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イコは背が低く、枝葉に引っかからないのであっという間に森の奥へ姿を消した。彼女が自分たちを呼びに来たことで、バンに見捨てられたわけではないと悟ったアムドラは大きく安堵していたが、その安心を象徴する小鬼の姿がすぐに見えなくなったことで再び取り乱した。
「イコ!」
その背を見失うまいと、アムドラは腰をかがめて懸命にイコの後を追う。
「い、イコ少し待つのだ」
アムドラは膨大な魔力を持ってはいるが、それを肉体の強化に利用することはない。幼少期に引き起こした魔力の暴走以来、魔王子の中には力を振るうことそのものへの恐怖心が根付いてしまっていた。
長い間城で安寧をむさぼっていたアムドラは、体力面では普通の魔物とさして変わらないのだ。故に、腰を曲げた状態ですばしこい小鬼の後を追い、木々の根や大小の石ころ、点在する泥濘を避けつつ進むこと数分で、魔王子の腰は悲鳴を上げ始めていた。
「まったく、アムドラはトロいなぁ」
「はぁ、はぁ……すまぬ」
息も絶え絶え、自分でも情けなるほどに体力がないアムドラは、ヒョイヒョイと木々の根を飛び越えて戻ってきたイコの前で座り込んでしまった。
「イコよ、バンと人間はどうなったのだ」
「バンは、ニンゲンの狩りを手伝う。ニンゲンは、お礼にオイラ達を里に案内してくれる」
イコがニカッと笑って答えた。
「さっき、獣の声が聞こえた。たぶん、バンが仕留めたんだ」
まるで自分の手柄のように自慢げに述べたイコがカチューシャを外して角を隠しているのは、見た目で魔物だとわからないようにするためだろう。アムドラにはバンがどのようにして人間と交渉したのかわからないが、ある大きな懸念があった。
問題は、自分とシャルロットだ。
呼吸を整えたアムドラは自身の側頭部に手をやり、まったく息を弾ませることなく平然と追いついてきた猫耳の魔物を見やった。
魔王子の視線を受けたシャルロットは、これ見よがしに両耳をパタパタと動かして口を開いた。
「……牢屋番が何を考えているのかわかりませんが、そう簡単にいくものとは思えませんわ」
彼女の言う通り。
爬虫類型や一つ目の鬼などと違い、シャルロットもアムドラもいくつかの特徴を除けば、外見は人間に近いと言える。それでもバンやイコと比べれば、その違いは歴然としていた。
「人間に道案内など依頼せずとも、そなたの鼻で人里を探すことはできぬか?」
過去に人間の兵を虐殺した経験のあるアムドラは、人間との友和を望みながらも生のそれと対峙するのは数百年ぶりだった。
イコの口振りから察するに、バンが獲物をしとめた後は、恐らく人間を伴って自分たちと合流することになるだろう。
アムドラの心に根強く残る過去の心理的外傷が、人間と相対すること自体に恐怖心を抱かせていた。
もし、バンが連れてきた人間が自分たちに刃を向けたら。
もちろんバンとシャルロットがいれば、おいそれと自身の命が脅かされるような事態にはなるまい。
しかし、万が一ということもありうる。
それに、よしんばバンが連れてくる人間が、シャルロットとアムドラを快く受け入れてくれたとしても、彼らが属する社会――村か、街か、とにかく集団が暮らす社会において、追放されたとはいえ魔王子たる自分が受け入れられるはずがない。その場にバンとシャルロットをも凌ぐ剛の者がいれば、心弱き自分は捕らえられ、かつて獄中で死した勇者のような最期を迎えるかもしれない。その恐怖はきっと、自分の心の堰を壊してしまうだろう。自分の中に眠る魔王の血は、再び暴虐の限りを尽くすに違いない。
かつて日が沈みかけた戦場で、目に入るものすべてを朱に染めた力の奔流をこそ、アムドラは恐れていたのだ。
「アムドラは馬鹿だなー。せっかくバンのおかげでニンゲンが案内してくれることになったのに、どうしてオイラが別の里を探すんだよ?」
「いや、余は別のとは言っておらぬが……」
「とにかく、やだよ。めんどうくさいもん」
アムドラの想いなど微塵も察していないイコが、小さな胸の前で腕を組んで口をヘの字に曲げた。主君に対して多分に失礼な口をきいたイコだったが、めずらしくシャルロットの叱責が飛ばなかった。彼女はピンと尻尾を立てて、右手に鞭を握り、左手の人差指を自身のふくよかな唇へ押し当てた。
「……お静かに」
一言言い含めて、シャルロットは木立の奥へ視線を固定しつつ、アムドラへ手招きした。
「イコ、バンと待ち合わせている場所へ行きなさい。わたくしたちは、ここで待ちます」
「なんでだ? オイラ、バンにアムドラとシャルロットを連れてこいって言われてるんだ!」
イコが、バンの槍を抱え直して口を尖らせた。穂先を木々の向こうへ向けて動かしているのは、その先に合流場所があるということだろう。
アムドラが目を細めて見やると、濃い緑の向こうに、自分たちが居る場所よりも陽光が多く差し込んでいることが分かった。少し、開けた場所があるのだ。
「お前やバンと違って、わたくしたちは人間に慣れていないのですわ。……バンにそう言えばわかります」
イコに向かって言いながら、シャルロットは視線をアムドラに向けていた。またしても耳をピコピコと動かしていた。
なるほど、慣れていないのはお互い様か。
アムドラはシャルロットの意図を察して、彼女の横に並んだ。
「イコ、余からも頼む。バンにそのように伝えてくれ」
「ぶーっ! もう、なんなんだよ急に……」
お使いを果たせそうにないイコは憮然として頬を膨らませたが、それには構わず、シャルロットとアムドラは三体が通ってきたことでできた轍を避け、森の側面へと姿を消した。
◇
バンは背中の獲物を担ぎ直し、少し離れてついて来る二人の人間に少し待つように伝えた。
進行方向に茂っている背の高い草花の向こうに、きらりと光るものを見つけたのだ。慎重に進んでいくと茂みをかき分けて現れたのは、周囲の草よりも鮮やかな緑の髪をもつ小鬼――イコだった。
「バン! ……それ、バンが獲ったのか!? すごいな!」
バンが現れたことで笑顔を取り戻したイコは、彼が右肩に担いだ四足の獣の姿を認めて歓声を上げた。
「ああ。……イコ、殿下とシャルロットはどうしたんだ?」
バンは背中に担いでいた獲物――茶色の毛で覆われた細長い身体をもつ、四足の獣――を地面に降ろして笑顔で応じたが、居るはずの二体の姿がないことに気がつき、辺りを見渡しながら訊ねた。
「アムドラとシャルロットはすぐ近くまで来てるよ。でも『ニンゲンには慣れてない』とか言って、隠れてるんだ!」
バンは、オイラはちゃんと連れてきたのに、と二体を非難するイコの頭を撫でてやりつつ、バンは空いている手を顎にやってふむ、と鼻から息を吹いた。
イコがやってきた方向に注意を向ければ、なるほど右の茂みの奥から魔物二体分の気配を感じることができた。シャルロットの猜疑に満ちた気配と、禍々しくも心地よい魔の波動に満ちたアムドラのもの。二体とも姿だけは隠しているが、位置をこちらに悟らせないようにしているわけではないようだった。
シャルロットは、人魔の融和に反対している。自分が人間を連れてくると知って隠れたのだから、穏やかでないことを考えているかとも思ったが、彼女の気配から殺意を感じ取ることはできなかった。
ならば問題は、殿下の方か。
バンはたいして利きもしない鼻をヒクつかせて苦笑いを浮かべた。
魔力の気配に色濃く不安が滲んでしまっている。これでは、内政にしても外相を任せるにしても、居並ぶ魔物の高官たちを相手に腹芸の一つも使えない。魔王がアムドラを政治の道から遠ざけていたことに今更ながら得心がいったバンであった。
さらに、自分が知る限り、殿下はほとんど城から出ることもなかった故、生きた人間を目にする機会も極端に少なかっただろうことは想像に難くない。
バンは横倒しになった獲物――“スス”をチラリと見て考えた。
これを狩る際、自分はヨサクとイサクに、明らかに人外の力を見せつけた。彼らは目を見開いて驚いてはいたものの、自分を忌避するようなことはなかった。それが辺境に住む者の純朴さ故なのか、彼らが鈍なだけなのかはわからないが、ヨサクとイサクならば殿下とシャルロットを目にしても受け入れられるのではないか。それを、二体の魔物のわからせるためにはどうすれば――
「バン、あれを返してくれよぅ」
「……」
ススの周りを歩きまわって、物珍しそうにそれを観察していたイコがいつの間にかバンの傍へ来て、彼の顔を見上げていた。
「角に髪の毛が擦れてくすぐったいんだ。カチューシャ、返してくれよぅ」
前髪をかき上げ、イコは小さな角の周囲をポリポリと掻いた。その様子を見たバンは、懐から赤サンゴのカチューシャを取り出しながら思った。
殿下とシャルロットに、よいデモンストレーションとなるだろう。
「ヨサク、イサク!」
カチューシャを付けたイコの額には、小さな角がある。それは皮膚から突き出ているわけではなく、頭蓋骨の突起が皮膚を押し上げている形のものだった。高さ二センチに満たないそれは、魔物の尺度で言うなら角というよりはおできくらいの可愛らしいものであるが、人間にしてみれば、彼女が人外の存在であると知らしめるのに十分な役割を果たしてくれるだろう。
彼らに自分たちの正体を明かすのだ。
バンは、イコから槍を受け取り、代わりにカチューシャを渡してやりながらアムドラとシャルロットが身を潜めている木々の向こうに目をやった。
「おんや、こんまい奴がおる!」
「バンさん、こったら森の深くに、わらすっこを連れてきたらダメだんべ!」
バンの後方の茂みから、ヨサクとイサクが現れた。バンの視線の先で、にわかに緊張が高まった。
方言が適当ですみませんm(__)m