生まれつきの白変種を患う妻は昔から体が弱かった。
学生時代、一般的に言う「色白」という言葉の範疇から瞭かに外れる白変種独特の、彼女の頬の、髪の、爪の、横を向いた時の睫毛の白さに初めて目を奪われたことを、彼女が私の妻となり数十年を経た今でも瞼の裏に鮮明に憶えている。学生服の重たげな紺のスカートの裾を、白く華奢な膝にはためかせて歩く姿は、その特異な「白さ」を強みとも弱みともせず彼女自身の特徴でしかないと従えている凛とした佇まいを備えており、彼女は数百の凡俗さの集団の中で自然と目を引く存在であったと言ってもいいだろう。
その姿ゆえに、彼女が今まで生きてきた中で人よりも余計な災難を強いられてきただろうことは十分に承知しているし、私の知らない部分に及ぶということも容易に想像が付く。彼女が私と知り合い、私の妻となってからの彼女の苦労は、最も身近な存在として、傍らで見守り、時には守るべく尽力することもできた。彼女も私を最も身近な味方として、今まで「友達」として近くに居た友人たちにすらも決して見せなかった自身に被せられる災難を私に共有してくれるようになった。他の誰一人として許されることのなかった彼女の内心の無防備さを許される唯一の人間として、そしてただ一人である「特別な」彼女の配偶者であるという事実が私の存在を支えるというあまりにも卑しい事実を誇りとする反面で恥じながら、彼女に身近にいることを許されてからの数十年を、私は生きていたのかもしれないと思う。
「ねえ」
かけられた声に目を上げると、妻が朝食を準備したテーブル越しに、私を覗き込んでいた。
「どうしたの、ぼーっとして」
「いや、うん」
「心配事でもあるの」
「仕事のことでね、少し」
どうでもいい嘘を吐き、淹れられた珈琲を静かに口に含む。「仕事」と言う言葉は、それだけで妻の不可侵な領域であることを示せる万能な免罪符であるということを私は何百回も確かめてきた。
「そうなの」
「たいしたことじゃないんだ」
「それなら、いいけど」
年齢を重ねることにより、妻の白さは一般的な老いによる退色と馴染み、以前ほど他人の目を引くものではなくなった。色白な、もしくは白人の血の交じった初老の女性にも見えるのかもしれない。どちらにしてもそれは彼女の背負ってきた特異性の数百分の一にも満たない重さしか持たず、平たく言ってしまうと彼女は老いを重ねる今になってようやく、「人並みな」存在であることを許されたということなのだろう。事実、人の目を引かなくなったということを私は妻と並んで歩くたびに実感として覚えるし、彼女自身も人目を避けていた従来よりも自由に振る舞うことが出来るようになったと感じる。
「今度、バレエの公演を観に行くの」
「そうか、珍しいね」
「ええ、最近は人が多い場所に行くのも、怖くなくなって」
「いいことだね、楽しんでおいで」
彼女は老いを帯びたとはいえ、表情はかつての少女の頃の屈託なさを失ってはいない。むしろ自由であることを許された昨今の方が、彼女は特別さの重い枷を背負っていた女学生の頃よりも、無邪気な表情で笑うようになった。それは私たちに子供が居ないから、彼女が母親の役割を背負うことがなく、一人の少女の頃の気持ちのままで生きることが出来たからなのかもしれないと私は既に湯気を失った珈琲を啜りながら思う。
私には、もう一つ、彼女に言い出せていないことがあった。彼女の夫として心を許され身近に生きることを喜びながら、それを誇りとする自らの矮小さ、卑しさよりも、その一つの秘密は私の存在を業の深いものにしているという実感がある。
彼女の髪の白さは老いによるものではない。少女の頃と変わらぬ白さをたたえた現在の妻に、私は時折、数十年前の幻を見る。それは甘美な悪夢であると言ってしまってもいいのかもしれない。少女の頃、学年中の注目を集めていた特別な白い少女だった妻が、まだ、私と知り合う前のことだ。
私の祖母が住んでいた家の隣には、あばら家とでも呼ぶのが相応しい廃屋があった。両親に連れられて祖母の家を訪れた頃から、その生垣の向こうに存在した草が背丈よりも高く生い茂る薄暗い廃屋に私は一人生垣を潜って忍び込み、そこを誰も知らない自分だけの秘密の居場所としていた。お茶を入れた水筒と図書館で借りた本を持ち込み、陽が暮れるまでの数時間を過ごすのが、中学へ上がり、高校へ上がってからも私の一人きりの最も大切な時間だった。
その場所は同級生の間ではその家は家主が自殺しただとか死体が見つかっただとか幽霊を見ただとかという噂で忌避される場所だった。怖がられ、近付かれないということは、薄暗く、埃と黴の匂いのする私の一人きりの居場所が守られているということで私にとっては好都合だった。
ある日の放課後に、私がいつもの通り廃屋の二階に続く階段の踊り場、ガラス窓を通して夕暮れの陽が差し込む場所で本を読んでいた時に階下より人の声が聞こえた。
「あいつ、本当に来るかな」
「来るんじゃない」
「バカだから真に受けて来るよ」
「女から呼び出しされるなんて一度も経験ないだろうからね」
数人の女たちが同級生の男を手紙で呼び出しているらしい。悪意に満ちた笑い声をひそひそと滲ませる女たちは三人ほど居るらしかった。私は自分がここに居るということを気付かれぬよう息を潜めた。
――全く面倒な
自分一人の場所を侵されていることへの不快さと、束になって悪意を弄ぶ女たちに見つかる事態の面倒さに、私は心から辟易した。もう、今日はとっとと荷物を片付けてこの場所を立ち去ってしまうことが何よりの善策であるように思われたが、階段下の部屋に潜んでいるらしい女たちに見つからないようにこの場所を立ち去ることは難しいことだった。
「あ、ほら、来るよ」
「あたしたちのことは言うんじゃないよ」
誰かが汚れた畳に突き倒される音がした。女たちはぱたぱたと足音を立てて裏口へ走った。その場に取り残されたらしい一人の気配が気にかかり、私は少しの逡巡の後、階下を覗ける場所から首を伸ばして下を覗き込んでみた。
そこには白い少女が倒れていた。校内で全員揃いの制服を着ているうちの一人だけの白い髪をした娘。先ほどの数人に彼女はいじめを受けているのだろうということが容易に想像された。そして意中でもない男を呼び出して笑いものにする餌として使われたのだろうということも。目を引くことは災難を招くこと。そんなことを思い、私は白い娘に同情を覚えた。そして初めて間近に見たその美しさと、業の深さを思い、息を殺した。彼女のことを思えば、間もなく訪れるだろう災難の前に、畳に倒れ込んでいる彼女を立たせ、逃がしてやることが私の取るべき行動だったのだろう。そう、その時にでも、私はそれが分かっていたのだ。ただ、……そう、ただ、間近で初めて見た彼女の頬の白さや影を作る白い睫の長さや、力なく放り出された人形のような四肢があまりに、美しかったから。その空間に私と気を失う彼女の二人きりであるその時間が永遠にも続くように思われたから。ただ、私は行動を起こさなかったのだ。彼女が間もなく災難に巻き込まれることを含めて、その姿を無関係な第三者として見守っていたいという欲求に負けてしまったのだ。
汚れた畳に広がる白い髪。まっすぐに芯のある彼女自身の存在のようなその髪が重力に従えられるままに汚れた畳に広がる。時間はただ流れる。ゆっくりなのか、一瞬だったのか、それとも長い時間が存在したのかは思い出せない。実際のところは数十秒から数分なのだろうとも思えたけれど、その空間の中に倒れた白い娘と、それを見ている私の二人しか存在しない時間。それは密度高く完結したものに思われた。
その沈黙は間もなく破られる。それは予期していたものではあったものの、事態は私の甘い認識を遥かに凌駕した。呼び出された男は学内でも有名な粗野で愚鈍な男ではあったものの、目の前に倒れている白い娘を見て事態を把握したのだろう。男は娘に声を掛けて話を聞くことすらもせず、彼女を犯し始めた。事態の急変に私は身を凍らせた。息を殺し、身体を強張らせたまま、倒れたままの彼女がスカートをめくられて白い肌を晒しゆくことをただ見ていることしかできなかった。そこで、私に意気地があったのなら、男を背後から殴り倒して彼女を連れて逃げることもできただろう。足音を立てて注意を引き、彼女を逃がすこともできただろう。警察を呼ぶという手立てもあったかもしれない。過去になってしまえば全ての可能性が、自分が選べなかった可能性がいくらでも見えるようになる。見えるようになっても何一つ手を伸ばすことが出来ない。それは全て過去というものに付随する事柄ではある。
私は息を飲んで事態を見守った。見守ることしかできなかった。最初、意識を失っていた白い娘は乱暴をされるうちに意識を取り戻す。そして抵抗を試みて男に殴られる。白い髪を一絡げに捕まれ、神聖さすら帯びていた白い肌を差し込む赤茶けた夕暮れの光に晒す様を、私は映画の中の出来事のように見守っていた。
口を掌で抑え込まれ、両の目を見開いた彼女の瞳は差し込んだ光に赤く光った。細い棒のような白い手足をばたつかせて男に殴られて鼻から赤い血が流れる。再び意識を失ったように力が抜けた白い娘は男に蹂躙されるままになった。私はそれを黙って見ていた。私は何も悪くないはずだった。無関係な第三者で、何の責任も、関わりも、ない存在のはずだった。そうなのだと自らに言い聞かせた。私はただここで本を読んでいただけなのだと。面倒は一方的に持ち込まれ、私は静かな時間を侵害された被害者なのだと。無関係な娘が無関係な女どもの差し金で無関係な男に犯されていることを、傍観せざるを得ない被害者なのだと。流れた鼻血が少女の白い頬を赤く汚す。白い髪を赤く汚す。男が動くたびに快感に呻き、その反動で白い肢体が大きく揺れた。私はそれを同情を以て見ていたはずだった。私はただの傍観者である。同情を以て息を殺し、事態を見守っていた私はいつかその蹂躙される娘の白さに劣情を抱いていることに気付かざるを得なかった。それは何よりの私の罪であると思う。仕方がないと言ってしまえば、嘘にはなるまい。しかし、私は彼女の白さに目を奪われて、その四肢の、睫毛の、指先の、髪の、頬の、白さに見惚れて、それが汚されていく様を黙って見ていたのだ。彼女は声を上げなかった。男がその口元から掌を離した後も、男のうめき声のみが廃屋の夕暮れに漏れ聞こえた。私は己の無力さと、情けなさを呪いながら、この不幸を目の当たりにしたことを幸運だとすら感じていた。それをその後何十年も、恐らく死ぬまで忘れられない情景だと思いながら、私は男がことを終え、少女を取り残していなくなるまでの一部始終を目に焼き付けていた。
男が少女を畳に残したまま立ち去って、先ほどまでの出来事は全てが夕暮れの闇に沈んだ。彼女は畳に倒れたままで起き上がる気配はなかった。私は身を縮めて様子を伺った後に、その傍らへ行き、彼女の汚れた白い頬へ手を伸ばした。
「だいじょうぶか」
幾度か手の甲で少女の頬を叩くと、少女は白い睫をたたえた瞼を重そうに持ち上げた。
「水でも持ってこようか」
生気のなかった瞳に羞恥の炎が宿るのを見た。彼女は乱された着衣を掻き抱き、私に背を向けた。
「だいじょうぶ、です」
「助けられなくてごめん、酷い目に遭ったね」
私は何も見ていない。私は何も知らない第三者で、不幸な彼女を助ける善人として、その場に現れた様子を装った。そして彼女はそれを信じた。「あなたのように、まともな人が居てくれてよかった」そう言って、彼女は私に心を許し、高校を卒業した後、私の妻となると言った。
私は彼女が白いから、特別だから、美しいから、彼女を愛したのだということを彼女に隠したまま生きてきた。彼女が特性を持たぬ普通の一人の女性であったとしても彼女を彼女として愛したという顔をして、偶然不運な特性を持ち合わせた不幸をともに嘆いて。欺瞞を抱いた私の愛は欺瞞を抱いていることを隠したまま生を終える。それが私のできるせめてもの償いなのだと感じている。