこに行くかは想像できる?」

気を取り直したようにして彼が聞いてくる。

「うーん、思いつかないかも。明石って来ようと思って来る場所じゃないような……」

言った瞬間、地元の方に少し失礼なことを言っているような気がして頭の中で頭を下げた。

頭を下げている自分がさらに「影薄いよね」と追い打ちをかけてくる。

失礼の二段構えを無意識のうちにしてしまった。

明石駅の近くには明石城と一緒に、まあまあ大きい公園があるのは知っている。

桜が綺麗らしい……という噂だけは聞いたことがある。

けれど今は葉桜。つまり、ただの木。

さすがにそんなところをブラブラするプランではないだろう。

城が目当てなら姫路城だろうし。駅のホームからでも見えるその公園には、城と表現することがおこがましいほど、ささやかな城壁が見える。

いつかみた姫路城と無意識に比べてしまって勝手に少し寂しくなってしまった。


閑話休題。


私が考えている様子を観察していた彼が、私の視線に気づいたのか補足してくる。

「ああ、近くに見える公園じゃないからね?」

一応、明石のシンボル的存在を、まさかの“公園”とういう一言で処理。

確かに公園だけれども。

せめて“歴史を感じる公園”とか“風情のある公園”とか、なんかこう、飾りを……。

「いや、もうちょっと言い方……」

思わず引きつった笑みが漏れる。

「え?じゃあ……“ちょっと大きめの公園”?」

「悪化してる……」

「じゃあ……“まあまあ頑張ってる公園”?」

「……」

※彼は冗談を言っています。



公園一つでこうして盛り上がれるのだから、たまにこういうところに来るのも悪くないと思う。

何より唯が、楽しそうに?しているのを見られたのだから上々だ。

駅のホームで一通り明石イジリをした僕達は駅を出て歩きだした。隣に並んで歩く唯も上機嫌といった様子。

「こっちに何かあったっけ?――あっ」

少し駅から離れたところで唯が何かに気づいたように声を上げた。

「わあ、懐かしいっ!初等部の頃きたよね?ほら、遠足だったかな」

唯がはしゃぎながら僕に振り返る。

「そうだね、僕もそれ以来ここに来てないから」


目の前には天文科学館。


あの日、唯に「どこ行くか考えて」と言われ、僕は自室のPC前で一人“脳内会議”を開催したのだった。

まずはカフェ案。

「カフェ?」

「いや、唯のあの圧。コーヒーじゃ無理でしょ。却下」

次、海。

「海?」

「季節が違う。却下」

映画。

「映画?」

「唯が観たい作品がわからない。外したら気まずすぎる。却下」

街ブラ。

「街をブラブラ?」

「ノープランの象徴。却下」

却下、却下、却下……

自分で提案して自分で却下するという、不毛な一人会議を延々と繰り返した結果、ようやく光が差した。


プラネタリウム。

暗くて、静か。寝ても問題ない。

癒しを求める唯に丁度いい。

「これだ……!」

その瞬間の僕は、まるで宇宙の真理に辿り着いた科学者のように満足していたように思う。


そして今、科学館のエントランスで上映時間を確認すると、あらかじめ調べていた通りの時間に上映されるらしくて心底ほっとした。

もし上映されてなかったら――詰み。

他の案なんて、未来の僕に丸投げしたまま放置していたのだから。

これが僕の悪い癖だ。

その時、「最善っぽい」案を見つけると、満足してしまう。

“もしもの時”を考える余力がない。

未来の僕に「なんとかしてくれ」と投げてしまう。

まあ、今回はなんとかなったけれど。

毎回、何事もなくいってくれればいいのだけれど……


上映時間までまだ時間がある。僕と唯はその時間まで科学館内の展示を見て回ることにした。

展示室に入った瞬間、唯のテンションがふわっと上がったのがわかった。

目がきらきらしている。

子どもが遠足で来たときのテンションを、そのまま大人サイズにした感じだ。


「見て見て、これ懐かしい!ほら、太陽系の模型!」

唯は僕の袖を軽く引っ張りながら、惑星がぐるぐる回る展示に張り付いている。

「そんなに懐かしい?」

僕が笑いながら聞くと、唯は胸を張って言う。

「懐かしいよ!初等部のとき、これ触っちゃダメって言われたのに、こっそり触ったもん」

「……」

苦笑いを浮かべる僕を見て唯はケラケラ笑いながら、隣の展示へ移動する。

僕も後を追うけれど、唯の進むスピードが微妙に速い。

まるで磁石みたいに次から次に展示物に吸い付いていく。

その様子が妙に可笑しくて、僕はつい笑ってしまう。


――チクリ。


「なに笑ってるの」

「いや、こんな唯を見たのが久しぶりでさ、楽しそうに素直な反応をするから」

「素直ってなに、それ褒めてる?」

「褒めてるよ。たぶん」

唯は「たぶんって何」と言いながらも、どこか嬉しそうにしている。


宇宙服のレプリカの前で「これ着たら似合うかな」と真顔で聞いてくる唯。


――チクリ。


重力体験コーナーで「月の重力なら私けっこう跳べる!」と謎の自信を見せる唯。


――チクリ。


隕石の展示を見て「これ落ちてきたらどうする?」と僕に無茶ぶりする唯。


――チクリ。


唯が楽しそうにするたび、僕の胸の奥で小さな棘が刺さる。

この痛みにどんな名前をつければいいのかわからない。でも、確かにそこにある。

でも今は、考えない。

考えたら、この時間が壊れてしまう気がするから。

唯が笑う。

僕も笑う。

胸の奥で、また小さく――チクリ。

それでも、僕は唯の隣を歩き続ける。

今はまだ。


上映時間が近づき、僕たちはプラネタリウムのホールへ入った。

薄暗い空間に、低く落ち着いた空調の音だけが流れている。

席に座り、リクライニングを目いっぱい倒す。

背中がふわりと沈み、視界いっぱいに天井の丸いドームが広がった。

まだ何も映っていない、ただの暗闇。

けれど、その暗闇が妙に落ち着く。

唯も同じように座席を倒し、僕の隣で小さく息をついた。

さっきまで展示室であれだけはしゃいでいたのに、今はすっかり静かだ。

「……」

静寂の中で自然と会話が途切れる。

暗闇の中、唯の気配だけが隣にある。

視線を向けなくても、そこにいるとわかる距離。

やがて、場内アナウンスが静かに流れ、照明がさらに落ちた。

空気がひとつ深く沈む。

そして――

星が灯った。

一粒の光が暗闇に浮かぶ。

その瞬間、場内の空気がふっと変わった。

星空が咲き誇る。

やがて、星々はゆっくりと回転を始める。

地球が静かに回るのに合わせて、宇宙もまた、ゆるやかに姿を変えていく。


最後に星空をちゃんと見たのは、いつだっただろう。

見ようと思えばいつでも見られるはずなのに、わざわざ立ち止まって空を仰いだ記憶がほとんどない。

目の前に広がる星空は、まるで僕の知らない世界みたいに綺麗だった。

光の川が流れ、無数の星がその中で瞬いている。

それは壮大なのに、どこか優しい。

圧倒されるのではなく、包まれるような感覚。


隣で唯が息をのむ気配を感じる。

気になって横目でそっと視線を向けると、唯は天井いっぱいの星を見上げたまま、目を丸くしていた。

光を映したその瞳は、まるで星空の一部みたいにきらきらしている。

その表情を見た瞬間――


――チクリ。


星々を巡り、流れるたびに、その光が僕の気持ちを照らし出すようだった。


さっきまで袖を引っ張って笑っていた。

その笑顔を思い出すだけで、胸の奥がまた痛む。


星空は容赦なく綺麗で、その綺麗さが、僕の心に刺さる棘を浮き彫りにするように感じる。


咲姉との関係。

唯の無邪気さ。

僕の曖昧な立ち位置。

全部、星の光にさらされて、逃げ場がない。

それでも、プラネタリウムの音楽は優しくて、まるで「今だけは考えなくていい」と言ってくれているようだった。

柔らかい音色が、星の巡りと一緒に僕の意識をゆっくり撫でていく。

星がまたひとつ流れた。

視界がぼやけていく。

音が遠くなる。

胸の奥の痛みも、輪郭を失っていく。

僕の意識は星の海にふっと沈んでいった。

静かで、優しくて、何も考えなくていい場所へ。



カーテンの隙間からわずかに光が差し込んでくる。

私はゆっくり体を起こして、まだ隣で寝息を立てている彼の顔を見る。

昨夜は無理をさせてしまった。

反省はしている。

でも後悔はない。

あれ以上自分の気持ちを抑えることなんてできなかったから。

だから彼を奪った。強引に。

彼も心の底から嫌だったわけではないだろう。最初は突然の事に戸惑っていたけれど。

それでも、私が必死に彼を包んで、溶かして、温めて、そうしたら彼も次第に私を受け入れてくれた。

途中からは彼も私を求めてくれたように思う。

純粋な愛情なんかじゃない、濁って、黒くて、醜くて。

それでもいい。今は。

彼の頬に口づけを落とす。


それに答えるように彼の瞼がゆっくりと開く。

「おはよう。修ちゃん」

焦点の合っていない瞳が私を見つける。

「……お、はよう」

かろうじて返された返事と共に戸惑いの表情が浮かぶ。無理もない。

「うん。今日、唯と約束があるんでしょう?そろそろ起きたほうがいいかなと思って」

そう言うと彼はおもむろに時計を見た。まだ余裕はあるだろう。

「ええっと、うん」

まだはっきりと目覚めていないような感じで曖昧な返事をしたと思ったら、何かに気づいたようにさっと目を逸らした。

さらけ出された私の胸元を見て逸らしたのがすぐにわかる。


可愛いな。


そっと彼の頬に手を添えてこちらを向かせる。

「ごめんね、修ちゃん。嫌だったよね」

微塵も思っていない形だけの謝罪の言葉を囁く。


これは彼のための免罪符。


「え、いや、ううん。嫌っていうか、驚いたっていうか……その、なんていえばいいのかな……」

彼の言葉に私は首を横に振る。

「いいの、修ちゃんは何も悪くないから。忘れてくれていいから」


――忘れてくれてもいい?そんな訳ない。

忘れるなんて許さない。忘れさせてあげない。

偽りの笑顔を浮かべて彼を促す。

「さあ、修君。準備しないと」

彼はまだ感情の整理がつかない様子で、ベッドから出てゆっくり準備をはじめる。


今日、唯と過ごせば、無意識にその姿の向こうに私が透過するだろう。

そしてきっと彼はまた、傷つくだろう。優しいから。

そうしたらまた包んであげよう。満たしてあげよう。何度でも。

優しく、心の隙間に溶け込むように。


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