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作者: 鈴月詩希

 金木犀が薫る、秋風の坂道で、彼女は私を上から見下ろし潤んだ瞳でこう告げた。




「私を拐って見みたまえよ」




「私には、君を拐ってしまうことは出来ないよ。君はあまりにも眩しすぎる」




 私がそう伝えると、彼女の背中を向けて。




「君は、意気地なしだ」




 ぽつり、と溢れた彼女のその言葉は秋の空にどこまでも高く吸い込まれていった。




    ※




 私が彼女と出会ったのは木枯らしが頬を刺す冬のことであった。


 とある寂れた劇場で彼女はディーヴァとして出演していた。


 私は恋人と別れ、相手と見るはずだった劇を独りで観ていた。


 無論、傷心のさなかの事だ。まともに感情が動くはずもない。


 そう、思っていた。




 しかし、彼女が歌う歌に、彼女のその切なげな表情に、今の私を重ねてしまってどうにも心がざわついた。


 久しく忘れていた、感情の動き、感動を私はその時に取り戻したのだ。


 それ以来、彼女の公演は出来うる限り足を運び、観劇するようになった。




 いったい幾つの季節が流れたであろうか。


 彼女の属していた劇団は、寂れた劇場で静かにその幕を閉じてしまった。


 いつかは来ると思っていたその瞬間が訪れたのだ。


 寂れた劇場で、彼女はそれでも儚げに、寂しげに、歌を歌った。


 その歌は寂しさの中にどこかやりきった感情が含まれていて、私はその歌に再び心を打たれる想いであった。


 私はその日、初めて演者の出入り口で彼女が出てくるのを待った。


 この私の想いをどうしても、最後を迎えた彼女に一言伝えたかったのだ。


 氷雨が降り注ぎ、傘を打つ音が私の心臓の音に共鳴している。


 ぽつりぽつり、と柔らかく響いたその音は、いつの間にか私の外へと溢れ出していた。


 その音は季節に似つかわしくなく驟雨の様相で、私は溺れる思いだった。




 止まない雨だと感じたその時間は、あまりにも長く。胸が締め付けられる思いであった。


 しかし、それでも私は待ったのだ。


 彼女に。いいや、彼女とたった一言を交わすそのためだけに。





          ※





 そしてその時はやってきた。


 彼女が通路から出てきたのだ。


 私は疾る気持ちを抑えつけて、彼女へと歩み寄る。




「初めまして、此度の終幕を、鑑賞させていただきました。とても、とても素晴らしかった。貴女のその切なくも鋼を打つかのような澄んだ歌声は私の心を確かに動かした。今回で貴女達の劇団はその幕を閉じてしまうのかも知れない、けれども、私は終生貴女の歌声を忘れることはありません」




 抑えたつもりでいても、心から溢れた声はダムの放流の如き勢いで私の口をついて出た。


 唐突のことで、彼女は困惑しているであろう。


 私は恐る恐るその表情を盗み見た。


 すると。


 彼女は困ったような、それでいて嬉しそうな微笑みを浮かべていた。




「やぁ、ありがとう。君はのことは私も知っているよ。いつだっただろう、確かいつかの秋の頃から私達の公演を度々観に来てくれていたね。私は、舞台の上から観客の顔をよく見ていたからね。まぁ趣味のようなものだけれど、君がとても憂いを帯びた表情で私を視ていたのは知っていたよ。あぁ、それでも君が私の歌を聞いて最後にはいつも泣いてくれていたのはとても、とても嬉しかったなあ」




 私は、彼女のその言葉に口の端があがるのを抑えられなかった。


 嬉しかったのだ、純粋に。


 私が彼女を観ていたように、彼女も私のことを確かに視ていてくれたのだ。


 これ程喜ばしいことがあるだろうか。いいや、私は恋人と別れて以来はここまで嬉しいという感情を得たことはなかった。


 震える手を強く握り、私は彼女にありったけの感情をぶつけることにした。


 彼女と会話出来るのはこれが最後かもしれない。彼女たちの劇団が失くなってしまえば、私は彼女の足跡を辿ることが難しくなる。


 無論、彼女が有名になって雑誌等に載るようになればまた別かも知れない。


 けれど、私はどこか確信していたのだ、彼女はこのままでは舞台から降りてしまう。


 私の夢で歌っていた妖精はその楽園から姿を消してしまう。


 そんな風に感じていた。




「私は、もっと貴女の歌を聞きたい。この切なる想いはどうすれば叶うでしょうか」




「ふむ、君は私の歌に心酔しているのかい? けれど、それではまだ私の心には届かない。私の歌に酔ってしまっている内は、まだ駄目なんだ。本当に私を君の金糸雀にしたいのならば……」




 そう彼女は小さく息を吸うと、自らの胸に手を添え、凛とした声で不敵に微笑んだ。




「私を拐って見たまえよ」




 私は、彼女のその言葉に胸が詰まった。私のようなつまらない男が彼女を鳥籠に入れてしまうことは出来ない。


 私は大空で羽ばたき歌い舞う彼女をどうしようもなく好きだった。


 その感情は、幼い少年が上級生に抱くような憧憬にも似た、幼く、純粋な恋慕であった。




「私には、君を拐ってしまうことは出来ないよ。君はあまりにも眩しすぎる」




 私のその言葉に彼女は寂しげに視線を落としつぶやいた。




「君は、意気地なしだ」




 私は彼女のその淡い瞳を、どうにか掬い上げたくて思わず声を掛けてしまった。


 今思えば、あの時の私は正気ではなかったように思う。


 


「どうか、私と文通してもらえないだろうか。僅かでも良い。貴女の足跡が知りたいんだ」




 私がそう言うと、彼女は先程までの憂いが嘘であったかのように不敵に笑うと私の胸に軽く拳を当てた。




「良いとも。私の歌が君の心を動かしたんだろう? それなら、次は君が私の心に触れる番だ。どうか溺れないでくれたまえよ?」





      ※





 それから、私達は幾度と文を交わした。


 他愛もない日常の報告であったり、他者に言えないような愚痴もこぼしあった。


 その一文字一文が、面映ゆく愛おしかった。




 そんな彼女の訃報を受け取ったのは、文が届かなくなってから二つの秋を越え、三つ目の秋の頃であった。


 久方の彼女の文に心を踊らせながら封筒を切った私は、紅葉を眺めながら読もうと縁側に出ていた。


 疾る気持ちを抑えることもなく文を広げると、味気のない文字で、彼女の名と逝去につき葬儀の知らせのみが書いてあった。


 私は視界が赤熱するのを感じた。


 それは哀しみから目頭が熱くなったのではない。


 ふつふつと煮え立つ怒りが私の視界を紅葉に染めたのだ。


 私はこの怒りをどうすることも出来ずに、簡単な旅支度をするとすぐに家を飛び出した。


 彼女の死地は私の家とは離れていたのだ。




 彼女の葬儀会場に着くと、彼女の娘が私を出迎えた。


 そう、彼女には娘がいたのだ。


 そんなことすらも私はこの時になるまで知らなかった。




 彼女の娘は彼女に似た、憂いを帯びた瞳をしていて、私にはそれがどうにもやるせなかった。




「本日は遠路母のためにありがとうございます。どうか、別れの花を手向けては貰えませんか?」




 見るに、齢十に満たないであろう彼女の娘の言葉に、私は彼女が娘に対し厳格に接していたことを察した。


 私はその瞬間、煮え立つ怒りをどこかに落としてきたように僅かに苦笑した。




「あぁ。ありがとう。彼女の死は悔やんでも悔やみきれないよ。是非花を」




 私はそう伝えると、道中で購入していた花を彼女の棺に手向けた。


 別に何ということはない。葬儀にふさわしく菊を持ってきただけだ。


 けれども、私はこの菊に彼女への僅かな恨み言をこめた。




「貴女は眠っていても美しい。その心の輝きをもっとそばで見ていたかったよ」




 僅かな言葉を残すと、私は葬儀会場を後にした。


 私は帰りの列車で、堪えきれずに他者の目も憚らずにただただ涙した。





      ※





 あれから四十九日経った頃、彼女の娘から彼女が最後に書いていた文が送られてきた。


 そこにはこう書いてあった。




「やぁ、君と文通を始めて幾筋の雲が空を泳いだだろうか。そろそろ私の心も決まったので、君に再びこの言葉を送ろうと思う」




「私を拐ってみたまえよ」




「あぁ、でも君は臆病だからきっと私を拐うことなんて出来ないと言うだろうね。君が、、私の心を慮るあまり、そう答えるのも今では分かる。だからこそ、君の返信を先読みしてこう付け加えておこう」




『君は、意気地なしだ』




 私はその短い手紙を読んで、三日程泣きはらした。


 涙に腫れてうずく目蓋を開くと、空には鰯雲が泳いでいた。




 私は、その鰯雲を見やり、水差しから一口飲むと、ぽつりと呟いた。




「あぁ。私はどうしようもなく意気地なしであった」




ぽつり、と溢れた私のその言葉は秋の空にどこまでも高く吸い込まれていった。

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