月曜日
昨日は味気ない冷食を作業的に胃に押し込んで、眠りにつくまでの間、色々と考えた。
自分の事、姉の事、そして吉野家の事。
ジグソーパズルを一つ一つ埋めていくかのような作業を延々と頭の中でやっていた。
でも大事なピースが見つからない。見落としているのか、無くしたのか、そもそも無かったのかもしれない。いずれにしてもそのピースのありかは彩音さんが知っているような気がした。
ピースそのものを入手する必要は無い。それがどんなものか、ヒントさえあればそこからジグソーパズル全体がどんなものなのか想像できるはずだから。
だから本当は彩音さんでなくても良いのかもしれない。それこそ身内がそれを知っている可能性の方が大きい。父や母、姉や咲姉、唯でもいいのかもしれない。
けれど、それをどう表現すればいいのか自分でも分からない。
人に落とし物が無かったか尋ねるときには当然“何を落としたのか”を伝える必要がある。けれども今の僕にはそれが説明できない。「財布を落としたので探すのを手伝ってください」ならそれを聞いた人は手を差し伸べてくれるかもしれない。でも、「何を落としたのか分からないけど手伝ってください」などと言えば「こいつは大丈夫か?」となるのと一緒だ。そんな無様を身内にさらすことなんて僕にはできなかった。
だからなのだろうか、少しの焦燥と何かにすがるような気持ちを抱えて、昨日と同じ場所で人を待っている。
「だーれだ」
綺麗で軽い声が後ろから聞こえ、暖かくて柔らかいものが僕の視界を奪った。
「なんのつもりですか彩音さん」
視界が開けて後ろを振り向くと頬を少し膨らませた彩音さんが立っていた。
「反応が悪いなぁ、もう少しいい反応を期待したのに」
「なにがしたいんですか・・・」
出会って早々、意味の分からないクレームに困惑と呆れが同時にやってくる。
そんな僕を見て彩音さんは頬に人差し指を当て、何かを考える仕草をした後、よくある定型文を口にした。
「ごめんね、待たせたかな?」
そう言われた僕は、ポケットからスマホを取り出し時間を確認する。僕の行動に目を白黒させている彩音さんに事実を告げる。
「そうですね、大体十五分くらい待ちましたね」
そう聞いた時、彩音さんは一瞬きょとんとした様子を見せた後、なぜか笑った。
「っふふ、そうだね、君はそういう人だよね。いやぁ相変わらずおもしろいよ」
この人の感性はいったいどうなっているのか。
「何が面白いのか僕にはわかりませんけど、彩音さんがおかしいのは何となくわかります」
「へぇ、私のどこがおかしいのか是非聞いてみたいけど、とりあえず行こうか」
そう言って彩音さんは上機嫌に歩き出す。行き先も告げずに唐突に歩き出す彩音さんに、今度は僕が白黒させられる。さっさと歩いて行くその姿に、昨日の自販機でのやりとりを思い出す。
今日も上手く転がされるのかと少し憂鬱とした気分になりながら、彩音さんの背中を追って歩き出した。
僕が彩音さんの背中に追いついくと、彼女は歩きながら振り返り、微笑を浮かべながら手を差し出してくる。
「手でも繋ぐ?」
突拍子もないことを言い出す彩音さんに眉をひそめる。
「何故です?」
「君が不安そうにしてる気がしたから」
それはどのことについてだろうか。行き先が分からないことに対する不安か、あるいは。
「せめて行き先くらい教えて欲しいです」
そう言うと彩音さんは急に足を止めた。すぐ後ろを歩いていた僕は、突然のことに勢いを止められず、そのまま彩音さんにぶつかった。
彩音さんはそんな僕を抱きとめるようにして僕の背中に手を回した。
はたから見れば抱きしめられていると表現した方がいい状況。
白昼の街中でこの人は何をしているのか。混乱すると同時に、なぜか力が抜ける。
「君は素直じゃないから。まあそこが面白いところでもあるんだけどね」
そう言って僕の背中をぽんぽんと優しく叩き、離れる。
僕は硬直したまま彩音さんを見つめる。
彩音さんは何でもなかったかのように「さあ行くよ」そう言って僕の手を引いて歩き出す。
戸惑う僕はそれでも彩音さんの手を振りほどく気にはなれなった。
彩音さんは人通りの多い場所からどんどん離れて行く。
気づけば港に近い、潮の香りがする場所に来ていた。
彩音さんはそんな場所にある、名の知れたホテルに入り、当たり前のようにエレベーターに乗り込んだ。
その時になってようやく解放された手にほっとしながら、自分の熱ではない熱が失われたことに少しの寂しさを感じた。
そしてエレベーターから降りて着いたのは、最上階の港が見通せるホテルのラウンジのような場所だった。
僕達がそこに入ろうとすると、それを見つけた受付の人が彩音さんに近づいてきて「ご案内します」と一言だけ言い、僕達を先導し出す。彩音さんは人当たりのよい笑みを浮かべて頷き、それに続いた。
ラウンジの中にはそれほど人がいる訳では無かったけれど、僕たちは他の人とは離れた場所に案内された。目の前がガラス張りで港を一望できるカウンターのような横並びの席。
隣に座った彩音さんがウェイターからメニューを受け取ってそれを見ながら言う。
「ここは会員制のラウンジでね、昼はカフェで夜はバーになるの。まあ、あまり外に出したくない話をするのに向いている場所って感じかな」
話した後、どうでも良さそうな感じでボソッと付け加える「うちには筒抜けになっているんだけどね」
おそらく九宝院家の情報源の一つになっているのだろう。
「私はカフェオレにしようかな。さて、吉野君は何を飲む?」
彩音さんは小首をかしげながら僕にメニューを渡してくる。メニューには色々な種類のコーヒーや紅茶が書かれてあった。なぜか値段は書かれていない。
僕も普段はカフェオレくらいしか飲まないから何が何やら分からない。
甘くてコーヒーの風味が楽しめればいいと思いカフェオレを頼もうとも思ったけど、なんとなく彩音さんと被ることに抵抗を感じた僕は、いつもとは違うキャラメルラテを注文することにした。
「甘いのが好きなの?」
「そうですね。苦いのは苦手というか嫌いな部類に入ります」
「そっか、私も嫌いって訳ではないんだけど苦手かな。そういうのって大人になるとなれるものなのかな」
「どうでしょう。人によるんじゃないんですか」
そう言うと彩音さんは「それもそっか」と相づちを打って会話が終わってしまう。気の利いた言葉が出てこないというのもあるけれど、今は彩音さんと親交を深めるためにここにいる訳じゃない。彩音さんは気にした様子も無く、ガラスの向こうの港を見つめていた。
お互いに何かを話すわけでも無く、しばらく無言の時間が続いていたけれど、港を出入りする船を眺めながらゆったりとした時間が流れていた。
結局、注文したものが届くまで会話は無かったけれど、その状態でも苦痛になることは無かった。
彩音さんはおそらくこうなるだろうと予想して僕達をこの席に案内されるようにしたのかもしれない。
頼んだものが届くと彩音さんが一口飲む。それを見て僕も一口飲んだ。
美味しい。コーヒーの風味がしっかり感じられて、キャラメルの甘みもちょうどいい。
「おいしいです」
それを聞いた彩音さんは屈託のない笑みを浮かべてこちらを見て「良かった」と言う。
「さて、吉野君が知りたいことについて話をしようか」
その言葉を皮切りに彩音さんの纏う空気が変わった気がした。
「私はね、一度梨沙さんを怒らせたことがあるんだよ」
「—――・・・姉さんを怒らせた?」
姉は冷静沈着で、感情を表に出すことは珍しい。最近は僕と姉の間によくわからない壁のようなものがあって姉が不機嫌そうにすることはある。それでも怒りを露わにしてくることは今まで一度も無い。僕の人生で一度だってそんな姉を見たことはない。
「まあ、私が迂闊だったことが原因なんだけどね、あることを梨沙さんに言ったんだよ。それが梨沙さんの逆鱗に触れたんだね。きっと」
まっすぐとガラスの向こうの港を見つめながら、どこか遠くを見るようにして「冗談のつもりだったんだけどね」と言う。
「何を言ったのかは聞かないでね?」と遠くにあった視線を僕に向けて言ってくる。多分そこを追求したら話を打ち切られて終わってしまうだろうと感じ取れる重みがあった。
僕が何も言わずにただ首を縦に振ると彩音さんは再びガラスの向こう側に視線を戻した。
「私はね、感覚で生きてきたんだよね」
それと姉を怒らせた話に何の関係があるのかと、訝しげに彩音さんを見ていると彩音さんは口元を少し綻ばせながら横目で僕の表情を見てくる。
「まあ聞いてよ。自慢のように聞こえるかもしれないけど、私って昔から何となくの感覚で大体の事が出来ちゃうんだよね。それは勉学とかスポーツとか色んなことに当てはまる事だった。人と接するときも話していると相手が考えていることが何となく分かっちゃう」
僕の脳裏に姉と咲姉の姿が浮かんだ。ああ、この人も天才なんだとすぐ理解した。
「だからかな、よくわからない事があるの。なんで皆はわからないんだろうって」
哀愁さえ感じるような声音で言う。
「話は戻るんだけど、初めて梨沙さんと学園で話すことがあって、でも梨沙さんが何を考えているのか分からなかったの。こんなこと今まで無かったことだったから興味が湧いた。だから梨沙さんの奥の方にある何かを引っ張り出そうとして余計なことを言ったんだ」
いまいちピンとこない抽象的な言い回しに焦れた僕は結論を急かした。
「それでどうなったんですか?」
彩音さんが真顔でこちらを向きいう。
「消されそうになったよ」
「—・・・は?」
物騒な物言いに唖然とする僕見て、なにが可笑しいのか彩音さんはクスクス笑い、またガラスの向こうに目を向けた。
「まぁそういう反応になるよね。でも事実だよ。私は消されかけた」
理解が追い付かない僕を置いて彩音さんは話を続ける。
「私ってサッカー部のマネージャーをしてるでしょ?今はアドバイザーみたいな立ち位置にいるけれど、一年の頃から私は感覚だけで色んなアドバイスをしてきたんだよ。先輩達は良く思っていなかっただろうね。もちろん気づいていたよ。でも何も言ってこなかった。私の言う通りにすれば結果が出ていたし、九宝院って名前にも気を使わざるを得なかったから」
ガラスの向こうを見つめる横顔からは、彩音さんの感情を読み取ることは出来ない。
「だからサッカー部という場所は私にとって楽しい場所だったんだ。自分の感覚だけで周りを動かして結果を出すっていうことが楽しかった。・・・でも、梨沙さんの逆鱗に触れてそれが一変した」
彩音さんが言うには、当時、サッカー部ではAIやアプリなんてものは使っておらず、自分の感覚だけでサッカー部の色んなことに口出しをしていたようだ。
でも姉がどこからともなくAIやアプリに詳しい外部生を引き連れてサッカー部にやってきて全部変えていったそうだ。
ゾッとする話だった。
姉は裏で主要なサッカー部の人たちと仲良くなり、コーチや監督なんかとも気軽に話ができるような関係性を築いたようだ。それも、察しのいい彩音さんが気づかないように。
気づいた時には外堀は完全に埋まっていた状態で、姉の変革を皆快く受け入れていったらしい。
「怖かった」と言うわりには何故か笑顔の彩音さんが僕の方を見ながら聞いてくる。
「吉野君はそんな梨沙さんを見たことある?」
「・・・・ないです。でも、消されるって表現はよく理解できていないんです」
「そっか、想像してみてよ、それまで私の言動に動かされていた人たちが私の事を視界にすら入れなくなったの。その時確かに私は消えていたんだよ。皆の中からね。いろいろ口出しをする私に対する不満。梨沙さんはそこを突いてきた。でも梨沙さんは最後にシステムに穴をあけてくれた。『こういう部分は彩音に任せたほうが良い』って言ってね。それは間違いなく私に対する最終通告だった。言外に“次は無い”って伝わってきたよ」
自分が知らなかった姉の一面を知らされて正直驚いた。姉が感情に流されて人を陥れるようなことをするとは想像もしていなかったからだ。
でも、本当に大事なことは彩音さんが“何を言った”のかだ。冷静沈着で物事を俯瞰してみることが出来る人を激情にからせるような事。それがきっと核心的なところだ。姉の逆鱗はどこにあるのか。それを知れば僕が見つけられていないパズルのピースが見つかるような気がする。
でも彩音さんは。
「言わないよ」
僕の考えを見透かしたように彩音さんが牽制してくる。僕は何も言えずにただ彩音さんに視線を送る。
「ねえ、吉野君。君はなんでそこまで梨沙さんのことが知りたいの?」
「・・・それを言わないといけないんですか?彩音さんは核心を言わないのに」
「言わなくてもいいよ。さっき言ったでしょ。大体わかるって」
この人は。
「君はね、本当は梨沙さんから離れたがっているんだよ。わかっているんでしょ?本当は」
どこまで。
「でも、離れたくても離れられない。だから、梨沙さんを追いかけることを諦めるための理由を必死になって探してるんだよね?」
易々と僕の内側に入り込んでくるんだ。
「君は梨沙さんのようには絶対なれない」
そんなことは分かっていた。とっくの昔に。でも憧れだったんだ。姉のような人間になることが。
僕は飲みかけのキャラメルラテをただ見つめていた。
「ねえ、吉野君。灯台ってさ、なんのためにあるのか知ってる?」
唐突に話を変える彩音さんの方を見ると、彼女は港を見ながらいう。
「簡単な表現をすれば道しるべだよね、船の。あそこに建っている灯台はここに港がありますよって伝えてくれるもの。あの灯台が放つ光は船に乗っている人からしたらほっとする光なんだろうね、きっと。ああやっと港に着いたって思えるような。でもね、違う理由で建てられている灯台もあるんだよ」
そういって港に向けていた顔を僕の方に向ける。
「危険だよって伝えるために光る灯台。暗礁や岩礁が多いところに建てられるもの」
もうわかるでしょ?と慈愛の籠った眼差しを込めていう。
「そんな光に近づいたら船はどうなるんだろうね」
わかりきっていることだ。
「座礁して、最悪船は沈んじゃう。君は灯台が放つ光の意味を勘違いしてその光に近づこうとしているんだよ。梨沙さん。いや、もしかしたら吉野家そのものが君にとってそんな灯台かもしれないね」
そこまで言って僕の反応を見た彩音さんは最後に告げてくる。
「でももう遅いのかもしれない。君は光に近づきすぎた。いや、元からそこにいたって表現したほうが良いのかな。暗い所に乗り上げて動けなくなった船はもう簡単にはそこから離れられない」
車が行き交う交差点で信号待ちをしている。人の喧騒と、タイヤが道路をこする音がうるさい。
さっきの話が頭を反芻する。灯台。その言葉が意味するところは正しいのかもしれない。
ずっと暗い場所にいたんだ。光はあるのにその光が決して僕を照らすことは無く、僕はずっとその暗闇から抜け出したかった。いつかは、いつかはと、暗い場所から光の射す方だけを見ていることしかできなかった。
ふと空を見上げる。さっきまで晴れていた空が曇天に変わっていた。もしかしたら雨が降るかもしれない。そんなどうでもいいことを考えて向き合うべき事から目を逸らす。
途方に暮れた気持ちの僕を、柔らかくて暖かいものが包みこんだ。
彩音さんが僕を抱きしめて背中に手を回している。さっきも同じようなことがあった。あのときは事故のようなものだった。でも今は違う。その暖かさに溺れてしまいたい。
何も言わずにただ抱きしめてくる彩音さんの背中に僕は縋りつくように手をまわした。
ぽつぽつと雫が降って来る。
信号が青に変わった。
「降ってきたね。早く駅に行こうか」
そう言って彩音さんが僕の手を握ってくる。僕はその手を今度は握り返して歩き出した。
僕は気づかなかった。見慣れた車の窓から暗い瞳が見つめていたことに。
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今日は政治資金パーティーに参加した。
吉野家とも繋がりの深い政治家であり、政界だけでなく、経済界に対する影響力も大きい。
国内最大政党の重鎮、九宝院光郎。
九宝院家は戦後間もないころから国家運営の中枢に存在し、現在は光郎を当主として、親族含め地方や国の有力者としてその権勢を振るい、あらゆる方面に強力なパイプを持っている。そして吉野家は、九宝院家と共に戦後の混乱を治め、国家繁栄の礎を共に築いた強力なパートナーであると、生前の祖父が言っていた。
しかし今は、そんな過去を知るものは一部の者たちだけで、吉野家は九宝院家を陰から支える大口の支援者というのが現在の一般認識となっている。
そんなパーティー会場に地位と権力、財力を持った人たち。地位を持つものはより高い地位を求め、権力を持つものはより強い権力を手に入れようとし、そして財力を持つものはより多くの財を成さんとするものが大勢この場に集まっている。
昨日までに参加した内輪の集まりとは一線を画す、権謀術数渦巻く蛇の集まり。
そんな渦の中心にいるパーティーの主催者である光郎氏に、会場に到着した私は両親と共に挨拶に向かった。
「おお、純也さん、翔子さん。来ていただいてありがとうございます」
直接見たのは初めてだったが、丁寧な口調と温厚に笑みを浮かべる表情とは裏腹に、瞳には力があり、隠しきれない老獪さがにじみ出ているようだった。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
父が社交辞令を返し、母は人好きする笑顔を浮かべて一礼する。
「おや、そちらはご息女ですかな?」
光郎氏はそう言って視線をこちらに向けてくる。私の一挙手一投足を見逃さんと、鋭い視線を向けてくる。
「はい、長女の咲です」
そう言って父が私に自己紹介を促してくる。
「初めまして九宝院様。咲と申します。お見知りおきを」
折り目正しく一礼し、顔を上げると、光郎氏は満足した様子で頷いた。
「初めまして咲さん。純也さん、翔子さんだけでなく吉野家の方々には色々とお世話になっている。あなたにも期待していますよ」
ドキリとする。吉野家の後継者だと認識されたようだ。
間髪入れずに父が笑い声と共に会話に割り込む。
「はっはっは。光郎さん、気が早いですな。まだ咲は学生ですよ。私もまだまだ現役ですから、これまで通り私に頼っていただきたいものです」
暗に私はまだ後継に決まったわけではない、と伝える父に光郎氏は、ほんの少しの逡巡の後頷きながらいう。
「ふむ、そうですな。咲さんにも色々な道があることでしょうし、純也さんにはこれからもよろしく頼みます」
そう言って話が変わる。
「そうそう、今日は私の息子も来とるのです」
光郎氏は傍に控えた秘書に何か伝え、それを聞いた秘書がどこかへ向かって行った。
「あら、光郎さんのご子息と言えば竜也さんのことでしょうか?」
母が確かめるように光郎氏に聞く。その名前が私の頭の中で引っかかる。ゾワゾワとしたものが近づいてくる。
「ええ、そうです。来年大学を卒業して、吉野グループでお世話になる事になっています。その事も私からお礼を言わせていただきたい。竜也にとって良い経験が積めると私は思っているのです。ありがとうございます」
光郎氏は父に向かって軽く頭を下げ感謝を伝える。
「いえいえ、私は何もしていませんよ。竜也君が吉野グループに入社するのは純粋に彼にその能力があっただけのことです。期待しています」
そうして光郎氏の秘書が一人の男性を連れて戻ってきた。
「吉野様。ご無沙汰しております。竜也です」
その顔に見覚えがあった。瞬間、悪寒が全身を襲う。
「あれ?」
竜也と名乗った男性が私の方を見てくる。
「咲さんじゃないですか。お久しぶりです」
彼は以前、私が友人に連れられた居酒屋にいた人で、その後断り切れずに車でドライブにいった人だった。
私は真っ白になった頭で何とか返事を返したけれど、光郎氏をはじめ、父と母も私たちが知り合いだったことに驚いている様子だった。
私も驚いた。彼は知り合ったときから姓を名乗らず、ただ周りから竜也と呼ばれていたから。九宝院という姓を聞いていれば私はもっと警戒していたはずだ。
それからの私は話を聞きながらただ愛想よく相槌をうつ人形のようになっていたと思う。
程なくして光郎氏が壇上に上がる時間になってくれた事が唯一の救いだった。そのタイミングであの人も一緒にいなくなったから。ただ最後にあの人は言った。
「これから、よろしくお願いしますね。咲さん」
その後の事はよく覚えていない。私の異変に気付いた母が車を手配して、人がいなくなっても目立たないタイミングで私を外に出してくれた。
家に帰る車内で、暖かさを強める春の温度に似合わない寒気を感じ、自分を抱え込むようにして両手を交差させ腕をさすった。
「最悪、最悪、最悪、最悪」
これからはあの人を理由なく無視することは出来ない。これはもう私個人の事情とは関係ない域に入った。吉野家と九宝院家の繋がりに関わることなのだから。
まさかこんな事になるなんて。
静かな車内で身を丸めて縮こまっていると、小さく車を叩く音が聞こえた。
信号待ちで止まっている車の窓から外を見ると雨が降り始めたことに気づく。
朝は晴れ渡っていた天気から一変して降り始めた雨は、まだ強くなりそうな気配がする。
雨音を聞きながら茫然と外を見ていると、信じられないものが目に飛び込んできた。
「しゅう・・・ちゃん?」
よく見ると間違いなく彼だった。
なんだあれは。何をしている。誰だそれは。
ッパキ。
私の何かが壊れた音がした。