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キミの秘密も愛してる  作者: シェリンカ
第五章 不安の種
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3 広がる不安

「ねえ真実さん。待ってよ」


 言葉だけで追いかけてくる海君を、私は今回ばかりは絶対にふり返らないと心に誓う。

 

(待たない! そんな……笑いながら呼んだって、絶対に待たない!)


 私は黙ったままさらに足を速める。

 

「ゴメン。ふざけすぎた。待って」


 いくら頼まれたって、海君が決して走って追いかけてはこないってわかってたって、そう簡単にはもう止まれない。

 これは私の意地だ。

 

「……あれ? ねえ真実さん。ほら、面白いのがあるよ」


 ふいに海君の声音が変わり、しかもその声が、立ち止まったように聞こえたけれど、私はかまわず歩き続けた。

 

(そんな手には乗りません!)

 

「ねえ本当だって……ちょっと見て! ……ほら!」

 

(見ません!)


 心の中で思いっきり意地悪に返事をして、そのまま歩き続ける。

 真っ直ぐに前を見たまま、わき目もふらずに歩き続ける。

 

 だけどしばらくするとだんだん不安になってきて、私の歩く速度は自然とどんどん落ちていく。

 あれっきり聞こえなくなってしまった海君の私を呼ぶ声に、本当はたまらなく不安が募る。

 

 だって私は知っている。

 懸命に気づかないフリを続けているけれど、海君の体調が常に万全の状態ではないことを、頭のどこかでもうわかってる。

 

 だからちょっとしたこと、ほんの些細なことにも、たまらなく不安になる。

 真っ青な顔をして、眉根をギュッと寄せていたあの日の海君の顔が、どうしようもなく頭をチラつく。

 

(まさか……! ひょっとして……?)


 不安に駆られて、もうどうしようもなくて、のろのろとなっていた足をついに止めた私は、いつの間にかすぐうしろに来ていた海君に、両肩をガシッと掴まれた。

 

(……よかった。具合が悪くなったわけじゃなかったんだ……)


 ホッとした瞬間、そのまま体をクルリと反対向きにされる。

 

「えっ? 何?」


 真正面から向きあうかたちになった海君は、笑い含みの視線だけで、私に道路脇の壁に貼られたポスターを示した。

 

 それまで彼の言葉を軽く聞き流していただけだった私は、その時になって初めて、彼が私に見せようとしてくれていたものに気がついた。

 

 壁に何枚も貼られたポスター。

 目に飛びこんできたのは深い深い藍色。

 

『海――私の心に残るふるさと』

 

 そこに書き連ねられていた文字に、思わず隣に立つ海君の顔を見上げた。

 

「これって真実さんとおんなじ思いなんじゃないの? ……ね、おもしろいでしょ?」


 目が眩みそうなくらいに鮮やかに笑った海君に、思わずつられて笑い返してしまった。

 

(だめだ……負けちゃう……)


 どんなに怒っていても、意地を張っていても、どうやら私は海君の笑顔には勝てないようだ。

 初めからわかっていたこと。

 これ以上はいくら意地を張ったって無意味なだけ。

 

 私はため息を吐いて、海君に一歩近づいた。


(みっともなくって……悔しくって……でも、もういいよ。どうでもいいや、そんなこと……)

 

 今、隣にいてくれるこの笑顔を、もっとしっかり見つめなきゃもったいない。

 海君と一緒にいられるこの時を、もっと大切にしないと、――私はきっと後悔する。

 

 どうして急にそんなふうに思うようになったのかと訊かれれば、それはもう、悪い予感に追われる本能だったとしか答えようがないけれど、私はその時確かにそう感じていた。

 そしてそれが自分にとって一番大切なことだと判断した。

 そんな決心をせずにはいられないくらい、海君の笑顔は眩しくて――どこか儚かった。



 

「これって写真展みたいだよ……?」


 ポスターを指でなぞるようにしながら、書かれている文字を読んで、海君は私をふり返る。

 

「真実さんは、海が好きでしょ?」

 

 私が『海』と名づけた彼に、改めてそんなことを尋ねられると、思わず言葉に詰まる。

 けれども、それは確かに本当のことだったので、私は黙ったまま頷いた。

 

「これ、一緒に見に行こうか?」


 にっこり笑って海君は私に提案する。

 私もちょうど、そうできたらいいな――なんて思っていたところだったので、もう一度こっくりと頷く。

 

「真実さんは、本当に海が好きだもんね?」


 からかうようなその口調にはさすがに反論しておかなくちゃと、口を開きかけたが、彼の顔を見上げたら、何も言えなくなった。

 

 海君はこの上なく優しい瞳で、私を見つめていた。

 なんだか切ない。

 

「どうしたの?」


 てっきり私から怒りの反撃が来るだろうと想定して、わざとからかい気味に話していたらしい海君は、少し意外な顔をする。

 

 その顔に微笑みかける。

 なんでもないという意味で笑う。

 でも私の心の均衡は、すでに大きく大きく傾きつつあった。



 

 海君と一緒に行ったその写真展は、表通りから少し入った裏路地の、あまり目立たないギャラリーでおこなわれていた。

 

 場所的にはとても狭く、他にお客の姿もない。

 ほんの気持ち程度の観覧料を支払って、私たちは手を繋いだまま、その藍色に囲まれた空間に入った。

 

 ごく普通の、海の写真だった。

 大きさ的にはかなり大きな作品になるのかもしれない。

 一枚一枚が壁一枚分くらいの大きさで、大迫力で迫ってくる。

 

 そこに写っているのは、南の島のため息が出るような青い海ではない。

 沢山の小さな漁船が浮かぶ海。

 どちらかと言えば暗い深いその色。

 すぐ近くに迫る、無数の対岸の島。

 

 それらに囲まれた小さな切れ切れの海には、生活の匂いがする。

 かもめの声と、蒸気船の汽笛の音。

 人々の声とそれを全て飲みこむ波の音。

 

 目を閉じればいつでも私の耳に残っている大切な故郷の音が、一気に甦って、私は息をするのもやっとだった。


(どうしよう……涙が出そうだ……!)

 

 繋いでいた手にも思わず力が入ってしまったけれど、海君はそんな私の手を、負けないくらいの強さで握り返してくれた。

 

「真実さんはどうして、俺を『海』って呼ぶことにしたの?」


 囁くように問いかけられて、仰ぎ見たその顔は、とても優しい顔だった。

 初めて会ったあの夜から、海君はずっとそんな表情で私を見つめてくれている。

 だから――。

 

「なんだか優しい気持ちになれたから……私がずっと帰りたいと思っていた、あの故郷の海と同じに……すごく懐かしくって、離れたくないような感じがしたから……ふふっ……会ったばっかりだったのにこれって変だね……」

 

 小さく笑った私の頭を、海君がそっと引き寄せた。


「ありがとう。すっごく嬉しい」

 

 声が震えてた。

 私もそっと、自分から海君の胸に頭を預ける。


「こっちこそありがとう……本当にいつもいつもありがとう……」

 

 涙声になった私の頭に、海君が大きな手を載せる。

 撫でるように、そっと優しく私の短い髪を梳く。


「真実さん……夏休みになったら故郷に帰りなよ」

 

 海君にはどうして、いつも私の考えていることがわかってしまうんだろう。

 それが恥ずかしい時も、悔しい時もたくさんある。

 でもそれ以上に、本当に泣きたいくらいに嬉しくなる瞬間がある。

 

 どうしようもなく救われる。

 心から安心する。

 こんなに自分をわかってくれる相手が隣にいてくれるなんて、まるで夢の中の話みたいだ。

 

(でも夢じゃない……)


 髪に触れる大好きな長い指に体じゅうの神経を集中させながら、私は自分に言い聞かせるように何度も確認する。


(夢なんかじゃない……だけど目を閉じてもう一度開いた時に、彼がまだここにいてくれる保証はどこにもない……)

 

 胸が苦しい。

 最初っからわかっていて、受け入れているつもりだったことが、今はもうこんなに胸に痛い。

 

 いなくなってしまうのかもしれない。

 海君は、本当にもうすぐ私の傍からいなくなってしまうのかもしれない。

 この恋は幻みたいな恋だったんだと、私はその時、改めて思い知るのかもしれない。

 

(辛いよ……悲しいよ……でもこの瞬間、海君が隣にいてくれることが、それが私の今の幸せの全てだから……!)


 まだ分からない先のことを憂えて、落ちこんでいく気持ちを私はふり切った。

 

「うん、そうする。ひさしぶりに家に帰ってみる……」


 笑顔で頷いた私に、海君も笑顔になった。

 

「またこっちに帰ってくる時には、俺が迎えに行くよ。どこまでだって……真実さんのお迎えが俺の仕事だからね」

「うん」


 嬉しくて幸せで、そしてちょっぴりおかしくって、私は笑った。

 

「真実さんが大好きなその『海』を、俺も見に行くから……」

「うん」


 私もあの風景を海君に見せたいと思った。

 私の大好きな景色を、匂いを、音を、一緒に感じてほしいと思った。

 

 そうしたら聞けるかもしれない。

 私が疑問に思って、不安に思っていること全部、あの場所でなら海君に尋ねることができるかもしれない。

 

 それでたとえどんな答えが返ってきたとしても、それを受け止めることができるかもしれない。

 

 そう思うと少しだけ安心して、肩の力が抜けたような気がした。

 ずいぶんひさしぶりに、考えごとをせずに、今日は眠りにつける気がした。

 

 ホッとため息を吐く私を、海君が優しく見下ろしている。

 誰よりも何よりも愛しい瞳で笑っている。

 だから私はそっと背伸びして、その頬にキスする。

 

「真実さん?」


 驚いて私を見つめ返した海君を、本当の意味で初めて驚かすことができたと、なんだか嬉しくなった。

 



 あなたのことを想う時、自然と浮かんでくるのが私の本当の笑顔。

 作りものなんかじゃない本物の笑顔。

 

 あなたと出会うまでは知らなかった。

 あなたがいないと思い出せない。

 

 だからどうかもっと傍にいて。

 くり返しくり返し私に思い出させて。

 

 できることなら永遠に――。

 どうか私の傍にいて。

 

 お願い――。


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