火曜日
枕もとに置いてあったスマホの着信音が鳴る。
僕の意識は強制的に夢世界から現実に引きずり上げられ、半ば反射的にスマホを手に取り画面を開いてタップする。
「おはよう修ちゃん。迎えに行くね」
耳に当てたスマホから聞こえる声は咲姉ものだった。
一体何の話か目覚め切らない思考が追い付かない。
なんの返事もしていない僕を置き去りにして次の瞬間にはスマホから、プツリ。ツーツ――。
一方的に電話を切られた。眠気で目をパシパシさせながら枕元のデジタル時計を確認すると、まだ朝の五時。
一体何事か?
ぼーっとデジタル時計を見ていると、それが示す曜日が火曜日となっていたことでやっと咲姉の言葉の意味を理解した。
今日は演奏会の日だ。唯の、というと語弊があるけれど、唯の晴れ舞台であることに間違いはない特別な演奏会。
なのだが・・・・
「咲姉、はりきりすぎじゃない?」と真っ黒な画面のスマホにむかって小声で愚痴をこぼした。
今朝は昨日の雨の影響か、少し肌寒い。
ふかふかの布団にくるまって寝るにはこのくらいが丁度いいのだけれど・・・・・。
さすがに先ほどの電話の後に二度寝する気は無くなってしまった。
とりあえずメッセージで咲姉に何時に迎えに来てくれるのか聞いてみたものの、待てど暮らせど既読スルー。
ちょっと前に妙な圧で僕に「メッセージ無視したの?」などと聞いてきた同一人物とは思えない所業。
しかし既読スルーとはいささか穏やかではない。なんとなく嫌な予感がするものの、とりあえずいつ来ても良いように身支度を整えて待つことにした。
洗面所で顔を洗ってリビングに向かう廊下の途中で、玄関の方からガチャリと音が鳴り驚く。
一体何事か?
僕は慌てて方向転換して玄関に向かうと、すでに人が玄関の中にいた。
「咲姉・・・・」
「おはよう修ちゃん」
さも当然かのように朝の挨拶をする咲姉だが、僕はあっけにとられて何も返せない。
そんな僕を見て不思議そうに笑顔のまま小首を傾げる咲姉。
僕の頭の中は「なぜ?」でいっぱいになっている。
「咲姉・・・・鍵は?」
多くの疑問の中でとりあえず出てきた一番の疑問を口にする。
「ああ、母さんが陽子さんから預かっていたの。それを借りてきたよ」
「・・・・・」
いやプライバシー・・・・。そういうことは僕に一言言うべきではなかろうか。母よ。
心の中で陽気な母に文句を言ってみると、その本人は『あら、言ってなかったかしら?まぁいいじゃない』と全く悪ぶれる様子がない。いや、きっと現実でも同じようなことを言うに違いない。そういう母だ。
心の中で、ため息混じりに母に悪態を吐いている間の沈黙を、何やら変な方向に解釈した咲姉が不穏な気配をにじませて言う。
「なにかまずい事でもあった?」
「いや、そういう訳ではないんだけど・・・・」
そう返すと咲姉は「そう、じゃあ上がるね?」と笑顔のまま有無を言わせぬ雰囲気で言う。朝から急加速する展開についていけない僕を置いてけぼりにして、咲姉はさっさと靴を脱ぎ、僕の隣を抜けて階段を上がって行く。
階段??
まって欲しい、なんで二階に上がる必要があるの?
一切の迷いなく二階に向かって行く咲姉に驚き、反応が遅れた僕は躓きそうになる思考と足を動かして咲姉を追った。
「ちょ、ちょっと」
返事もなく黙々と階段を上がっていく咲姉。
「ね、ねぇ咲姉。なんで二階に行くの?」
「何か困るの?」
振り向く素振り一つ見せずに言う咲姉に気圧される。
「い、いや困るとかじゃなくて・・・」
困るとかじゃない。ただ意味が分からないだけなんだ。
朝一から怒涛の展開に全くついていけない。
わなわなする僕が咲姉の後をついて行く恰好になっている。ここは僕の家なんだけど・・・・
そしてやはりというべきか、僕の部屋の扉の立った咲姉は躊躇なくドアを押し開けた。
ずかずか、と表現した方がいい足取りで僕の部屋に入った咲姉は思春期男子の部屋を何かを探すかのように見回している。
いや、プライバシー・・・・。従姉とはいえ少しは僕を尊重して欲しい。
そうして、ひとしきり部屋を見回した咲姉が変なことを言う。
「うん、修ちゃんのにおいがする部屋だね」
「はい?」
そりゃ僕の部屋ですからね・・・。僕のにおいってなに?
「どういうこと?さっきからというか、朝から変だよ?咲姉」
理解できない行動をする咲姉に正気を疑ってしまう。なんだか僕の知っている咲姉ではないようで少し怖い。
それを聞いた咲姉は僕を視界に捉えて、僕の疑問に答えるでもなく、ずいっと僕に近づいてきた。ビックリした僕は思わず部屋の外、廊下の壁に背中をぶつけるようにして後ずさる。
目を白黒させる僕を無視して咲姉はまた距離を詰めると、何を思ったのか僕の胸に顔をうずめてくる。そして腕を僕の背中と壁の間に手を滑り込ませて少しかがみ気味に抱き着く恰好になる。
「ぁぇ・・・え・・・さきねえ?」
突然の行動についに思考が停止する。
「うん。修ちゃんのにおいだね」
「・・・・・」
そう言って僕に抱きつく咲姉。
思考を再開するも、やはり理解できない。咲姉大丈夫?
警官に「手を上げろ!」と言われて咄嗟に両手を上げたような状態で行き場を失っている両手をどうすべきか考える。
あきらかにおかしい行動。
どのくらいそうしていただろうか、そんなに時間はたっていないと思うけれど、体感時間はかなり長く感じる。結局上げた両手は何も掴むこともなくそのまま宙を漂わせたままだった。
なんの前ぶりも無く、そっと僕から離れた咲姉は朗らかな笑みを浮かべている。
「どうしたの?咲姉。何かあった?」
「ううん、なんでもない。久しぶりに修ちゃんの部屋に来てちょっと気持ちが高ぶっただけ」
「はい?」
そんなことより、と咲姉。
「修ちゃん朝ごはん食べた?」
急加速と急減速の展開に翻弄されながら、素直に「まだ食べてないけど」と答えると咲姉は「じゃあ作ってあげる」とまたもや僕を置いてけぼりにして階段を下りて行った。
そしていつぞやの夕食のように僕はダイニングテーブルの椅子に座らされている。
この前と違うのは、咲姉に座っていてと言われて素直にそれに従ったことだ。
同じ轍は踏むまいということである。
大人しく座って待っているといい匂いが漂ってくる。味噌汁のにおいだとすぐわかる。
ジュー、という音は卵焼きの音だろう。
そうして音が鳴りやむと、少しして咲姉がお盆に料理を乗せて持ってきてくれた。
この前咲姉が来てくれた時に炊いたご飯を冷凍したものを解凍したもの、お揚げと豆腐の味噌汁、卵焼きと漬物。
朝食として丁度いい量のメニューだった。
そんな料理を僕の前に置き、咲姉は隣の椅子に座った。
僕は隣に座った咲姉に視線を送り、
「どうしたの?咲姉」
なんか今日は、「どうしたの?」が多い。
「ん?正面に座っていると気になるんでしょ?だから私はここ」
「・・・」
いや、そこも気になります。
作ってもらった手前、どうこう言える立場ではないのはわかっているのだけれど。
「えっと・・・・ソファでテレビでも見ててくれてもいいよ。僕の事を見てても何も面白くないでしょ?」
「ダメ?」
「えーっと、ぇー、いや、ダメって訳ではないけれども・・・」
「じゃあ問題ないね」
ささやかな抵抗はむなしく散った。いや、そうなるとは思ったけれども、今日の咲姉の意味不明な行動と強引さは何なのか。
僕はそんな疑問を咲姉が作ってくれたごはんと一緒にもくもくと飲み込んでいった。
咲姉の視線を一身に受けながら朝食を食べ終えた後、僕はリビングのソファに身を預けている。
今は咲姉がキッチンで後片付けをしている。
朝からどっと疲れた気分でソファに沈み込む体から力が抜けていく。
テレビに映るどうでもいいニュースをぼーっと眺めながら時間が過ぎていく。
少し眠りかけていたのかもしれない。
ソファの前のテーブルからコトリと音がして隣に咲姉が座るのに気づき、目を向ける。
「修ちゃんは甘めのやつでいいんだよね」
デジャブ。
はい、といって咲姉がテーブルに置かれたマグカップを指す。僕はありがとうと言い、それを手に持つ。が、一抹の不安が脳裏をよぎり、少しだけ、舐めるようにコーヒーを口にした。
「・・・・・・咲姉、苦いよ」
そう言うと咲姉はちょっと残念そうにして、
「ああ、ごめんごめん、色が同じだから間違っちゃった」
とこれまたデジャブである。
変なところが似ている姉妹だなとひとつため息をこぼすと、咲姉から入れ替えるように差し出されたコーヒーを口に含んだ。
「っ苦!」
恨めしく咲姉を見ると、今度の咲姉はイタズラが成功して、満足といった様子でクスクス笑っている。
まさか二つとも砂糖が入っていないとは思っていなかった僕は、不意を突かれた。
いや、こんなところで妹の上を行く必要はないだろうに。
「っふ・・・ふふ、ごめん、ごめん・・・・っふふ・・・・はぁ、おもしろい。こんなに素直に引っかかってくれるなんて・・・っふふ」
「楽しそうでなによりだよ」
ふてくされる僕に咲姉は笑いを堪えるようにして「ごめんごめん」と言ってくる。
諦めた様にため息をこぼして、砂糖を入れに行こうと立ち上がろうとした時だった。
「修ちゃん、昨日買い物行った?」
何気ない咲姉の一言が、浮かせようとした腰をソファに縛り付ける。
隣の咲姉に目を向けると、咲姉と目が合う。その瞳には僕が映っているのだろうが、咲姉が視ているは僕ではない何か。そう感じさせるような少し虚ろな目で僕を捕らえる。
「・・・・うん、まぁ、ちょっとね」
「そっか、私が来た時とは違うものが冷蔵庫の中に入っていたから、ちょっと気になってたんだよね。自炊しようと思ったの?でもその割には少し物足りないような。漬物を買い置きしておくのはいいアイデアだとは思うけど」
「でしょ?漬物はおかずとして優秀だからね。僕にしては良い判断だと思うんだ。ちょうど昨日買った材料をさっき咲姉が料理してくれたでしょ?味噌汁とかなら入門としてはいいかなって思うんだけど咲姉はどう思う?」
不穏な空気を纏う咲姉に、僕は質問に質問を返す。
咲姉が一瞬何かを考えて、少し空気が和らいだ隙に僕は立ち上がる。
「あっ」と咲姉が何かを言いたそうにしているのを気づかないフリをしてさっさとキッチンに向かって歩き出す。
立ち上がる時に横目でちらりと見た咲姉は少し驚いたように目を見開いて僕を見ていた。ような気がする。
「そうだね、あれくらいから始めるのは良いかも。でも、言ってくれれば一緒に料理して教えてあげ
られたのに」
妙な声音で咲姉が言う。歩く背中に冷たい何かが突き刺さっているように感じるのはきっと気のせい。
「今日は朝からバタバタしてたでしょ?咲姉の様子もなんだかいつもと違うみたいだったし、大人しくしておくのが良いかなって」
僕はキッチンに向かって歩きながら振り返らずに背中越しに咲姉に言葉を返した。
キッチンにたどり着くと、咲姉に背中を向けたままキッチンカウンターにコーヒーを置いて、戸棚からスティック砂糖を一本取り出し、口を切ってそろそろと自分のコーヒーに注いでいく。
半分くらい入れ終わったところで味見をする。
苦みは感じるけれど、程よい甘さを感じる。いつもなら一本丸ごと入れてちょうどいいくらいだったけれど。
リビングに背を向けたままキッチンカウンターでしばらく味見をするようにして時間を使い、背中に感じる妙な冷気が和らぐのを待った。
少ししてリビングを見やると、咲姉はコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。テレビ映るのは朝のニュース番組。咲姉はぼーっとというか、無機質な表情でその画面を見つめているようだった。
なんとなく戻りづらい空気になったなと感じた僕はキッチンから咲姉に話かけた。
「咲姉。何時頃に出発するの?」
僕の声が聞こえた咲姉は、はっとした様子でテレビの画面から僕の方に顔の向きを変え、微笑を浮かべながら答える。
「開場は十時からだけど、どうしよっかなぁ」
そう言って何か考え出す咲姉。僕はテレビの画面に表示されてある時刻を確認する。まだ七時半だった。
まだまだ余裕があるなと思っていると、
「ちょっと早く出て、唯の様子でも見に行く?」
そう言うのだった。




