8
コンコン
「修」
ドアをノックする音と聞きなれた声が聞こえる
「修、まだ寝ているの?」
続けて聞こえる声に、意識がはっきりとしないままゆっくり目を覚ました。
「大丈夫?学校遅れるわよ」
そんな声に時計を見ると時刻はいつもなら家を出る時間だった。
慌てて飛び起きて、声に答える。
「ごめん姉さん。今起きた、すぐに用意して行くよ」
「そう、私は先に行くわね」
そう言ってドアから足音が遠ざかっていく。
昨日、姉から言われた事を考えていたらなかなか眠れなかった。
こんなに寝過ごすなんて初めての事だった。
慌てて用意を始める。早くしないと遅刻する。洗面台で顔を洗って、歯を磨き、朝ごはんは食べずに慌てて制服に着替えた。
駅までは歩いて十五分程度だが、学校に間に合う電車の時間まではギリギリのところだった。
「まずいな、走らないと間に合わないかも」
独り言を言いながら靴を履いて外に出る。春らしい気持ちのいい朝だが、のんびりしている場合ではない、意識を切り替えて駅に向かって走りだした。
自分の家もそうだが、周辺の家も庭に木が植えられているところが多い。
道路やその周辺にも木々が多いが、しっかり手入れされており、四季によって色々な風景に変わるこの街の道が好きだ。
そんな道を走っていると気持ちよくなってくる。これで時間に追われていなければもっと気持ちいいだろう。
たまにはランニングをしてみるのも悪くないかもしれない。ゴールデンウィークは空いている日が多いし、体がなまらないようにするのに丁度いいかもしれない。
そんな風に思いながら駅に向かって走っていた。
横断歩道で信号待ちをしている時に上着を脱いで、カッターシャツだけになる。
気温も暖かくなって、軽く汗をかいたが、心地いい風が体を冷やしてくれる。
この調子なら電車にも間に合いそうだ。
そう思いながら、待っている間に少し乱れた呼吸を整えようとしていた時、車の短いクラクションが聞こえる。
その方向に目をやると昨日、本家から自宅に帰る際に乗せてもらった黒い車が近くに止まった。
「修君どうしたの?遅れちゃうよ。乗ってきなよ」
後部座席の窓から唯が顔を出してそう言う。
「唯珍しいね、車なんて」
「そんな事言ってる時間ないでしょ、いいから早く乗りなよ」
そう言って唯が車のドアを開けてくれた。
「確かに、じゃあお言葉に甘えて」
唯が隣の席に移動して場所を開けてくれたので、僕は唯が座っていた席に座ってドアを閉めた。
「ありがとう、だして下さい」
そう唯が運転手に声をかけて車が進み出す。
「どうしたの?修君こそ珍しいじゃない」
「昨日、あまり眠れなくてね、ちょっと寝過ごした」
「そうなの?私も昨日眠るのが遅くなって朝遅れちゃったんだ」
珍しい、唯はあまり夜更かししないタイプだったのに。
きっと咲姉が戻っていたから姉妹で話でもしていたのだろう。
「咲姉と話でもしてた?」
そう聞くと唯は浮かない顔をする。
「ううん、姉さんはあの後疲れたからって、すぐに部屋に戻ったの。私は少し考え事してて眠れなかったんだ」
「考え事?何かあったの?」
すると唯は視線を窓の外に移して外を見ながら、少し間を開けて言う
「私にも悩みの一つや二つあるよ」
なぜか拗ねた様子で素っ気なく答える唯。
「相談ぐらいになら乗れるかもしれないよ。とは言っても解決策が出せるかはわからないけど」
外を見ていた唯が視線を戻し僕をみる。苦虫を噛み潰したようなひどい顔で『何言ってるの?』と言外に伝わってくるような、そんな顔だ。
(そんな顔できるの?僕に相談するのがそんなに嫌?)
「なんて顔するんだよ、僕が何かした?」
「・・・」
無言のまま唯の視線が僕に突き刺さる。
ここまであからさまな態度を唯がするところなんてほとんど見たことがない。
「え?ほんとに僕がなにかしたの?心当たりがないんだけど」
すると唯は「はあ」と大きいため息をつく
「何もないよ。もういい」
再度ため息をつき、再び外に目を向けて黙りこむ唯。
さすがに理不尽ではなかろうか。
(電車に乗ればよかったなぁ)
などと思いながら話しかけづらい空気になり、僕も窓の外に目を向けた。
「修君はゴールデンウィークなにか予定ある?」
車が信号で止まったときに突然唯が聞いてきてそっちを見ると、じっと僕を見つめていた。
ぼーっとしていたのに加えて不機嫌そうな様子の唯に少したじろぐ。
「えーっと、土曜日は真鍋の試合を見に行くつもりだけど、他は今のところ特に無いかな」
「そっか、ならオケ部が火曜日に文化ホールでやるから、見に来なよ。それに私も出るから」
拒否は許さない。そんな目で見てくる。断る理由もないし、予定がないと言ったばかりだ。
「う、うんわかった。後で時間教えて」
すると唯は表情を緩めて、続けて言う。
「で、水曜はちょっと私に付き合って出かけてよ」
「え?なんで?」
とっさにでた僕の疑問に対して、間髪入れずに唯が畳みかけてくるように言う。
「嫌なの?」
変わらない表情ではあるが、とても圧を感じる。
嫌なの?と聞かれて『嫌です』なんてド直球に答えられる神経を僕は持ち合わせていない。
状況によって空気を読める日本人なのだ。僕は。
「嫌じゃないよ、急だったからどうしたんだろうって思って聞いたつもりなんだけど・・・ごめんなさい」
なんで謝るの?なんて唯が言う。目が笑っていない。
確かに。なんで謝ってるんだ僕は。いや、でもこの判断は間違っていないと思うんだ。
「じゃあ水曜は空けといてね」
「それはいいんだけど、どこに行くの?」
「修君、考えといて」
「え?―――・・・え?」
さすがに戸惑いを禁じ得ない。
出かけたいと言ったのは唯なのに、行くところは僕が決めるの?
理解が追い付かずに次の言葉が出てこない。さすがにこの状況判断は難しすぎる。
長年一緒にいるのにこんな唯を見るのは初めてだ。
そんな僕の様子を見かねたのか唯が
「修君、私はステージに立つんだよ?オケ部と。すごく神経を使うし、疲れるんだよ。日曜と月曜は練習とリハがあるし。私はとっても疲れるんだよ」
いやいや、それはわかるよ。とんでもなく疲れるだろう。やたら疲れることを強調してくるけど、それは理解できる。
だからってなんで僕が行き先を決めることになるのだろうか。
(そもそも疲れるなら水曜はゆっくり休んだほうがいいんじゃないか?)
そんな風に思ってそのまま口から出そうになったが、唯の顔を見てその言葉を飲み込んだ。
(いやダメだ、なんかよくわからないけれど、これはダメだ)
寝不足の頭をフル回転させる。春の陽気の中、走ってかいた汗が乾いたのに、違う汗が出てくる。
「えーっと、息抜き的な意味で、出かけたいみたいな感じ?」
なんとか当たり障りない言葉で唯の考えを引き出そうと試みる。
すると唯はまたしてもため息をつく。どうやら求めていた返答ではなかったようだ。
どうしろと?
「まぁ、そんなとこ。私はピアノに集中するから、そっちは修君お願いね」
有無を言わせない様子で言ってくるので僕は了承するしかなかった。
どうしよう。疲れている人を癒す方法なんて知らない上に、出かける場所まで僕が決めなければならないなんて、いくらなんでも難易度が高すぎる。
「わかったよ。考えとく」
そう答えるのが精一杯だった。
悩んでいる僕を見ながら唯がニヤニヤしている。
(唯ってこんな顔もするんだな)
そんなことを思うが、僕の頭はすでにパンクしそうだ。
後で真鍋にでも相談しよう。姉に聞くのもいいかもしれない。
そうこうしているうちに車は学園の門を抜けて、エントラス前に止まった。




