火曜日2
「なんか疲れてる?」
そう聞いてくるのは、車の後部座席に並んで座る咲姉。
「うう……ん、うん?疲れてるって訳ではないけど……」
肯定なのか否定なのかどっちつかずな返事に咲姉が怪訝な表情を見せる。
「ないけど、なに?」
「いや、ないです」
疲れていますか?という問は、疲れてないよね?の意味だったらしい。
咲姉は微笑んでいるけど、目が笑っていない。結局のところ、僕にどうこう言う権利は与えられていなかったらしい。
日本語の難しさと肩身の狭さを同時に痛感した僕は、すぐさま答えを訂正した。
「そう?ならいいんだけど。今日は唯の晴れ舞台だからね、しっかりと見ておかないと」
僕の訂正を聞いた咲姉は満足したようにいつもの優しい微笑みで言う。
僕の周りにいる女性は個性が強いというか、我が強いというか。
なんと表現すればいいか分からないけれど、とにかく難しい。
少し油断して、何の気なしに言ったことや行動が、時折とんでもない方向に解釈されて彼女たちの感情をざわつかせてしまうことがある。
常に気を張っていることなんてできないし、不穏な空気を感じたらその都度対応していくしかないと諦めている。長い付き合いのなかで悟ったことだった。
これ以上、余計な蛇が出ないように藪を避けながら咲姉と会話するという神経を使う試練をこなしていると、窓の外に文化ホールが目に入ってきた。
スマホで時間を確認すると八時半を過ぎたくらいの時間で、まだまだ開場までには時間がある。
咲姉は唯と連絡を取っていたようで、会場では最終的な舞台のセッティングの確認や進行の確認、そして軽い音合わせが行われているそうだ。
やはり、当日は演者も裏方も忙しいのだろうということがわかる。
それでも唯からは『控室にいてくれていいよ。先生の方から警備の人に話しておいてくれるらしいから名前を言えば入れてもらえると思う』というメッセージが咲姉に届き、その画面を僕にも見せてくれた。
正直迷惑なのでは?と思わないでもなかったけれど、続けて送られてきた唯のメッセージには『ちょっと緊張してるから姉さんに会えると安心するかも』と割と乗り気な様子だったので、それなら行っても問題ないかと思った。
文化ホールに着き、関係者用の出入口付近で車から降りた。
飾り気のない関係者用と書かれた通用口に向かう。そこには警備員が立っていて、その人がこちらに気づくなり向かってきて「失礼ですが関係者の方でしょうか?」と声をかけてくる。
唯が話を通してくれたようで、咲姉が自分の名前と名乗るとすんなり中に入れてくれた。
ただ、その警備員が僕を見て「弟さんですか?お一人とお伺いしていたのですが……」
と少し戸惑った様子を見せていたので、唯は咲姉が一人で来るのだと思ってそう伝えていたのだろう。
警備員に言われて僕は少し中に入るべきか迷って咲姉に目を向けると「そうです。弟も一緒に来ました」と咲姉が間髪入れずに愛想のよい笑みでそう言って警備員から控室の場所まで聞いていた。話が終わると、警備員にお礼を言って躊躇う僕の手を引いて中に入って行った。
「咲姉ちょっと強引じゃない?」
「そうかな?あそこで事情を説明しても時間が無駄になるでしょ?別に無関係っていう訳でも無いんだし、警備員さんが勘違いしているならそれに乗っかった方が早くていいでしょ」
まぁ言わんとすることは分かるんだけれども、人を騙したみたいで若干気が引ける。
「修ちゃんが気にすることないよ。だって咲姉なんでしょ?私は」
前を歩く咲姉が僕の手を引きながら前を向いたままそんなことを言う。
「え?どういうこと?」
「なんでもないよ、ほら早く行こ」
疑問を投げる僕をおいてズンズン前に進んで行った。
控室の前に着くと、咲姉は迷いなくノックをした。
「唯、私だよ」
中から「どうぞー」という少し張った声が返ってくる。
ドアを開けて中に入ると、鏡台の前で衣装の裾を整えていた唯がこちらを振り向いた。
最初は咲姉の姿を見て、ふっと緊張がほどけたように笑みを浮かべる。
けれど、そのすぐ後ろに僕の顔を見つけた瞬間、目を丸くして固まった。
「……え、修くんも来たの?」
驚きと戸惑いが半分ずつ混ざった声。
「うん、咲姉に連れてこられたというか……」
僕が苦笑いしながら答えると、唯は一瞬だけ口元を押さえて、すぐに柔らかく笑った。
「そっか……でも、うれしいな」
その声は、さっきまでの張り詰めた空気を少しだけ和らげるような響きだった。
咲姉が「ほらね、来てよかったでしょ」と言わんばかりに僕の肩を軽く叩く。
唯は立ち上がってこちらに歩み寄り、僕と咲姉を交互に見ながら、
「二人が来てくれると、なんだか心強い。緊張、ちょっとほぐれたかも」
と、少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、僕も自然と「頑張って」と言葉が出る。
唯は「うん」と短く頷き、再び鏡台の前に戻って深呼吸をした。
すると咲姉が、当たり前のように唯の背後に回り、衣装の肩口や腰回りを軽く整え始める。
「ここ、ちょっとシワになってる。……はい、これでよし」
そう言ってから、今度は髪に手を伸ばし、前髪を指先でそっと整える。
唯は鏡越しに咲姉を見上げ、少し照れたように笑った。
「ありがとう、姉さん」
「今日は唯が一番きれいに見える日なんだから、ちゃんとしないとね」
二人のやり取りを、僕は少し離れた場所から眺めていた。
鏡の中で並ぶ二人は、血のつながり以上に強い絆で結ばれているように見えて、
その光景は、とても尊いもののように僕の目に映った。
今の僕と姉の間には、こんな穏やかでまっすぐな空気は流れていない。
言葉を交わす機会も減って、視線がぶつかるたびにどこかぎこちなくなる。
だからこそ、目の前の姉妹のような自然な距離感が、ひどく眩しく、そして少しだけ胸に痛かった。
唯は鏡台の前で深呼吸をひとつしてから、もう一度こちらを振り返った。
「そろそろ先生に呼ばれると思うから……二人とも、客席で待ってて」
その声は、さっきよりも少しだけ落ち着いていて、覚悟の色が混じっていた。
「うん、頑張って」
咲姉が迷いなくそう言い、僕もそれに続くように「楽しみにしてる」と言葉を添える。
唯は小さく頷き、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
控室を出ると、廊下には舞台袖へ向かうスタッフや演者が行き交っていて、その空気に混じるだけで、これから始まる本番の緊張感が肌に伝わってくる。
咲姉は案内表示を確かめながら、僕を客席へと導いた。
ホールの扉を開けると、まだ開場前の客席は静まり返っていて、ステージ上ではスタッフが最後の調整をしている。
照明の光が舞台を淡く照らし、客席のシートは整然と並び、これからここに人々のざわめきと拍手が満ちるのだと思うと、胸の奥がじわりと熱くなる。
咲姉と並んで席に腰を下ろす。
「唯キレイだったでしょ?」
「んえ?」
素っ頓狂な声を上げる僕を見て咲姉はクスクス笑う。
「……まぁ、その……うん。きれいだったよ」
少し視線を逸らしながら、声が自然と小さくなる。
自分でも何を照れているのか分からないけれど、口に出した瞬間、胸の奥がむず痒くなった。
すると隣の咲姉が、ふっと笑みを引っ込めて、わざとらしく前を向いた。
「ふーん……そう」
短くそう言って、前を向いた咲姉の横顔は笑っていない。
かといって怒っているわけでもない。
でも、なんとなく空気が変わったのは分かる。
「え……なに、その反応」
恐る恐る問いかけても、咲姉は「別に」とだけ返して、視線を舞台の方に向けたまま。
(いや、別にって……絶対何かあるでしょ……)
咲姉の方から聞いてきたのに、この反応は意味が分からない。
舞台の上ではスタッフが忙しそうに動いているのに、僕の頭は咲姉の機嫌の理由探しで忙しく動いていた。
場内が暗転し、ざわめきがすっと引いていく。
舞台袖から指揮者が現れ、軽く一礼すると、客席の空気が引き締まるのを感じる。
唯の姿はまだない。ステージ上にはオーケストラ部の面々だけが並び、譜面台の前で静かに構えている。
指揮棒が上がり、最初の一音が放たれた瞬間、客席に懐かしくも高揚感を誘う旋律が広がった。
――誰もが一度は耳にしたことのある、有名なRPGのオープニングテーマ。
勇者が旅立つ朝のような、胸をくすぐるファンファーレと、希望に満ちた和音の連なり。
金管が朗々と響き、弦が軽やかに駆け抜け、打楽器が物語の幕開けを告げる。
客席のあちこちで、思わず口元をほころばせる人の姿が見える。
僕もその一人だった。
音楽が描くのは、まだ見ぬ冒険への期待と、これから始まる物語の予感。
演奏がクライマックスに向かって盛り上がり、最後の和音がホールいっぱいに鳴り響くと、指揮者が腕を下ろし、静寂が訪れた。
拍手が湧き起こる中、舞台袖から新たな気配が現れる。
唯だ。
深い色合いのドレスに身を包み、背筋を伸ばしてゆっくりと歩み出る。
その姿は、さっき控室で見たときよりもずっと凛としていて、舞台の光を受けて一層輝いて見えた。
唯は指揮者と軽く視線を交わし、ピアノの前に腰を下ろす。
静かに深呼吸をひとつして、鍵盤に指を置く。
次の瞬間、弦の柔らかな和音が空気を満たし、その上に唯のピアノが、澄んだ水面に落ちる一滴のように音を重ねた。モーツァルトの協奏曲第20番。
軽やかでいて、どこか影を帯びた旋律。
モーツァルトらしい透明感と、胸の奥をそっと揺らすような深みが、ホール全体を包み込んでいった。
唯の指先が鍵盤を駆け抜けるたび、澄んだ音がホールの隅々まで広がっていく。
軽やかさと陰影が交互に現れ、モーツァルトの旋律がまるで生き物のように息づいていた。
僕も咲姉も、ただその音に身を委ね、瞬きすら惜しむように舞台を見つめていた。
時間の感覚が薄れていく。
音楽が終わらないでほしいと願う気持ちと、次の一音を早く聴きたいという焦りが同時に胸を満たす。
唯の表情は真剣そのもので、けれどどこか楽しげで――その姿に、僕は息をするのも忘れていた。
最後の和音がホールいっぱいに響き渡り、静寂が訪れる。
ほんの一瞬の間を置いて、万雷の拍手が押し寄せた。
その音に包まれた瞬間、僕はようやく現実に引き戻される。
隣を見ると、咲姉も同じように舞台を見つめたまま、ゆっくりと手を叩いていた。
「……すごかったね」
僕が小さくつぶやくと、咲姉は舞台に顔を向けたまま微笑んだ。
「うん。唯、あんな顔で弾くんだね。私、知らなかった」
「なんか……音が、唯らしかった。優しいのに、どこか芯があって」
自分でもうまく言葉にできない感覚を、必死に探して口にする。
咲姉は少し目を細めて僕を見た。
「修ちゃんがそんなふうに言うなんて、唯が聞いたらきっと喜ぶよ」
「いや、別に……素直にそう思っただけ」
照れ隠しのように視線を逸らすと、咲姉は小さく笑って、また舞台に目を戻した。
拍手はまだ鳴りやまず、唯は何度も深くお辞儀をしていた。
ふと隣を見ると、咲姉は、何かを噛みしめるように小さく息を吐いた。
それはため息とも、微笑ともつかない曖昧な吐息で、胸の奥に押し込めた感情が一瞬だけ漏れ出したようだった。
誇らしさと安堵の感情なのか。瞳の奥に説明のつかないざらつきが入り混じった色が、かすかに揺れているような。
客席の薄明かりに照らされた横顔は、影を帯びながらも微かに震え、その揺らぎは、舞台の上の光景とは別の何かを静かに語っているようだった。
その揺らぎは、唯の音色に触発されたものなのか、それとも別の何かに向けられたものなのか、僕には知る由もなかった。




