土曜日1
朝、普段ならまだ布団の中で惰眠を貪っているような時間に目が覚めた。
今日から連休だ。平日は起きる気力が湧いてこないのに、休みに限って早起きしてしまうのは何故なのだろうか。
今日は朝早くから母と姉が父のもとに向かうことになっている。昨日唐突に告げられて驚く暇もなかった。今も現実感が湧かないが。
結局昨晩は唯とどこに行こうか調べていたら眠たくなって寝てしまった。唯からメッセージが送られてきたけど、僕が一人になることを確認されただけで予定の催促はされなかったなと思い出す。
眠気に瞼を押さえられるようにしてリビングに向かった。
ダイニングテーブルでは早くから朝食を食べる母と姉の姿があった。
おはようと言うと二人ともおはようと返してくる。
母と姉はすでに用意ができているらしい。二人とも化粧をしている。母が言う。
「修もたべる?」
「いや、あとで食べるよ」
まだ胃が受け付けそうになかったので冷蔵庫からお茶を出してコップに注ぎ、それを持って同じテーブルに着いた。
「修。ごはんはちゃんと食べないとダメよ。無理そうなら本家に行ってご馳走になりなさい。向こうにはもう伝えてるんだから。翔子さん達も遠慮しなくていいって言ってくれてるんだからね」
昨晩同じような事を聞いた気がするが、よほど僕の食事を心配しているのだろう。
食事は母がいないときは姉が作ってくれることが多い。姉との関係が良いとは言えない今でも姉は料理をよく作ってくれる。一緒に食べることは少なくなってしまったけど。
自分で料理をしようとしても偏ったメニューになりがちで、必要最低限の栄養が取れればいいというスタイルになってしまう。
近頃は完全栄養食なるものも出てきて、母と姉が食事を用意することが出来ない時、僕はそれを愛用している。おそらく二人が日本を離れている時も存分に活躍するに違いない。
「修。わかっているの?食事をおろそかにするような生活は認めないわよ。栄養だけ摂れればいいっていう食品にも私は否定的なのよ。私が作ってあげられないから仕方なく買っているけれど、食事は五感を刺激して人生を豊かにするものなのよ。だからなるべくそういうものに頼らないようにして欲しいのよ。あと、ある程度自炊できて損はないわ」
返事をしない僕の心を読んだかのように先回りして忠告してくる母に冷や汗が出る。
「大丈夫だよ。最近の冷食は優秀なんだよ」
そう、僕の武器は完全栄養食だけではない。昨今の家事を楽にしたいというニーズに答えた冷食宅配なるものがあるのだ。完全栄養食に否定的な母を「こっちの方がマシでしょ」という雑な説得で説き伏せて始めたものだがこれもまた素晴らしい。母や姉の手料理には劣るが、味もそこそこ良くて必要な栄養を摂れるなら使って損はない。
僕の言葉を聞いた母がこめかみにヒビが入ったかのような顔で言う。
「修。帰ったら料理の勉強ね。しばらく私と一緒に料理しなさい」
寝起きで頭が完全に回っていなくて素直な受け答えをしてしまった。母の機嫌を損ねてしまったようだ。でも大丈夫、しばらく家には帰ってこない。その間にきっと忘れる。
「修。あまり母さんを怒らせないで。この後相手をするのは私なのよ?」
姉が眉間に軽くシワを寄せながら僕を見てくるがその目は本気で怒っている感じではなかった。機嫌を損ねたわけではなさそうで良かったと思うけど、ここで調子に乗って姉の機嫌まで悪くしたくはない僕は素直に謝ることにした。
「ごめんなさい。ちゃんと食べます」
「なあに梨沙。私と話すのが面倒だとでも言いたいの?修。あなた母親の私より梨沙の言うことを素直に聞くのね?悲しいわ」
「ほらみなさい、面倒なことになったじゃない」
いや、それは姉の余計な一言に原因があるのでは?母もそんなところを気にしなくてもいいのに。謝ったのに怒られるのは何なのだろうか。
「梨沙。あなた最近お母さんに冷たくないかしら。反抗期なの?」
「反抗期ならわざわざ親の仕事に付いて行かないでしょうに」
なんだかんだ言いながら仲の良い二人の賑やかな声を聞きながら、これ以上藪から蛇が出ないように僕は口をつぐんでお茶をすする。こうやって親がいるときの姉は普通に接してくれるのに、二人の時は何故か棘のある表情や声音になるのはやはり僕が何かしたのだろうか。気にはなるけど今聞く気にはなれない。
二人が朝食を食べ終わって最後の支度をしてから玄関に立っている。その見送りに僕も玄関前に来た。
「修。何度も言うけど、何かあったらちゃんと連絡して、本家を頼ること。いいわね?」
よほど信用が無いのだろう。母がうんざりするほどの念押しをしてくるが、顔や声にそんな気持ちを表せばまた厄介な繰り返しになってしまうので僕はまじめな様子を醸し出して返事をした。
「わかってるよ。ちゃんとするから心配しないで」
「修のその顔は全然わかってないときの顔よ。もう少しレパートリーを増やさないとこれから先しんどいわよ」
姉が鋭い言葉で刺してくる。
「修。本当にわかっているの?」
怪訝な表情で顔を寄せてくる母に後ずさりながら頷き返した。
「母さんもう時間よ。帰ったら私が指導しておくわ」
母の小言を姉が打ち切るように言って終わらせた。どんな指導をされるのか気になる。最近姉と関わることが少ないせいで嬉しいようなそうでないような複雑な心境になりながらもこの機を逃すまいと、ここぞとばかりに「気を付けて行ってきてね」言い、玄関に置いてあるサンダルを履いて母と姉の間をすり抜けドアを開ける。母と姉はそろって「やれやれ」という風に首を横に振っていた。
玄関の表には本家の運転手が迎えとして来ていた。僕が挨拶をし、母と姉もそれぞれ挨拶をする。運転手は母と姉の荷物を持って車へ案内してくれた。僕も車まで行って見送ろうとその後に続く。
庭を歩き、家と外を隔てる門を抜ける。家の前には見慣れた車がとまっていて、近づくと後部座席のドアが開いた。そういう機能もあったのかと思ったが、そうではないらしい。中から人ができてきて目を丸くする。
「陽子さん、梨沙さんおはようございます。修君もおはよう」
唯だった。なんで?という疑問を投げかける前に母が答える
「あら唯ちゃん!おはよう。でもどうしたの?こんな朝早くに」
母の当たり前の返答には僕の疑問も乗っかっていた。
「昨日陽子さん達が友也さんの仕事を手伝うために日本を発つと知らされて驚きました。お父さんがいつになく申し訳なさそうにしていました」
唯は眉を下げて申し訳なさそうな微笑みを浮かべながら話を続ける。
「今日は修君と共通の友達がサッカーの試合に出るんです。その応援に学校に行く予定だったんですけど、修君がちゃんと用意して学校に行けるか少し心配だったのでお二人のお見送りのついでに修君の様子を見ようと思ってきました」
「仕事のことは気にしないでね。仕方のないことだから。それよりも来てくれてありがとう。修はやればできる子なはずなのだけど、どうにも日常生活能力に難ありだから、唯ちゃんに見てもらえると助かるわ。きっとこの後二度寝するつもりだったはずだから。」
困った様子で唯に語り掛ける母。僕を信用していない事がひしひしと伝わってくる物言いに口を挟みたくなるが、先ほどの二の舞はゴメンなので黙って難しい顔をしながら遺憾の意を表明する。
「なに?修。何か言いたい事でもあるのかしら」
「なにもありません」
猫に目を付けられたネズミのような状態である。気分次第で追いかけ回されかねない状況に僕は態度を翻して答えた。そんなやりとりを見て唯はクスクス笑っていたけど、ふと何かに気づいたかのように姉を見た。僕もつられて姉をみると、感情の読めない表情で僕達を眺めていた。そういえばさっきから何も言わない姉に僕は変に思う。
「梨沙さん?」
「会話の流れに乗れなくて戸惑っていたのよ。おはよう唯」
僕達の視線を意識したのか、姉は綺麗な微笑みを浮かべて遅れた挨拶を唯に返した。
こんな表情の姉を見るのは久しぶりのような気がする。僕には見せないその表情になんとも言えない気持ちになる。
「はい、梨沙さんも一緒に行くんですね」
「ええ、少し両親のしていることを見てみたくてね。観光目的もあるけれど」
「そうなんですね、帰ったら土産話でも聞かせてください」
「タイミングが合えばね。戻ったら本家に顔を出すつもりではあるわ」
「私、木曜日から三日ほど泊りで友人と出かけることになっているんです。もしかしたら合わないかもしれませんね」
「そう、それは残念ね」
姉は全く残念そうにしていない。
昔はもっとくだけた話し方をしていたはずだけど、他人行儀なやりとりに違和感がある。何かあったのだろうか。両者笑顔でやりとりしているのに棘のある感じで、剣呑な雰囲気に僕はたじろぐ。
「唯ちゃん、友達とお泊り旅行なんて、高等部でも上手くやれているのね。少しは修も見習って欲しいわ。この子ったら出不精だし、他人とあまり関わろうとしないからちゃんとやれているか心配なのよ」
良くも悪くも空気を読まない母の発言に空気が弛緩する。いい横やりの入れ方だと思うけど、しれっとその槍で僕を刺すのはやめて欲しい。そんな上手い槍さばきは求めてない。
「ふふ、そうですね。修君はもう少し人と関わって気持ちを知ろうとしたほうがいいかもしれませんね」
「修。別に友達をたくさん作る必要なんてないけれど、人と円滑なコミュニケーションを取れる能力は必要だわ。そういうところは唯を見習ったほうがいいわね」
唯と姉も母に続いて僕を刺してくる。気づいたら三人の矛先が僕の方に向いている状況に理解が追い付かない。どう返してもどこかから刺される雰囲気に僕は苦笑いを浮かべるしかなく、朝から嫌な汗がとまらない。
車のトランクを閉める音が響く。タイミング良く運転手が荷物をしまい終わったようだ。
「ほ、ほら母さんも姉さんも、もうそろそろ出発だよ。早く車に乗らないと」
やれやれといった感じで三人揃って首を振る。何故こういうところだけ息が合うのか。
何か言いたげな母が姉に押し込まれるように車に乗り込んだ。姉もその後に続く。
「唯は行かないの?」
「は?」
「ごめんなさい」
冗談のつもりで言ったのに、あまりにも鋭い視線と聞いたことない低い声音が僕に謝罪を口にさせた。
運転手が乗り込み、いよいよ出発というところで、後部座席の窓を開けて姉をまたぐようにして母が顔を見せる。姉が「いい加減にして」と言い、不機嫌そうな顔でそれを避けているが、気にした様子もなく母が言う。
「唯ちゃん、修のことよろしくね」
「任されました」
明るい表情でそれに答える唯。
「修、唯ちゃんに迷惑をかけないように」
「なんか僕に厳しくない?」
唯と母が笑っている。姉は変わらず不機嫌顔である。
「じゃあ行ってくるわね」
そう言って母が本来の位置に戻る。母から解放された姉の表情がいくらか和らいだように見える。
「いってらっしゃい。気を付けて」
僕と唯はゆっくり走りだす車を見送った。
唯と一緒に家に戻る。普段ありえない状況なのに自然に落ち着くのは何故なのか不思議に思う。僕はまだ部屋着のままだったのでとりあえず着替えようと自室に向かった。後ろには当然のように唯がついてきていて、一緒に部屋に入ろうとしているので戸惑い交じりに言う。
「えっと、着替えるからリビングにいてくれない?」
「え?ああ、そういうことか。てっきりベッドにもぐりこむ気かと思った」
「しないよ。どれだけ信用無いの?」
「ないでしょ」
まさかの即答である。
「そうですか」
「ここまできたついでに修君の部屋を見て行こうかな」
「ええ」
唯は困惑する僕を尻目に扉を開けて勝手に部屋に入って行く。
「わあ、久しぶりに修君の部屋に来たけど変わらないね。相変わらず面白味のない部屋」
傍若無人な言動にため息を吐く。最近僕に遠慮が無くなってきてるように思うのは気のせいではないと思う。
「面白くないからリビングに行っててよ」
そう言ったのに唯は気にも留めない様子でなぜかベッドに腰掛けた。
「なんで座るの?」
「修君、目を離すと寝そうなんだもん。着替える次いでにシャワーでも浴びておいでよ。目覚めるでしょ?」
さすがにそこまで怠惰ではないし、なんなら見送りまでの間に目が覚めている。でも嫌な汗をかいたのは事実なのでシャワーを浴びるのは正直ありだと思う。それを唯に決められるのは釈然としないが。
「まあシャワーを浴びるのは良いとして、唯はリビングで待っててよ」
そう念を押すが唯はベッドの上でスマホをいじり始めていて、僕の言葉に返事を返すどころか、「早くいけ」と言いたげに僕に向かって片手を振る。部屋の主に対してそれはないだろうと思いながらも、何を言っても無駄な様子に僕は諦め、ため息を吐いてクローゼットから着替えを引っ張り出し浴室に向かった。
シャワーを浴び終えてリビングに向かうも唯の姿は無かった。
仕方なく部屋に呼びに行くと何故か唯が僕のベットで寝ていた。
しっかり掛け布団までかぶっている。ものの見事にミイラ取りがミイラになっているという、見るに堪えない状況に軽くめまいがする。
大きなため息をついてから唯を起こそうとベッドに近づき窺うように顔を覗く。
この部屋は僕の部屋でベッドは僕のものだ。しかし女の子の寝顔を覗くということに若干の躊躇いと罪悪感みたいなものが不思議と湧いてくる。
整った顔をしている。
ずっと一緒にいるのにこうして唯の顔をまじまじ眺めるのは初めてのような気がする。
きっと昔はあったのだと思う。数多くの記憶の引き出しに整理もせずにしまったものだからどこにあるのか見つからないのだろう。
なぜか見とれてしまう相貌に僕の意識が吸い込まれるような気がした。
ふと唯が身じろぎして前髪が瞼にかかる。僕は無意識にその髪をどかそうと手を伸ばし、触れる。
それがきっかけだったのか唯が目を開ける。
目が合う。
とても近い。唯の瞳に僕の顔が映るのが分かるほどの距離。
言葉はない。
数舜の不思議な時間。唯のまばたきで意識が戻り、僕は平然を装って顔を離す。
「おはよう唯。よく眠れた?」
唯はベッドで体を起こし、顔を伏せる。
「朝早かったの」
「・・・え?」
かろうじて聞き取れるかどうかの小さな声で唯がつぶやき、脈絡のない唐突な報告に僕は疑問を込めて声をかける。
すると唯は、伏せていた顔をこちらに向けて睨みつけてきた。その顔は赤く染まっている。
「だから!朝早くてちょっと寝不足だったの!だからちょっと横になっただけだったの!」
今度は悲鳴にも似たような叫びが僕の部屋に響く。でも羞恥によるものとわかるそれに僕は冷静に答える。
「その割にはしっかり布団をかぶっていたけど?」
ついには頭から湯気が立ち上りそうな程顔を真っ赤にしながら唯が絶叫する。
「うるさいな!もういいでしょ!」
そう言って無理やり話しを打ち切って唯がベッドから立ち上がる。
「ッフフ、そんなに必死にならなくてもいいだろ。アハハ」
普段見ない間の抜けたあまりにも子供な態度をとる唯の姿に僕はたまらず笑いを漏らした。
「そんなに笑わなくてもいいでしょ」
今度は顔を赤くしたまましょぼくれるようにして言う。
「ックク、ごめんごめん。ッフフ」
「もう!いい加減おこるよ!」
唯はそう言いながら赤い顔のまま迫力のひとかけらも無く迫って来る
「ごめんって。こんな唯を見るのは初めてのような気がしてさ。小さい頃はこんなこともあったのかもしれないけど、あんまり昔の事おぼえてないから、不思議と懐かしいって思って。唯にもこういうところがあったんだなって。唯って最近大人になった感じがして、いつも一緒にいるけどどこか距離を感じることもあってさ。なんて言うんだろう言葉にするのは難しいけど、違和感?というかちょっと寂しい感じ?みたいな気持ちがあって。だからこんな唯を見られるのが嬉しいというか楽しいというか」
僕の話を聞いているうちに顔の赤みが引いた唯が言う。
「そんな風に思ってたの?別に私は変わったつもりなんてないけど。修君はこんな私の方がいいの?」
「良い悪いって話じゃないよ。どんな唯も唯でしょ。でもまぁ、こういう気の置けないやりとりできるのは嬉しいし好きだよ」
素直な気持ちを口にしたつもりだったけど、唯はうつむきがちになって耳を赤くする。なにか気に障ったかなと少し不安になる。
「そ、そう」
歯切れ悪く返事をしたと思えば、スタスタと扉に向かって歩いていった。扉の前で表情をうかがえない程度に顔をこちらに向けて言う。
「修君、朝ごはん食べたの?」
「ん?まだだけど。母さんが作って置いて行ってくれたからそれを食べようかなって思ってる」
「じゃあ制服に着替えて降りておいでよ。温め直して用意しておくから」
少しだけ見えた潤んだ瞳、赤くしたままの耳で告げて部屋を出て行った唯は感じたことのない感覚を僕の中に残していった。
制服に着替え、リビングに行くとダイニングテーブルの上には向かい合うように食事が並べられていて、一方の席には唯が座り、対面に同じものが用意されている席に僕が着く。
「修君の分を用意しようと思ったらお味噌汁が余っちゃって。私も朝ごはんまだだったから頂こうかなと思って。卵焼きは自分で作ったよ」
「そっか、ありがとう。いただきます」
ごはんと味噌汁、卵焼きと漬物という簡単なものではあるが漬物はさておき、味噌汁も卵焼きも僕は上手く作れない。そんなレベルの僕と比べるのも間違っているのだろうけど、唯も料理ができるのかと少し感心してしまう。自分の場合、卵料理の中でも簡単な部類に入るだろう卵焼きであっても出汁の準備やら巻く手間やらを考えると作りたいとは思えない。卵料理で作るとしたらいつも目玉焼きになってしまう。
僕は食べていなかったけど、さっきまで母と姉と僕の三人で囲っていた食卓に、今は唯と二人で座り食事をとっている。不思議と馴染んでしまっていることに少し驚く。
「陽子さんが作ったお味噌汁、お母さんが作るものと同じ味がする」
そう言って、にこにこしながら食事を楽しむ唯の表情を見て僕も表情が綻ぶ。料理をしたいとは思わないけど、誰かと食事をとるのは悪くない。でもきっとそれは誰でもいい訳ではなくて。
「修君。昨日はごめんね。無理なこと言っちゃって」
「ん?なんのこと?」
「ほら・・・その、水曜日のこと」
「ああ、別に気にしなくていいよ。無茶なこと言うなぁ、とは思ったけどね。でも嫌じゃないし水曜日に行くところも僕なりに一応考えたからさ。唯が気に入るかどうかは分からないけど」
そう言うと唯は目を丸くして固まってしまった。
「え?なにその反応」
「ううん、まさかちゃんと考えてくれたなんて思ってなくて。いや、その・・・自分で言うのも変なんだけどさ、結構面倒なこと押し付けたと思ってるから・・・」
昨日僕に勢いよく言い放ったものとは正反対の言い訳を言うようにもじもじする唯の姿に思わず笑ってしまう。
「アハハ、そんなに気にしてたの?昨日の勢いはどこに行ったのさ」
「うぅ。昨日のは、なんというか」
笑うとまた唯の機嫌を損ねてしまうと思って笑いを堪えようとしたけど、うろたえて言葉に詰まる唯に含み笑いが止まらない。
そんな僕を見て唯は少し恥ずかしそうに顔を赤くしながら拗ねたように言う。
「もう、そんなに笑わないでよ」
「ごめん、なんか昨日と今日で唯が正反対になってて以外な一面を見れたというか。なんかまた表現が難しいんだけど、距離が縮まったような感じがして嬉しいんだよ。別にからかうつもりなんてないよ」
そう言うと唯は何も言わず、耳を赤くしたまま食事を続けた。
食事を終えて唯が食器類を片付け始める。僕も手伝おうとすると唯は苦笑い気味に「逆に邪魔になるから大人しくソファにでも座ってて」と厄介払いされてしまった。さすがに食器を軽く流して食洗機に入れるだけなら出来ると思ってそう伝えたのだが、「食洗器に入れる洗剤の量と入れる場所は分かるの?」と言われてしまい何も言い返せずソファにとぼとぼ向かって行くことしかできなかった。そんな僕を見て唯は「アハハッ、今どきの食洗器は洗剤なんて自動で入れてくれるのにそんなことも知らないなんてやっぱりダメだね」と大いに笑われる始末だった。
食事の時とはうって変わってここぞとばかり唯が僕を攻めてくるけど、家事能力皆無の僕は何も言い返すことができないので大人しくソファに座ってテレビをつけて、毒にも薬にもならない朝の情報番組を見ることにした。
少しして、唯が後片付けを終えて僕が座っているソファへ両手にマグカップを持ってやってきた。
「はい、修君は砂糖少し多めのカフェオレでよかったよね」
そう言って僕の目の前のテーブルに一つのマグカップを置く。隣には自分が飲むのだろうもう一つのマグカップを置いてソファに座った。マグカップに入ったコーヒーの色合いは同じに見えるが唯のものには砂糖が入っていないことは知っている。
僕は「ありがとう」と言い、唯が入れてくれたカフェオレを口にする。
「ッ苦!」
「あ、間違えた。ごめんごめん」
悪びれる様子もなく僕が飲んだマグカップと自分のマグカップを入れ替える唯に恨みがましい目線を送りながら言う。
「わざとやってない?こっちは本当に砂糖入ってるんだよね?」
「飲めばわかるよ」
にやにやしながら言う唯を横目に見ながら再びマグカップを口につける。なめるようにほんの少しだけ口に含んで味を確かめる。今度はしっかり甘かった。
ほっとして今度はしっかりとコーヒーを口にする。そんな僕の様子を見て唯はクスクス笑いながら自分のコーヒーを飲みはじめた。
「わざとでしょ?」
「同じ色だからねぇ、うっかりうっかり」
そうふざける唯に僕は内心絶対わざとだと確信する。
「怒ってるの?」
「怒ってないよ。でもやられっぱなしも嫌だからね」
「やっぱりわざとじゃないか」
堂々と自白するものだからもはや呆れてしまう。ジトっとした目線を唯に送るものの、彼女は気にした様子もなく、むしろいたずらが成功して嬉しそうにニコニコしながら自分のコーヒーを楽しんでいる。
ソファに二人で座りながら静かにテレビを眺めてコーヒーを飲む。ゆったりとした時間とコーヒーのおいしさに心が安らぐのを感じた。
コーヒーを飲み切って少しすると瞼が重くなってくる。
「修君?もうすぐ行かなきゃいけない時間じゃない?」
唯はウトウトし始めた僕を見て二の腕あたりのシャツを軽く引っ張ってゆすってくる。
「ん?ああ、もうこんな時間か、ちょっと顔洗ってくるよ」
そう言って立ち上がり両手を伸ばして体を伸ばす。
「もう、仕方ないなぁ」
唯も苦笑しながらテーブルに置いてあった僕と自分のマグカップ持って立ち上がる。
ありがとうと伝えて洗面所に向かい顔を洗う。
さっきまで不思議な眠気を感じていたけど顔を洗ったらしっかり目が覚めた。
リビングに戻るとマグカップを食洗器に入れる唯に声をかける
「あれ?マグカップだけで食洗機使うの?」
ふとした疑問を投げると唯はムッとして返してくる。
「まだスタートしてなかったんだよ。食器は軽く洗って入れておいただけで、マグカップのスペースを空けておいたの。今から洗浄開始だよ」
ピっと鳴る食洗機の音と洗浄の音がして洗い始めたとわかる。
なるほどと思いながら唯の家事能力の高さをうかがい知れる要領の良さに浅慮を詫びる。
「ごめんなさい」
「フフ、っさ準備もできたようだし行こっか」
そう言って唯はカバンを手にする。僕のカバンは部屋に置いてある。
「カバンとってくるよ。唯は先に出てて」
「わかった。外で待ってる」
部屋にカバンを取りに戻ってから玄関を出る。唯が春の日差しを浴びながら待っている。
僕は鍵を閉めて唯と二人歩き出した。